マルドゥクの王 -10-
「『災いの人形』? なんで、急に……」
急に狼狽えたケットに、ナンシェは怪訝そうに顔をしかめた。
「決まっているでしょう。狩るんです」
「狩るって……なにを言っているの、ナンシェ!?」
「なぜ驚くのです、ケット? マルドゥクの王の使命は、『災いの人形』を土に還し、ルルを守ることでしょう」
「そうだけど……でも、『災いの人形』はまだ『テマエの実』を口にしていない。ルルなんだ。だから、今は彼女を見守るのが君の使命で――」
「見守る? 悠長なことを言っている場合ではないでしょう。ニヌルタも、このトーキョーに『人形』が隠されてることを知ってしまったのです。もし、彼に『災いの人形』を先に奪われたらどうするの? 手遅れになる前に……まだ『災いの人形』がルルであるうちに、片を付けるべきです」
ケットは啞然としてナンシェを見つめていた。まるで、得体の知れないものを前にしているような怯えた表情で。
「ナンシェ……自分が何を言っているか、分かってるの?」
「もちろんです」ナンシェは眉一つ動かさず、天使を真っ向から見据えて言う。「わたしは覚悟を決めました」
「人殺しになる覚悟?」
ぼんやりとした声が突然降ってきて、ナンシェはハッとして顔を上げる。
「『テマエの実』を食べていないパンドラを土に還す。それは、人を殺す、ということだよ、ナンシェ・マルドゥク」
「ニヌルタ……」
凍ったように表情のなかったナンシェの顔が瞬く間に強張る。涙も枯れ、真っ赤に充血したその目には、黒い馬によりかかるようにして立っている少年が映り込んでいた。
「リスト・マルドゥクも言っていただろう。彼女は今、人間として幸せに暮らしているんだ。それでも、君は彼女を『パンドラ』として殺そうというの? まだ、『テマエの実』も食べていない、なんの脅威もない少女を……」
「あなたがわたしを諭そうとでもいうのですか」ナンシェは苛立ちに声を震わせながらも、淡々とした口調で食い下がる。「散々、しきたりを破り、罪の無い人々の命を奪い、ただの人殺しに成り果てたのは、あなたの王でしょう」
「マルドゥク様! いくらマルドゥク様といえど、そのような侮辱はいかがなものかと」
「侮辱? わたしはただ事実を述べているだけです。侮辱しているのは、彼のほうだわ」
ラピスラズリの諌言にもひるむことなく、ナンシェはさらに畳み掛ける。
「ルルの世界を守ることこそ、マルドゥクの王の使命。だから、わたしは手遅れになる前に、『災いの人形』を狩る。使命を全うするために、最善を尽くすだけ。神の意志を無視し、己の欲望のままに殺戮を繰り返すニヌルタの王と一緒にされたくはありません」
「神の意志?」ユリィの血の気の無い顔に苦悩の色が浮かぶ。「君はそんなもののために、リスト・マルドゥクの意志を裏切るというの?」
その瞬間、ナンシェの顔は真っ赤に染まった。
「リストちゃんを馴れ馴れしく語らないで!」ヒステリックな声を張り上げ、ナンシェは飛び上がる勢いで立ち上がった。「あなたに何が分かるの!? あなたがリストちゃんの何を知っているというの!?」
「オレは誰よりも彼の気持ちが分かる」
あまりにはっきりと、迷いなく答えたユリィに、ナンシェは「え」と面食らった。
「リスト・マルドゥクとオレの願いは同じだったんだ。使命から大事な人を守りたい。それだけ」
ユリィは悔しげに顔をしかめ、自分の腹部を見下ろした。タールに撃たれた傷を押さえる左手は真っ赤に染まり、甲を伝って血の雫が床へ滴り落ちていく。Tシャツにプリントされていた一艇のヨットは、霧のような赤いシミに覆われてしまっている。
ユリィは俯いたまま、ぐっと目蓋を閉じた。眉間に険しい皺を刻み、痛みをこらえているような表情。それは、傷の痛みなのか、はたまた――。
「オレの願いはもう叶わないのかもしれない。オレはもう兄さんの魂を救えないのかもしれない。でも……」
ユリィはゆっくりと顔を上げ、力のこもった眼差しでナンシェを見つめた。
「でも、君は違う。君の魂はまだ、使命に侵されてはいない。君はまだ、リスト・マルドゥクが願った君のままだ」
「何を……言っているのです?」
「だから、オレは君を守り切る。せめて、リスト・マルドゥクの願いは、オレが叶える」
「わたしを……守る?」ナンシェの唇に歪んだ笑みが浮かぶ。「見くびらないで! わたしはあなたに守ってもらう必要なんて――」
