表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
303/365

ヤハウェ –上–

 腕時計の二つの針が頂点を指し、正午を知らせた。日野は退屈そうにハンドルにあごを乗せてフロントガラスから空を眺める。厚い雲が集まり始めていた。


「雨でも降るか」


 独り言を言ってみても気が紛れるわけでもなく、虚しいだけだった。

 視界の隅では、料金メーカーの数字が着実に上がり続けている。五分ほど前に降りていった少女の顔がちらついた。浅黒い肌をした、眉目麗しい少女だった。その美しさは、邪な気持ちを抱くことさえ赦されないような非現実的なものだった。まるで空想に住まう生き物を見ているよう。思い出すだけでも、ぼうっとしてしまう。

 いやいや、と日野は目を覚ますように頭を振った。

 どれだけ美しいといっても、ただの十代の少女に骨抜きにされるなんて情けない。しょせんは客だ。このトーキョーで、他人に深入りするものじゃない。


「いつまで待たせるんだ、まったく……」


 誰もいないのに、ごまかすように日野はぼやいた。

 コンビニの前で降ろすと、彼女は「さっきの場所で待っててください」と言ってきた。なぜ、そんな面倒なことをしなくてはならないのか。コンビニの駐車場も空いていたし、ここで待つ、と言ったのだが、彼女は食い下がった。「彼があそこでタクシーを止めたのには、考えがあってのことだと思うので」とはっきりしない理由を口にした。

 怪しいと思ったが、詮索してもいいことはない。厄介なことに巻き込まれては面倒だ。大人しく言う通りに戻ることにしたのだ。

 しかし、冷静に考えてみれば、本当に彼らが戻ってくる保証もない。全てが二人の演技だった可能性もある。あの若い男女はもうどこか遠くに逃げてしまったかもしれない。

 日野は再び、料金メーカーへ視線をやった。踏み倒されたら困る金額になっている。苛立と焦りがつのって、ようやく目が覚めたように怒りが込み上げて来た。十代の子供の言いなりになるなんてどうかしていた。「くそ!」と悪態づいて、ハンドルを思いっきり叩いた––そのときだった。

 突然、窓をノックされ、ハッとして振り返ると、にこりと微笑むアヒル口が目に入った。さっきの少年だ、とすぐに分かって、日野は慌てて窓を開けた。


 「ここで待っててくれたんだね、日野さん」彼はかがんで微笑んだ。「もう帰っちゃったかと思ったよ。ダメもとで戻ってきてみてよかった」

 「帰ったと思ったって……彼女とは会わなかったのかい?」


 訊ねてすぐ、日野は後悔した。彼の目つきが、一瞬、十代の少年とは思えないほど鋭くなったからだ。睨まれただけでゾッとした。

 余計なことを聞いた。日野はすぐに前に顔を向き直し、「雨が降りそうだよ」と自分でも呆れるほど不自然にごまかした。


 「やっぱり、思った通りの人だったな、日野さんは」


 ふいに、クスクスと彼は笑った。


 「臆病で従順。正義感も野心もない腐った大人。なのに、好奇心だけは一丁前にあるんだ。うんざりする」


 カチャリと耳慣れない金属音がした。


 「気が変わっちゃった。これからは命がけで俺の指示に従ってもらうよ」


 命がけ? 日野はようやく、自分のこめかみに何かが当てつけられているのに気づいた。

 動くこともできず、ただ真っ直ぐに見つめる先で、雨が一粒、フロントガラスに当たって散った。


 「人身売買に関わってない人には手を出さない主義だったんだけど……もうどうでもいいや。運がなかったと思ってよ」


 おそるおそる視界の端でサイドミラーを確認する。そこには、見覚えのあるものが映っていた。いつだったか、誰かが後部座席に落としていった忘れ物。恐ろしくて、川に投げ捨てた。実際に目にしたのは、その一度きりだった。まさか、自分がその『的』になるなんて……。

 いきなり、非現実的な恐怖に襲われ、日野は凍えるほどの寒気を覚えた。

 

「とりあえず、電話貸して」


 銃を手に、無垢な少年は無邪気に微笑んだ。


   *   *   *


 ぽたりぽたりと雨粒が落ちて来て、地面に染み付いた砺波ちゃんの血を洗い流していく。私はただそれを見ていることしかできなかった。


 ――間に合わなかったんだ。


 ずきりと頭痛がして、また、曽良くんの声が頭の中に響いた。

 私は耳をふさいで、うずくまった。

 やだ。もう聞きたくない。


 ――かっちゃんも殺された。もうこの世界にはいない。


 お願い、聞きたくない。お願いだから……。


 「赦して……」

  

 私のせいだ。私が皆を追いつめた。私を守ろうとしてくれた人たちは、皆、消えていく。

 脳裏をよぎるのは真っ赤な血。ナイフにこびりついた前田さんの血。ぽたぽたと地面に落ちていく砺波ちゃんの血。そして……。

 視線を落とせば、見覚えのある銃が膝に置かれていた。和幸くんの銃だ。真っ赤に染まった和幸くんの――形見。

 ぎゅっと唇を噛み締め、銃を胸に抱きしめた。

 これは誰の血なの? 砺波ちゃんの血なの? それとも、和幸くんの血なの? 何が起きたの? どうして、曽良くんは何も教えてくれないの? どうして、こんなことになるの? 私はただ、残された時間を和幸くんと過ごしたかっただけなのに。私が望んだのはそれだけだったのに。どうして、それさえも赦されないの?


 「分からない……もう分からない……」

 

 私はこれからどうすればいいの? 和幸くんのいないこの世界で、何を頼りにしたらいいの?

 ねぇ、和幸くん。本当に、あなたは最期に、この世界の終焉を望んだの? 教えて。あなたの口から聞きたい。本当に、それがあなたの願いなら、私は――。


 「会いたい……和幸くん、会いたいよ」


 口から零れ出ていた儚い願いは、激しい雨音にかき消された。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