聖女と人形 -1-
フォックス? 誰のこと? 帰る、てどういうこと? ーーいえ、それより、この人、誰? 私と同じ肌の色。それに、私のこと、『パンドラ』って……。
「き、君は誰だ? 一体、どこから入ってきた!?」
振り返った長谷川さんの声は上擦って、緊張が伝わってきた。
当然だ。そこに人の気配なんて今の今までなかったんだから。私と長谷川さんしか、この部屋の中で生きている人間はいなかった。それに……きっと、長谷川さんも感じているに違いない。彼女が放つ、圧倒的な存在感。おぞましいようで、神々しい。一瞬にして、身体の芯まで氷漬けにされたような悪寒。この感覚を、私は知っている。
「あなた……天使ね?」
長谷川さんの陰から女性を見上げ、そう訊ねると、彼女はふっと目を細めた。蔑むようなそれではないのに、立場の違いを見せつけられる、そんな優雅で余裕に溢れた笑みだった。確信した。私の直感は正しかったんだ、て。
「お願い! 助けて!」
確信を得るなり、私は立ち上がり、天使に詰め寄っていた。
もう、誰でもよかった。すがれるものなら、何にでもすがろうと思った。相手が天使だろうと、悪魔だろうと。
「和幸くんを助けて! このままじゃ、明日、殺されてしまう!」
「は……」
天使はきょとんとして、ぱちくりと目を瞬かせた。まさか、いきなりこんなことを頼まれるとは思ってもいなかったんだろう。当然だ。初対面で、どんな目的を持つ天使なのかも分からないのに。我ながら唐突で無茶なことをしていると思う。でも、私にはもうほかに頼れるものはない。
「お願い! 天使なら、何か特別な力があるんでしょう!? あなたがどんな理由で私の前に現れたのかは知らない。でも……お願い! 和幸くんを……私の大切な人を、助けてください!」
「ちょっと、お待ちなさいな。落ち着いて、パンドラ。何をおっしゃっているのか分かりませんわ」
降参でもするように天使は両手を挙げた。
「あなたの大切な人……『和幸』って、あなたの恋人のことですわよね? そこにいる彼は違いますの?」
天使の紅い瞳がちらりと私の背後を見やった。
「彼は……」と、私は思わず、口ごもった。「彼は……違うんです」
「違うって……そういえば、以前も、あの坊やにそっくりなルルが現れたことがありましたわね」
「以前……?」
「ほら、廃校で坊やとファーストキスを交わしたときですわ」
天使は、ふふ、と意味ありげに笑って見せた。
廃校での、彼との初めてのキス。遠い昔のような、幻にも思える一夜を思い出し、胸が締め付けられた。ーーそうだ、初めて長谷川さんと出会ったのもあの日だった。
どうしてこの天使はそんなことを知ってるの? それに、彼女の口ぶりは、まるで和幸くんのことを知っているみたいな……。天使だからなんでも知っているの? でも、それなら、長谷川さんを和幸くんと間違えたりしないはずだ。彼女の知識には、どうも偏りがある。なぜ?
「フォックスは興味ない様子だったので、放っといていたのですが……ずっと不思議に思っていたんですのよね。双子かなにかですの?」
「藤本和幸は俺のクローンだ」
ズバリとそんな言葉が背後から私の胸を貫いた。
クローンーー彼の存在を否定するような言葉。彼を苦しめてきた残酷なレッテル。私にとって、言いたくも、聞きたくもない言葉だった。
「クローン!?」
天使は仰天した様子で、組んでいた脚を解いて身を乗り出した。
「そんな……クローンですって? この世界には、そんなものが存在しているんですの?」
やがて、天使は頭を抱え、「なるほど」とため息ついた。
「そこまでこの世界が狂っていたなんて。『裁き』も始まるわけですわね」
「悪いが、もう限界だ」
そんな困り果てた声がして、背後で長谷川さんが立ち上がる気配がした。
「天使ってどういうことだ? 『裁き』ってなんだ? なんで、彼女は君を『パンドラ』て呼ぶ? 君の名前は、カヤじゃないのか?」
「ごめんなさい、長谷川さん。今は……」
「さっき、君は自分を人を殺すための人形だ、とも言った。それも関係しているのか?」
「今は、少し待っていてください。後で、全部、事情はお話しします」
「俺は……ずっと、勘違いしていたのか? 俺はてっきり、君は俺のクローンに巻き込まれているのかとばかり思っていた。だが……まさか、藤本和幸は、君に巻き込まれて……」
「ちょっと、黙っていてくださる?」
長谷川さんを睨む天使の赤い眼が、ぎらりと怪しく光ったーーように見えた。次の瞬間、「うっ」とうめき声のようなものが聞こえ、私は慌てて振り返った。
「長谷川さん!?」
長谷川さんは目を見開き、苦しげに喉を抑えていた。咳にもならない乾いた音を何度も漏らして……。
「なにをしたの!?」と、天使を睨みつけると、天使はなんでもないかのように肩をすくめた。
「少し黙っていてもらおうと思っただけですわ。ちょっとした呪いで、声を出せないようにしただけです。命に別条はありませんわ」
「呪い……?」
そ、と言って天使はベッドから降りると、急に深刻な表情を浮かべて私をじっと見つめてきた。
「呪いこそ、わたくし、アサルルヒの天使、バールの力。ルルにありとあらゆる呪いをかけることができる。でも、それだけですわ」
「『それだけ』……?」
「わたくしに、奇跡を起こす力などないのです、パンドラ。あなたの恋人を救うことはできませんわ」
はっきりと放たれたその言葉に、一瞬にして頭の中が真っ白になった。やっと目の前に灯った光が消えて、また暗闇の中に放り込まれる。そんな絶望が襲いかかってきた。
全身からふっと力が抜け、その場に崩れ落ちていた。とうとう魂も抜けて、ただの土人形になったのか、そう思えてしまうほど、身体がぴくりとも動かなくなった。
でも、それでもいいと思えてしまった。彼を救えないなら、私がもう人間である必要もない。彼のいない世界で、私に心も必要ない。このまま、ただの土人形になってしまったほうがずっと楽だ。
血の海の中に沈みながら、パンドラという名をーーこの呪われた身に課された使命を受け入れようとしていたときだった。
「でも……」と、バールと名乗った天使はどこかもったいぶったようにゆっくりと切り出した。「『彼女』なら、奇跡を起こすことができますわ」
「彼女……?」
ハッとして顔を上げた私に、バールは優しげで、それでいて不気味にも見える微笑を浮かべて言った。
「まもなくお見えになりますよ。聖女様が」
「聖女様?」
「神様はあなたを見捨ててはいないようですわ。皮肉にも、あなたを創った神ではなく、あなたを殺したがっている神様のほうですけれど」
天使か、悪魔かーー分からなくなるような、妖しく甘い囁きだった。