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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第六章
325/365

一週間

 前田が指定したのは、都心から少し離れたラブホテルだった。長谷川の家からタクシーで三十分ほど。そこで、カヤは長谷川から借りていたお金を使い切った。

 ラブホテルというものが存在することはカヤも知っていたが、目の前にするのはこれが初めてだった。路地裏に高く聳え立つそれは、青いネオンに照らされていた。ほかは、普通のビジネスホテルと変わらない。

 カヤは深く帽子を被り、辺りに人気がないのを確認すると、ホテルへと足を踏み入れた。中に従業員らしき人影はなく、受付もなかった。ただ、壁一面に部屋の写真が並び、それぞれボタンがついていた。どうやら、そこで部屋を選んでいくらしい。

 なるほど、と思った。ここなら、誰にも見られずに部屋を借りられる。前田がわざわざラブホテルを選んだのも納得できた。

 だが……。

 カヤは落ち着かない様子で写真から目を逸らし、エレベーターへと向かった。

 自分がラブホテルに足を踏み入れたという事実が、徐々に現実味を帯びていく。それとともに、恥ずかしさと罪悪感がカヤの胸の内に募っていった。

 前田が待っている部屋に向かうエレベーターの中で、カヤは目蓋を閉じた。和幸の無事を祈り、そして、他の男とこんなところで会うことを和幸に懺悔した。

 どんな事情であれ、和幸以外の男とラブホテルに足を踏み入れることなど、カヤの中では赦せないことだった。

 だが、なり振り構っていられない。それほど、追いつめられていた。

 カヤはパーカーのポケットの中で構えた銃をぎゅっと強く握った。

 やっと、和幸の居場所が分かるかもしれない。その手がかりをみすみす逃すようなことはできない。たとえ、その身を穢すことになっても。そして、その手を汚すことになっても。その覚悟はとうに決めたのだ。瀕死の前田を見捨て、曽良とともに屋敷を出たあの日。曽良から血にまみれたナイフを受け取ったあの瞬間。もう自分は無垢ではいられなくなったのだから。

 エレベーターの上昇が止まり、カヤはゆっくりと目蓋を開けた。開いていくエレベーターを睨みつけ、深呼吸をすると、足を踏み出す。

 前田に伝えられた部屋番号を捜し、赤い絨毯が敷かれた内廊下を歩いていく。どこからか聞いたことも無いような悲鳴が聞こえてくる。苦しそうで、それでいて恍惚とした、女性の鳴き声だ。

 急に不安に襲われた。それでも、足を止めることはできない。進まなければ。もう戻る場所も残されてはいないのだから。

 ようやく、612号室と書かれた真っ赤な扉を見つけた。カヤはぐっと唇を噛み締めながら、扉を叩いた。

 すると、すぐにガチャリと鍵が開かれる音がして、扉が勢いよく開いた。


 「カヤさん!」


 以前よりも痩せただろうか。げっそりとして、顔色を青くした前田が立っていた。目は充血し、その下には濃いクマができている。明らかに寝ていないのが分かった。スーツの代わりに、浴衣のような青い病衣を身にまとい、いつもワックスでかためていた髪は乱れ、前髪は額に降りている。それだけで、だいぶ印象が違って見えた。きっちりとした『秩序』の象徴のような好青年は、そこにはいなかった。

 それでも、前田であることには変わりはない。幽霊でもない。幻覚でもない。前田はちゃんと生きて、目の前に立っている。


 「前田さん……」


 見殺しにしたと思っていた前田が生きていた。元気な顔が見れたわけではないが、それでもカヤはほっと安堵した。

 緊張を解いたその一瞬、前田はいきなりカヤの腕をがっしりと掴むと、そのままカヤを部屋の中へと引きずり込んだ。悲鳴さえ上げる暇もなかった。


 「なにをするんですか!?」


 前田の手を振り払い、カヤは壁を背につけ、前田から距離を取った。やはり、罠だったのか。前田は何か良からぬことを企んでいるのか。

 

 ──もう少し、人を疑わなきゃだめだ。


 曽良のいつかの忠告が脳裏をよぎった。

 覚悟が足りないんだ、とカヤは自責の念にかられた。まだまだ甘いんだ、と思い知らされた。その甘さで、大切な人を裏切り、裏切られ、和幸も失いかけたというのに──。

 ポケットの中から銃を抜きかけたカヤだったが、その手はぴたりと止まった。

 前田はカヤに目もくれず、気が狂ったかのように何度も扉の鍵を確認していた。


 「前田さん……?」

 「誰にも、つけられていませんよね?」


 チェーンまでかけ、前田は血走った目でカヤを睨んだ。

 カヤは気圧されつつも、小さく頷く。


 「ちゃんと、注意して来ました。タクシーも何度か変えました」

 「そうですか」ふうっと緊張したため息をつき、前田は身を翻して部屋の中へと入っていく。「とにかく、すぐに出ましょう」

 「すぐに出るって……どこに行くんです!?」


 慌てて前田のあとを追ったカヤは、部屋の中に足を踏み入れ、ぎょっとした。

 広々とした部屋には、クイーンサイズのベッドと大型テレビ。薄暗いが、内装はシンプルで、落ち着いた雰囲気のある部屋だった。ただ、天井と壁一面に張られた鏡が異様な光景を創り出している。

