最後の希望
「ここって……?」
停車したタクシーの窓にへばりつくようにして、私は外を見渡した。
見慣れたマンションが立ち並ぶ路地。気のせいなんかじゃない。ここは……いつも通る路。和幸くんと肩を並べて歩いた路だ。
「どうして、私の高校に?」
胸騒ぎを覚えて、私は慌てて振り返った。
――そう、ほんの数時間ほど前に逃げるようにして去った学校は、目と鼻の先。
「学校に隠れるの?」
隣でシートベルトを外す曽良くんに、私は動揺もあらわに早口で訊ねた。そんな私に一瞥もくれず、曽良くんは運転手さんに「待ってて」と声をかけて、ドアに手をかける。
「曽良くん、待って! どこ行くの? 私は――」
追いかけようと慌ててシートベルトを外す私に、
「君はここにいて」
親愛の情など欠片も感じられない冷たい声でそれだけ言い残し、曽良くんは乱暴にドアを閉じた。
閉ざされたドアを前に、拒絶――その言葉が頭に浮かんだ。
フロントガラスの向こうに見える曽良くんの背中が小さくなっていく。一瞬でも、振り返ってくれるんじゃ無いかと期待している自分に呆れた。
タクシーの中でもいくつか質問をしたけれど、そのどれにも答えてくれることはなかった。フードを深くかぶり、私と顔を合わせようともしてくれなかった。
もう、私の知っている曽良くんはいないんだ。痛いほどに思い知る。
私は力なくシートの背もたれに頭を預けた。
嫌われちゃった。いえ、恨まれているんだ。曽良くんはきっと、私を赦してくれない。
当然だ。私は『黒幕の娘』だったんだから。カインの敵なんだ。私のせいで、カインの皆は今、危険にさらされている。曽良くんがこうして私を助けてくれるのも、和幸くんからお願いされたから仕方なく、なんだろう。本当は、私の顔も見たくないのに……。
「和幸くん……」
膝に置いていたナイフをぎゅっと胸に抱きしめる。
さっき、電話口で聞いた彼の声だけが、今の私の拠り所だった。大丈夫か、と私に訊ねた彼の声は変わっていなかった。いつも通り、優しい声色。暖かい愛を感じた。
きっと、和幸くんはまだ知らないんだ。私が『黒幕の娘』だということを……。じゃなきゃ、曽良くんに『お迎え』を頼むわけがない。私をまだ愛してくれているわけがない。
どうして? どうして、私が『黒幕の娘』なの? 私は災いの人形、パンドラ。それだけで充分でしょう。
世界の敵になってもいい。でも、私は……和幸くんの敵にはなりたくなかった。和幸くんにだけは恨まれたくなかった。
これが、私の運命なの? 私は、災いしか生み出さない存在なの? そのためだけに、生まれてきたの?
ねぇ、神様。私は、人としての幸せを一つも望んではいけないの? たった一つの愛さえ望むことも赦されないの? それなら、なぜ……人としての十七年間なんて与えたの? 最初から、世界を滅ぼすだけの存在として産み落としてくれればよかったのに。そしたら、私は……こんな絶望を知らずにすんだのに。愛を失う苦しみを知らずにすんだのに。
――今から助けるなんて不可能だよ。
曽良くんの言葉が蘇り、胸に突き刺さる。
曽良くんが危険を冒してまで私を助けようとしてくれるのは――和幸くんの願いを叶えようとしているのは――それが、和幸くんの『最期の望み』だからなの? 和幸くんの『遺言』だと考えているから?
イヤ。そんなの、イヤ。
「諦めないで……」
聞こえるはずも無いのに、遠ざかって行く小さな背中に呼びかけていた。その背中だけが、私に残された唯一の希望に思えたから。
私はまだ、全てを失ったわけじゃない。まだ、和幸くんを失ったわけじゃないんだ。
たとえ、和幸くんから愛されなくなったとしても構わない。私の気持ちは変わらない。私は最期まで彼を愛し続ける。彼が生きてさえいてくれたら、私はそれでいい。
――まだ、間に合いますよ!
前田さんの必死に訴える声が遠くから聞こえた気がした。
間に合う。――その言葉が暗示をかけるように、何度も何度も頭の中で繰り返される。
抱きしめていたナイフを胸から離し、じっと見つめた。木製の柄には赤いシミが残っている。前田さんの血だ。
私を必死に助けようとしてくれた前田さん。私はそんな彼を見捨て、彼の血が染み付いたこのナイフを受け取った。『覚悟』の証として……。
苦しそうに顔を歪めて横たわる前田さんの姿が脳裏をよぎり、私は固く目蓋を閉じた。
赦してもらおうなんて思わない。言い訳をする気もない。私は前田さんを犠牲にした。自分の『覚悟』を貫くために。和幸くんを守るために――。
ぎゅっとナイフを握りしめ、私は目を開いた。
「運転手さん!」運転手さんのシートに後ろから掴みかかるようにして私は身を乗り出した。「曽良く……さっきの子を追ってください!」
運転手さんはぎょっと振り返り、気味悪そうに顔をしかめた。
「追ってって……待ってるように言われたんじゃないんですか?」
「待ってるだけじゃだめなんです! 今なら間に合うかもしれない。説得したいんです!」
「はあ?」と運転手さんは怪訝そうに眉をひそめた。
夢中で我を忘れていたことに気づいて、私はハッとした。何を無関係な人に熱弁しているんだ。
「すみません! とにかく……」気を取り直し、私は運転手さんを力強く見つめて言った。「彼を追ってください」
曽良くんがたとえどんなに私を憎んでいても、和幸くんのためなら話を聞いてくれるかもしれない。和幸くんは曽良くんの大事な家族だもの。本当は助けたいに決まってるんだ。口ではなんと言おうと、心の底では見捨てたくないはずなんだ。
不可能だなんて言わないで。私、なんでもするから。だから、お願い。協力して、曽良くん。曽良くんが、私の最後の希望なの。