聖女の葛藤
黒々と逞しい馬とひょろっと痩身の少年が並んで、さざ波立つトーキョー湾を見つめていた。
潮風に鬣をなびかせながら、馬が遠慮がちに隣の少年の顔色をうかがう。何を考えているのか、彼は無表情で、瞬き一つせず、水泡がぷくぷくと浮かぶ海面を睨みつけていた。
馬は物憂げにため息つき、背後に振り返る。そこには殺風景なビル群があるだけで、人っ子一人見当たらない。啜り泣く声すらなく、たまにビルの間を駆け抜ける潮風が、亡霊の悲鳴のような音を立てて去って行くだけ。神の子孫の水葬の場とは思えぬわびしさだ。
「ナンシェ様はどこに行ってしまわれたのでしょう?」もどかしそうに、馬がつぶやく。「先代マルドゥクの王の亡骸を母なる海にお返ししたというのに、涙も見せずに姿を消してしまわれて……心配です」
「大丈夫だよ、ラピスラズリ」ぽつりと、隣で少年が答えた。「彼女はオレが守るから」
「ユリィ……?」
「兄さんのような苦しみは味わわせない。彼女が使命に取り憑かれないよう、オレが見張る」
そこに沈む躯に誓いを立てるように、ユリィは海に向かってはっきりとした声で宣言した。
やがて、その言葉に満足したかのように水泡は絶え、分厚い雲の割れ目から差し込んだ太陽の光が海面に光の梯子をかけた。砂金を散らしたようにキラキラと輝く水面を眺め、ユリィは満足げに目を細める。
「さあ、ユリィ。そろそろ、ご自分の心配も……」
『儀式』の終わりを感じ、ラピスラズリが切り出したときだった。ぐらりとユリィの身体がよろめき、そのまま大きなしぶきを上げて海へと落ちた。
「ユリィ!」
黒い馬が嘶き、主のあとを追って海へと駆ける。弧を描いて飛び込むシルエットは光に包まれ、馬からイルカへと形を変えて海の中へと消えていった。
***
「ナンシェ、港へ戻ろう?」
心配そうなケットの声に振り返りもせず、わたしはひたすら地面を舐めるように見回して歩いていた。
港を離れ、廃墟の街を歩き続けてどれくらい経っただろう。歩いても歩いても、ひび割れたアスファルトが続く。
「ナンシェ、もう諦めよう。お花なんてどこにも見当たらないよ」
「どこかにあります!」
「ナンシェ……」
「マルドゥクの王としてエンキに尽くしたというのに、故郷の土に眠らせてあげることもできなかった。せめて……せめて、お花くらいは……」
追い込まれている自分が分かる。
海に沈んでいくリストちゃんの姿が目に焼き付いて離れない。首を絞められているような息苦しさがいつまでたってもなくならない。漠然とした焦燥感が襲いかかってくる。それから逃れるように、私はひたすら歩いていた。
何かに必死になっていないと不安で仕方なかった。一秒でもじっとしていたら、絶望に飲み込まれてしまう気がした。自分が壊れてしまう気がした。
そんな心情も、私の天使であるケットには筒抜けなんだろう。
「ナンシェに見送ってもらえて、リストはそれで充分幸せだったよ」
私のあとをついてきて、ケットは必死に慰めようとする。それが、私を余計に惨めにするだけとも知らずに……。
「詭弁はやめてください、ケット」
「詭弁じゃないよ! リストはナンシェのことが大好きだった。ナンシェがそうやって落ち込んでいたら、リストも悲しむ。ナンシェが元気に生きていることが、リストの幸せなんだよ!」
「そんなこと、どうして言えるのですか!? リストちゃんの幸せなんてもう誰にも分からない! リストちゃんに聞くことはもうできないんだから!」
「ナンシェ……」
呆気に取られるケットの表情が目に浮かぶ。
居心地の悪い沈黙がわたしたちの間に降り立った。
ケットは何を考えているんだろう? わたしに呆れているんだろうか。絶望しているんだろうか。不安でいっぱいだろうか。――そんなこともわたしには分からない。
これでいいの? リストちゃんもこうだったの? 王と天使は心と心でつながって、意思疎通に言葉もいらないと聞いていたのに。わたしはケットと口論ばかり。ケットの心の声なんて聞こえやしない。剣を継承したばかりだから? わたしはまだコツがつかめていないだけなの? それとも……。
怖い。試すのが恐ろしくてたまらない。自分がマルドゥクの王にふさわしいか、それを確かめるのが怖い。
「ねぇ、ナンシェ。どうして、ケットを――」
ふと、ケットが何か言いかけたときだった。甲高い馬の嘶きが響き渡って、わたしは弾かれたように振り返った。
「ラピスラズリの気配が近づいてくる」ケットが訝しげにつぶやく。「港でなにかあったのかな……」
「なにかって……まさか、ニヌルタが戻ってきたの!?」
「それはないよ! エンリルの天使の気配はもうない」
「そう……」
ホッとしたような、がっかりしたような、妙な感覚だった。
ニヌルタが再び現れたら、わたしはどうする気なんだろう? マルドゥクの王として、どうすればいいんだろう? どうすれば、リストちゃんや一族の報いを晴らせるんだろう?
