嫌な一日
トーキョーの都心を一望できるホテルの一室で、レコードプレイヤーがクラシック音楽を奏でていた。
時間は十二時を過ぎ、そろそろ昼食の準備で慌ただしくなろうかというときだった。
「先生」
携帯電話から視線を離し、渚はソファを見つめた。ソファの背もたれからひょっこり覗く男の後頭部は、今や見慣れたものだ。
「『フィレンツェ』で爆発が起きたようです。ガス漏れによる小規模の爆発だということですが、何人か病院に搬送されたみたいです」
珍しく、男の後頭部がぴくりと揺れた。
「彼から連絡は?」
「いえ……」渚は気まずそうに視線を反らし、くいっとフレームレス眼鏡を上げた。「なんの連絡もありません」
「しくじったかなぁ」
慌てる様子もなく、男は暢気にコーヒーをすする。
「まあ、もうちょっと待とうか」
「こちらで何か手を打たなくていいのですか?」
「なにをしようって言うの、渚くん? 下手に動けば、こちらのしっぽもつかまれちゃうよ」
「ですが……」
「肝心なときに慎重になれないから、婚期も逃がしちゃうんだよ、渚くん」
眼鏡の奥で渚の鋭い目がぎらりと光った。
「それ、セクハラですよ、先生」
「……」
男は黙り込み、場違いなほどゆったりとしたクラシック音楽だけが部屋の中に流れた。
渚は真っ赤な紅を塗った唇をふっと開け、重いため息を漏らす。
「もし、彼に何かあったらどうするんです、先生?」
「覚悟は決めてるよ。僕も彼も。ずーっと昔にね」
「覚悟、ですか……」
渚は納得いかない表情で、窓へと視線を向けた。昼間とは思えないほど辺りはどんよりと暗く、立ち並ぶ高層ビル群に激しい雨が降り注いでいた。
「嫌な一日だわ」
* * *
「これじゃ、お洗濯もの干せないねー」
水たまりができたベランダを窓からのぞいて、幼い少女は桃色の頬をぷうっと膨らませた。
「またお洗濯ものがたまっちゃうよ」
くるりと振り返り、少女は睨みつけるようにまん丸の目を細めた。その視線の先では、青年がソファに座り、膝に置いたラップトップのパソコンと睨み合っていた。熱心にキーボードを打ち続け、まるで彼女の声は聞こえていないようだ。
「ねぇ! 聞いてる?」
少女はむすっとして腕を組む。その仕草だけは、もう立派な女性だ。
「あぁ、すまない」ようやく少女の不機嫌なオーラに気づき、青年はパソコンの画面から目を離した。「おかしの時間?」
「ちがーう! 全然話聞いてないんだから!」
「ごめんよ。レポートがたまってて……」
「知らない!」
茶色混じりの黒髪をふわりとなびかせ、少女はそっぽを向いた。そして、ハッとして「あ」と目を輝かせる。
「でも、本当だ。おかしの時間だ」
少女は壁にかかった時計を指差し、青年に駆け寄る。
「おかしの時間! 三時、三時!」
「はいはい、分かってるよ」
ぽんぽんと少女の頭を撫でて、青年はパソコンをローデスクに置き、腰を上げた。少女に向ける顔には疲れが見えるものの、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ところで、ちゃんと宿題は終わってるのか?」台所へ向かいながら、青年は問いかけた。「一年生でも宿題はあるんだろう」
「あとでやるから大丈夫」
床に座ってソファにあごをのせ、フフフ、と少女は嬉しそうに微笑んだ。お菓子をあげない限りは動きそうもない。そんな彼女に、仕方ないな、と言いたげにため息つき、青年は苦笑した。
いつものゆったりとした昼下がりのひとときだった。突然、インターフォンが鳴るまでは。
「誰か来た!」
雨で退屈なのだろう、友達が来る予定があるわけでもないのに、少女は意気揚々と飛び上がって喜んだ。
「誰? 誰?」
「どうせ、セールスだ」
少女とは対照的にうんざりした様子で、青年はインターフォンのモニターをチェックする。映し出された共同玄関のエントランスには、一人の女が立っていた。雨に濡れた髪をだらりと垂らし、うつむくその姿に、青年は気味悪そうに顔をしかめた。だが、しばらくして、青年は何かに気づいたようにハッとした。
「まさか……」
とっさに受話器を取ると、少女に背を向け、押し殺した声で訊ねる。
「どうしたんだ!? なんで、そんなびしょぬれで……」
『助けて……』と、か細い声が返ってきた。『助けて、長谷川さん』
青年——長谷川正義は、愕然とした様子でモニターを見つめた。そこに映る亡霊のようなうつろな顔をした少女を……。
「すぐ行く。そこで……待っててくれ」
娘のさくらを一瞥して、正義は緊張の面持ちでそう答えた。




