ヤハウェ –下–
トーキョーの都心とお台場をつなぐ一本の橋、通称『虹の橋』。トーキョーで夢も希望も金も全て失った者が最期に渡る橋だ。その橋を、ただじっと見つめて佇む少年がいた。
「もう正午は過ぎた。ここまでだ、留王」
小さな彼の背中を睨みつけ、静流はそう宣告した。それは、死刑宣告とも言える残酷なものだった。なぜなら、彼らカインにとって、今やこの橋は最後の希望。ここを渡りきれるかどうか、それが彼らの生死の分かれ目だった。
「まだ来ていない奴らがたくさんいる」留王は振り返りもせず、強張った声で食い下がる。「ここが見つかったわけでもないんだ。焦る必要はない」
「正午にはお台場を発つ。それまでに港に辿り着けなければ、捨て置く。そう『連絡網』でも伝えた。間に合わなかった奴らも覚悟は出来ているはずだ」
淡々と語る静流の表情には、しかし、苦悩が浮かんでいた。本当は彼女も待っていたいのだ、と一目で分かるほど……。
「あと少しで辿り着ける奴もいるかもしれない。せめて、あと一時間、待ってもいいだろ」
「駄々をこねるな、諦めろ」
「諦め……られるか!」茶色く染めた髪を振り乱し、留王は振り返った。「これ以上、家族を奪われるのはごめんだ!」
「そりゃ、皆同じだ! それでも、生き残れる奴は生き残るべきだ。このまま待っていたら、全滅しちまう」
「じゃあ、オレは残る。残って、あの女を……!」
「いい加減にしな、留王!」
殴りつけん剣幕で静流が留王に詰め寄ったときだった。緊張感のない電子音が鳴り響き、静流はぴたりと動きを止めた。
「電話?」
静流はハッとし、ジーンズのポケットからケータイを取り出した。サブディスプレイには番号だけが表示されている。登録していない番号ということだ。しかし、静流は迷わず電話を取った。
「曽良だね!?」
静流は緊張の面持ちを少しだけ緩め、「無事だったんだね」とホッと息をついた。
「この番号、さっきと同じだけど、誰かから盗んだのか? これから、あんたへの連絡はこの番号でいいのか?」
「姉さん」と低い声で留王が促すと、静流は思い出したようにケータイを下ろしてスピーカーフォンに変えた。
『これからの連絡は必要ないよ、姉さん』と、落ち着いた曽良の声が聞こえてくる。『お台場に集まった兄弟たちを連れて、はやくトーキョーを離れて。そのあとは……皆で好きに生きて』
「好きに……? なにを言ってるんだ!?」留王は肩を怒らせ、ケータイに怒鳴りつけた。「腑抜けたことを言うな!」
『留王もいるの?』
「どういうつもりなんだ、曽良!? 全部、お前のせいなんだぞ! お前が神崎の娘をさっさと『片付け』なかったから、こういうことになったんだ! なにを待っていたんだ!? あの爆弾なら、もしかしたらあの化け物も殺せたかもしれないのに!」
「留王、落ち着きな!」
静流の諫める声も、興奮した留王には届かないようだった。血走った目で、ケータイを――その向こうにいる兄を睨みつけ、留王は泣き叫ぶような声で訴える。
「お前、『手は打った』って言ったじゃないか! お前の言葉を信じたから、黙っていたんだ! それが、この有様はなんだ!?」
「留王、いい加減にしな!」
留王の頭をむんずとつかんで引き離し、静流は慌ててケータイのスピーカーフォンを切った。
「今、ここで曽良を責めても仕方ないだろ。あたしがあとでたっぷり叱ってやる。お前は黙って頭冷やせ!」
留王は悔しげに唇を噛み締め、俯いた。それを見届けると、静流は気怠そうにため息つき、ケータイを耳に当てる。
「で、どうなってんだ? 皆で好きに生きろ、て本気か? あんたらしくないね。親父の遺言を守ろうってのか」
砺波が、曽良と静流に伝えた藤本マサルの遺言――それは、もう誰も殺すな、というものだった。トーキョーの黒幕が本間秀実だと知って、これ以上の反抗は無駄だ、と踏んだのだ。
「そりゃ、親父の遺言は尊重すべきだろうが……だが、このまま大人しく引き下がるわけにもいかねぇだろ。たとえ、本間秀実にかなわねぇとしても、助けられる命はある。今は逃げるしかねぇだろうが、いつか、またトーキョーに戻って――」
『もういいんだよ、姉さん』
「もういい、だって? 本当に腑抜けちまったのか? 悔しくねぇのかよ」
『俺たちがする必要はない、てことだよ』
「どういう意味だ?」
『神の救済さ。ようやく、俺たちも救われる』
静流は返す言葉が見つからないようだった。目をぱちくりとさせてから、「は?」と戸惑いがちに聞き返す。
『あと一ヶ月で全てがゼロに戻るんだ。金も権力も、復讐も憎しみも全て洗い流され、平等な世界がやってくる』
