パンドラの恋人
あれから一週間。まだ心の整理もつかぬまま、わたしはとある建物の前に来ていた。広々とした駐車場にはずらりと乗用車が並び、建物の玄関は慌ただしく開閉を繰り返し、ひっきりなしに人が出入りしている。寒空の下、建物の中に入ろうともせず、ぼうっと突っ立つわたしに、通り過ぎる人たちは不審の目を向けていく。
そうして、いったい、何人とすれ違ったあとだっただろうか。昼過ぎになって、ようやく、彼が現れた。宗教画に描かれる天使のような、くねくねとした茶色い癖っ毛。眠そうなぼんやりとした目に高い鼻、そしてしゅっと尖った顎。一見、なんの害もない、普通の痩身の少年に見える——が、彼こそ、ルルを滅ぼす使命を持つ一族、ニヌルタの子、ユリィ・チェイスだ。
「マルドゥク? 迎えに来てくれたんだ?」
玄関を出たところでわたしを見つけると、彼は純粋に驚いたような顔で言った。
「当たり前です。あなたを野放しにすることはできませんから」
「野放し?」わたしに歩み寄りながら、彼は小首をかしげる。「まだ君は、オレを信用してないんだね」
「なぜ、あなたを信用する必要があるのです、ユリィ・チェイス?」
わたしは彼を睨みつけ、努めて冷たく言い返す。
「あなたはニヌルタの者。ルルの敵です。何を企んでいるのか知りませんが、あなたの思い通りにはさせません。これからはわたしが監視します」
「監視、か。分かった。じゃあ、オレは君の傍にいればいいんだね」
わたしの前に立ち止まると、納得したように彼はうなずいた。
緊張感がまるで無い。調子が狂う。彼はわたしの敵意を自覚しているのだろうか。それとも、なめられている? わたしが王の器じゃないから――。
――感謝するよ。お前みたいな落ちこぼれがマルドゥクの中にもいたことを。お前なんかに使命は果たせない。――『裁き』は終わりだ。
その瞬間、ニヌルタの王の言葉が脳裏をよぎり、思わず、ぎりっと拳に力が入った。
ダメだ。動揺を見せちゃダメ。毅然としてなきゃ。わたしはマルドゥクの王。リストちゃんの後を継いだんだ。ちょっとやそっとのことで心を乱されてちゃいけない。マルドゥクの王としてふさわしくふるまわなきゃ。特に、ニヌルタの者である彼の前では……。
「マルドゥク? どうかした?」
「なんでもありません。それより、ケガはもういいんですね?」
気を取り直し、わたしは彼の脇腹を見つめた。一週間前、彼が実の兄であるニヌルタの王に撃たれたところだ。大量の失血で、一時は意識も失ったのだが……偶然、通りがかったシスターの力を借り、なんとか大事に至る前に病院に運び込むことができた。お台場、ていったっけ。あんな廃墟のような街でシスターと出くわすなんて、まさに神のご加護といったところだろうか。
「もう問題ないって」彼は脇腹を軽くぽんぽんと叩き、けろりと答えた。「一週間で退院できるなんて奇跡だ、て言われたよ」
「一応、あなたも神の子孫ということですね」嫌みっぽくわたしは返す。「ところで、費用はどうしたのです? ラピスラズリが心配していましたが」
「大丈夫。お金はいらない、てお医者さんが言うんだ。これも奇跡だね」
わたしは呆れてため息をついた。
「ラピスラズリの心配した通りだったみたいですね。神の血に宿りし力を、そのような私利私欲に使うなんて」
「オレは『お金がないんだ』て正直に言っただけだよ」
彼に悪びれた様子はない。
どうやら、彼の天使の言っていた通り、彼は意識せずにその血に宿る神の力を使ってしまうようだ。
私たち神の子孫の血には、始祖たる神から受け継いだ力が宿っている。それは、ルルの意志を従える力だ。ルルの遺伝子には、神への絶対なる服従が本能として植え付けられている。わたしたちは、その服従心に語りかけ、ルルの意志を操ることができる。といっても、なんでも言うことを聞かせられるというわけではない。ルルの『強い意志』は、神の力を持ってしても曲げることはできないとされている。
本来ならば、その力は意識しないと使えないものなのだけれど……どうやら、彼、ユリィ・チェイスは無意識にその力を濫用してしまう癖があるようだ。
「ところで、彼のところには行ってみた?」
ふいに、思い出したように彼は切り出した。
「彼? 誰のことです?」
「パンドラの恋人だよ」
「ああ……例のルルの男ですね」
手術を終えた彼の病室に様子を見に行ったときだった。彼はわたしに、あるルルの元へ行くように言ってきた。そのルルは『災いの人形』の恋人で、驚いたことに、彼は全てを知っているそうだ。『災いの人形』の正体を知ってもなお、彼女をルルとして愛しているのだという。だから、ニヌルタの王が現れたこと、そしてリストちゃんに起きた出来事……いち早く、彼にも伝えておくべきだ、とユリィ・チェイスは言った。ニヌルタの言いなりになるのは嫌だったけれど、ケットも彼に賛同したので、その男に会いに行くことにしたのだ。『災いの人形』の恋人に興味もあったし……。
でも――。
「ケットの案内で部屋に行ってはみましたが、何度行っても留守のようでした」
「留守? 中には入った?」
「『留守』の意味、分かっているのですか? 人がいないのに中に入れるわけないじゃないですか」
「ケットなら鍵が閉まってても中に入れるでしょう。ケットに頼んで、中から鍵を開けてもらえば……」
「それは、空き巣です!」わたしはぎょっとして、ユリィ・チェイスを睨みつけた。「そんなこと、天使に頼めるわけないでしょう」
「先代マルドゥクはしていたよ?」
「リストちゃん……が……?」
思わずあっけにとられるわたしに、ユリィ・チェイスはどこか憐れみすら感じさせる微笑を向けた。
「リスト・マルドゥクは、もっと気楽に『王』をしていたよ」
「なにを……突然!? あなたにリストちゃんを語ってほしくない、と何度言えば分かるのです!」
冷静に、毅然に、と自分に言い聞かせていたつもりだったのに……つい、わたしは高ぶった感情のまま、ユリィ・チェイスを怒鳴りつけていた。通りがかる人々の好奇な視線が身体に突き刺さる。
どうして、わたしはすぐ感情的になってしまうの。
わたしはうつむき、「取り乱しました、謝ります」とユリィ・チェイスに謝った。すると、
「そうだね、オレが語ってもダメなんだ」
「え……?」
思わぬ言葉に、わたしはハッとして顔を上げた。
「とにかく、今から行ってみよう。彼に会わないと何も進まない」
唖然とするわたしを置いて、ユリィ・チェイスは歩き出した。
「待って」と慌ててわたしは振り返り、彼の背に訊ねる。「彼って……」
「パンドラの恋人。君に必要な答えも、きっと彼が持っているよ、マルドゥク」
「どういう意味……?」
わたしに必要な答え? なんのこと? 『災いの人形』の恋人が……ルルの男が、なにを持っているというの?
相変わらず、真意が読めないユリィ・チェイスの言葉に、わたしは呆然と立ち尽くした。