「来たよ、ナンシェ」
「!」
やがて、アスファルトを打ち付ける蹄の音がけたたましい勢いで近づいてきて、馬がその勇ましい姿をあらわにした。目を凝らすと、その背に誰かが乗っているのが分かった。間違いなく、ニヌルタだろうが……様子がおかしい。馬を駆っている、というよりは、馬にしがみついている、といったほうがいい。ぐらぐらと身体は揺れ、今にも落ちそうになっている。それをラピスラズリが体勢を変え、なんとか『乗せている』ように見えた。
滑り込むように私たちの前でラピスラズリが止まると、とうとう力尽きたようにニヌルタの手は鬣からするりと離れ、
「ユリィ!」
突然閃光がきらめいたかと思いきや、次の瞬間、馬は消え、代わりに大きな白熊が寝そべっていた。その背には、ニヌルタがぐったりとして横たわっている。己の毛の絨毯をマット代わりにして、落馬したニヌルタを受け止めたらしい。
「ご無事ですか?」
伸ばした首を捻り、ニヌルタの様子を確認しようとするラピスラズリ。その背は赤く染まっていた。
「あなた、怪我を……!?」
――いえ、まさか。わたしはすぐに思い直して、言い淀んだ。天使が血を流すなんてありえない。
そうだ。この血はラピスラズリのものじゃない。彼の……ニヌルタの弟のもの。己の兄に撃たれた傷から流れ出た血だ。
「さっき、ニヌルタの王に撃たれた傷だね」ニヌルタにそっと歩み寄り、その顔を覗き込んでケットが言った。「息はある。まだ大丈夫だよ」
「お願いします」と、ラピスラズリは黒豆のような瞳を私に向けて、悲痛な声で訴えかけてきた。「どうか、エンキ様の恩恵をユリィにもお与えください! マルドゥク様の『聖域の剣』なら、ユリィの傷も癒せるはず」
ラピスラズリの迫力に圧され、わたしは後退っていた。
「そんなこと……」
ためらうわたしを、「ナンシェ」と幼い声に似合わぬ力強い口調でケットが急かす。
「いくらニヌルタの子といえど、彼は王じゃない。不死じゃないんだ。このままじゃ危険だよ。『聖域の剣』で彼を救ってあげて」
そんなこと言われても……。
白熊の背で顔を歪めて眠るニヌルタの弟を見つめた。彼のお腹から溢れ出てくる血が、みるみるうちにラピスラズリの背を赤く染めていく。足が竦んで、目眩がした。
このまま放っておいたら、彼も死んでしまう? リストちゃんみたいに、動かない身体だけ残して消えてしまう?
「リスト・マルドゥク様のことでニヌルタの者に怒りを感じておいでとは思います。しかし、それはあくまでニヌルタの王が独断でしたこと。リスト・マルドゥク様の死を、ユリィが望んだわけではありません! ですから、どうか、ユリィにご慈悲を!」
「わたしは……」
ぎゅっと拳を握りしめ、わたしは瀕死のニヌルタから目を逸らすように視線を落とした。
「わたしには……できません」
その場の空気が張り詰めるのを肌で感じた。
「ナンシェ?」わたしの天使までもが困惑の声を漏らしていた。「なんで? このままじゃ、ニヌルタの子は……」
「そんな……!」と悲鳴のような声でラピスラズリが反感を示す。「お願いします、マルドゥク様!」
天使たちの糾弾の声が次から次へと降り注いでくる。
重たい。苦しい。窮屈な箱の中に押し込まれるようだ。このまま、身がつぶされてしまいそう。
「マルドゥク様、恐れながら……先代マルドゥクの王はこんな復讐は望んではおられませ――!」
「いいんだ」
ふいに、ぼんやりとした声がラピスラズリの言葉を遮った。聞き逃しそうなか細い声。でも、誰の声かはすぐに分かった。
ぎょっとして顔を上げれば、うっすらと開いた茶色い瞳がわたしを見据えていた。
「望まないことは、しなくていい」
決して、投げやりなわけでもなく、皮肉めいた口調でもなく、思ったことをそのまま口にしたような棘の無い声色だった。――優しい声だった。
その言葉を最後に、ニヌルタの王の弟は意識を失った。