 ごくりと生唾を飲み込み佇むカヤに「すみません」と背を向けたまま、前田は言った。


 「こんなところに呼び出してしまって。他に、人目を避けて会える場所が思いつかなくて」

 「それは……構いませんが」


 そうは言いつつも、カヤは鏡に映る自分を避けるように視線を逸らした。


 「カヤさんたちが去ってすぐあと、運良く、ガードマンの一人が僕を捜しに来てくれたんです。それから、入院してました。本間秀実はさも心配そうに何度も見舞いに来ましたが……僕には分かる。あの人は、僕なんか信用してない。護衛のためだ、と部屋に置いていたガードマンも、監視のためだ」


 カヤはちらりと遠慮がちに前田の背を見つめた。ベッドの上で何かを黒革の鞄に詰めている。それが札束だと気づいて、カヤは「それ……」と言いかけた。

 そんなカヤの言葉を遮るように、前田は話を続ける。


 「一瞬、監視がいなくなったすきをついて、逃げ出して来たんです。それで、すぐに公衆電話からカヤさんのケータイに電話をしたんです」


 ベッドの上に並べた札束を詰めた鞄を抱え、前田は振り返った。


 「これは、もしものときのために銀行の貸金庫に預けていたお金です」


 不格好にふくれた鞄を抱きかかえながら、前田は真剣な顔でカヤに歩み寄る。


 「これで……一緒に逃げましょう」


 カヤの目の前で立ち止まると、カヤの手を掴んで、前田は力強くそう言った。

 カヤは目を見開き、固まった。あまりに突然で、前田の言葉が理解できなかった。


 「このまま、この街にいたら、いつか本間に捕まります。本間に捕まれば、カヤさんも何をされるか分かったものじゃありません。その前に、逃げましょう。遠くに」


 腹の底で、何かが蠢くのを感じた。もぞもぞと何匹もの蛇が暴れているような感覚だった。今にもその蛇たちを吐き出してしまいたい衝動に駆られた。それをぐっと必死に押さえ込み、カヤはキッと前田を睨みつけた。


 「何を言ってるんですか? 私は、和幸くんのことを聞きに来たんです! 教えてください、和幸くんは今、どこに……」

 「和幸くんは、明日、殺されます」


 カヤは顔色を失くし、目を見開いた。

 前田は申し訳無さそうに苦渋の色を浮かべて視線を落とす。


 「すみません。時間があれば、もっと別の言い方もできたんですが……」

 「どこ……?」呆然としながら、カヤはぼんやりとつぶやくように訊ねた。「どこに……? 和幸くんは、どこですか?」

 「僕がいた病院です。帝国大学付属病院……」


 その瞬間、カヤは身を翻し、扉へと駆け出した。だが、前田の手が、カヤの手をしっかりと掴んで離さなかった。


 「離してください!」


 悲鳴のようなカヤの叫び声が響く。もがいて必死に前田の手を振りほどこうとした。だが、いくらケガのせいで弱っているとしても、前田は男だ。カヤが力比べで適うはずもない。


 「どこに行く気ですか!?」

 「病院です! 和幸くんのところに行きます!」

 「何しに……!?」

 「助けに行くに決まってます!」


 前田に振り返り、カヤは威勢良く言い放った。

 カヤにとっては、なぜ、前田がそんな当たり前のことを聞くのか理解できなかった。明日殺されるというなら、助けに行くのは当然だろう。和幸が明日殺されると知っておきながら、一緒に逃げよう、と誘って来た前田が信じられなかった。

 だが、前田はそんなカヤに同情するような眼差しを向け、


 「カヤさんが行ったところで、もう何もできません」

 「まだ分からないじゃないですか! 私が迎えに行くって約束したんです! 私が行って、絶対に、助け出して──」

 「無理なんです! 医者がそう言ってるんです!」

 「医者……?」


 カヤの勢いがふっと煙のように消えた。

 どうして、急に医者が出て来たのか。その理由をカヤは気づきつつも考えないようにしていた。信じたくはなかった。目の前でやっと灯った希望の光を失いたくなかった。

 カヤの震える手をぐっと掴み、前田は慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと語り出した。


 「爆発があったんです。僕が藤本曽良に刺された一時間ほどあとでした。どうやら、和幸くんが何らかの爆発物を持ち込んでいたようです。それが爆発して、一緒にいた椎名望とともに重症をおって、病院に搬送されました」

 「何の……話をしてるんです、前田さん?」

 「和幸くんは、特別な身体みたいですね。医者も驚くほどの回復力で、なんとか一命は取り留めたんですが……頭を強く打っていたみたいで、意識だけは戻らないんです。医者もこればかりはどうしようもない、と……すぐに目覚めるかもしれないし、一生、このままかもしれない、と本間に伝えたみたいです。だから、本間は一週間だけ、猶予を与えることにしました。それが過ぎたら、彼のことは諦める──カインの生き残りとしての彼の価値は諦め、臓器を売りさばいて金にする、と……」

 

 カヤは立ちくらみのようなものがして、その場に座り込んだ。絶望がのしかかって来て、今にも潰されそうだった。


 「だめ……」とうわ言のようにつぶやきながら、カヤは口を押さえた。「そんなの、だめ……」


 前田はカヤの手を離すとしゃがみこみ、震えるカヤに躊躇いがちに言った。


 「明日で、一週間です」

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