「曽良……?」突拍子もない話に、静流はきょとんとしてしまった。「何を言ってんだ?」
『それまで、俺は……ヤハウェの代わりに『カイン』との約束を果たす』
「ヤハウェとの約束? カインを殺せば、七倍の復讐ってやつか?」
つぶやくように言って、静流は我に返ったようにハッとした。
「あんた……一人で報復する気か!? バカなこと言ってんじゃねぇよ、脳無しか!」
『砺波が死んだんだ、姉さん』
「!」
一瞬にして、静流は言葉を失った。口をあんぐり開けて、愕然とする。
『赦せないんだ』
「……」
潮風が吹き付けて、静流のウェーブがかった髪を揺らした。顔にかかった髪を払いのけもせず、静流は押し黙っていた。やがて、ゆっくりと目蓋を閉じ、覚悟を決めたように「分かった」とだけ言った。
『クリスマスになれば全て終わる。もう、兄弟が苦しむこともなくなる。それまで、皆で幸せに暮らしてほしい』
「クリスマスか」すっと顔を上げ、静流は霞がかった空気の向こうに浮かぶトーキョーの街並みを見やった。「その日になれば、全部、分かるんだね。――神崎カヤの秘密も」
その名に、弾かれたように留王が顔を上げた。復讐に燃える炎でぎらついた瞳で静流を睨みつけている。
「全てがゼロに戻る……本当にそんな日が訪れるのかね」
留王を横目に、静流はぽつりとつぶやいた。
『姉さん、最後に一つ聞きたいことがある』
「なんだ?」
最後、という曽良の言葉に眉をぴくりと動かしつつも、静流はそれに言及することはなかった。
『あの夜……かっちゃんのパーティーを開いた夜、俺は姉さんからネックレスを受け取った』
「神崎カヤに渡したあのネックレスのことだね。それがどうした?」
『姉さんは、自分で『実家』から取って来たの? それとも、誰かから受け取ったの?』
「あたしは、あの日の朝、留王から受け取ったんだ。なんでだ?」
『そう……やっぱり、そっか』諦めたような声で曽良は答えた。『じゃあ、きっと大丈夫だ』
「大丈夫?」
『留王は必ず、『おつかい』を成し遂げる。信頼できる弟だから。姉さんに渡す前にしっかりネックレスも調べたはずだよ』
「いったい、何の話だ?」
『計画通り、あれは『爆弾つきのネックレス』だった、て話さ』
「おいおい」苛立ったように、静流はくしゃくしゃと髪を掻きむしった。「今朝、伝えただろ? あのネックレスには爆弾なんて仕掛けられてなかったんだ。そもそも、それと留王となんの関係が……」
ふいに、静流の手が止まる。次の瞬間、思い出したように血相変えて留王に振り返った。
「留王……あんた、さっき……『あの爆弾なら』って……」
曽良の声は聞こえないにしろ、静流の言葉だけで、二人の会話の内容は察することはできたのだろう。留王は気まずそうに視線を逸らした。その反応に、そういうことか、と静流はひとりごちた。
「あのネックレス、まだ神崎カヤが持ってんのか!?」
『いや……彼女の手にはないよ』
「じゃあ、なんで爆弾のことを気にする? 誰かほかの奴が持ってんのか?」
『言ったでしょう。死なない女でも殺す方法を知ってる、て』
「こんなときにまどろっこしい言い方するな! はっきり――」
『彼女の恋人を『片付ける』』
「恋人……? 神崎カヤの……」
静流の顔から一瞬にして表情が消えた。
「和幸……じゃないか」
『かっちゃんは本間に捕まってる。俺たちの情報を漏らされたら厄介だ。『片付け』たほうがいい。かっちゃんもそれを望んでる』
「冷静になれ、曽良!」がっしりとケータイを握りしめ、静流はしゃがれた声を張り上げた。「助け出せとは言わない。だが、お前がわざわざ和幸を殺す必要はないだろ! お前らはずっと小さいときから一緒にいた兄弟じゃないか」
『言ったでしょう。あと一ヶ月で、全部ゼロに戻るんだ。兄弟殺しの罪も消える』
「曽良……」
珍しく、静流の声は頼りなく震えていた。「くそ」と舌打ちすると、目元を押さえ、唇を噛み締める。
「あんたがあたしに口答えするなんてね……」
『ごめんね、姉さん。留王にも謝っておいて。俺が頼りないせいで、苦しめてしまった』
「てめぇで謝れ、根性無しが」
『無茶言わないでよ。会わせる顔がないんだ』
「あたしがぶん殴ってやる。頬を真っ赤に腫らした顔で会えばいいだろ」
『……』
返事は無かった。
静流はすうっと大きく息を吸い、目元を押さえていた手を下ろす。雨雲が集まり始めた空を見上げ、悔しそうに顔をしかめた。どこか悟ったような眼差しを浮かべて……。
「赦せねぇんだな、あんたは。――自分のことが」