「君がなんと言おうと、オレは君にパンドラは殺させない。リスト・マルドゥクのために」
「リストちゃんのため? おかしなことを言わないで! リストちゃんはわたしが立派に使命を遂げることを望んでいます!」
「君はなにも分かっていない!」
ユリィはいきなり、声を荒らげた。取り乱す主に驚いたのか、傍らで控えるラピスラズリがぎょっとして振り返った。
「君はもう忘れたの? リスト・マルドゥクは君を使命から守るために剣を継承し、王になったんだ。彼はそのために創られ、そのために生きてきた。君に剣を継承したのは、君の命を守るためにしかたなく、だ。彼は君が使命を背負うことを望んでいたわけじゃない!」
「分かっているわ!」と、ユリィに競うようにナンシェも声を張り上げる。「リストちゃんはわたしのために、たった一人、罪深い秘密を抱え、あんな重たい剣を抱えて生きてきた! だからこそ、もう、これ以上、リストちゃんに甘えるわけにはいかない! 『人形殺し』は、わたしの使命。わたしが、マルドゥクの王としてそれを全うする! それが……」
「それが……リスト・マルドゥクへの償い――とでも思っているの?」
「!」
ユリィの褐色の瞳は、水晶のように曇りなくナンシェの姿を映し出していた。愕然として固まる、無防備な少女の姿を――。
「そんなことしても、リスト・マルドゥクは悲しむだけだ。それは、君の自己満足にすぎない」
「勝手なことばかり……。どうして、あなたにそんなことを言われなきゃならないの!? リストちゃんのことは、あなたよりわたしのほうがよく知っているわ! そもそも、ニヌルタのあなたの言葉にわたしが耳を貸すとでも思っているのですか!? あなたの狙いは分かっています。そうやって、言葉巧みにわたしを惑わし、ニヌルタとしての使命を果たそうとしているだけ! ニヌルタの王が『人形』を使い、エリドーを滅ぼす手助けをしようというだけよ! リストちゃんをどうやって言い包めたのかは知らないけれど、わたしは騙されない!」
ユリィはすぐには答えなかった。ふうっと息を吐き出し、どこか憐れみを含んだ冷静な眼差しでナンシェを見据える。
「オレは……君にパンドラは殺させない。兄さんにもこの世界を滅ばせたりはしない。使命なんてどうでもいい。これは、オレの意志だ」
「意志……?」
ユリィは支えにしていたラピスラズリの身体から離れ、おぼつかない足取りでリストのもとへ歩き出した。
「なにをする気――」
ユリィの行く手を阻もうと一歩踏み出したナンシェの前に、ラピスラズリがずいっと身体を割り入らせた。
「ユリィにお任せください、マルドゥク様」
「任せろって、何をするつもりです!?」
「いつまで、このような冷たい床にリスト・マルドゥク様を眠らせるおつもりですか」
その瞬間、ナンシェは瞠目した。叱られた子供のように怯えた表情でふらりと後退る。
「ラピスラズリ」
ケットが心配そうに見守る中、ユリィはリストの身体を抱き起こし、己の天使の名を呼んだ。
ラピスラズリはすいっと寄り添うように近づき、前足を折って膝をつく。その背に、ユリィはリストの身体を腹這いにして乗せた。抵抗もしなければ協力もしてくれない。たとえ小柄でも、意思のない身体は、持ち上げるだけでも一苦労だ。力んだせいで傷口から噴き出した血が、ぽたりぽたりとユリィの足元に落ちた。
それを、ナンシェはじっと見下ろしていた。
「丁重に」
「分かっております」
リストを落とさないよう慎重に立ち上がり、ラピスラズリは階段へと向かう。安堵したように胸を撫で下ろし、ケットは「ありがとう」とユリィに言って、ラピスラズリの後を追った。
不規則に繰り返される蹄の音が遠ざかっていく。さっきまで血なまぐさい争いが行われていたのが嘘のような穏やかな静けさがフロアを包み込んでいた。
「君は行かないの、マルドゥク?」
振り返りもせず、ユリィは訊ねた。
「どういうつもり?」不信感もあらわに、ナンシェは聞き返す。「こんなことで恩を売って、『聖域の剣』で傷を治せとでもいう気ですか?」
「そんなことは始めから望んでいない」
「じゃあ、何が狙いなのですか?」
「狙いなんてない。これはオレの意志。オレがしたいからしてるだけ」
ユリィの答えを聞いても、ナンシェの表情が晴れることはなかった。
じっと押し黙るナンシェに、今度はユリィが訊ねた。
「君はどうなの、マルドゥク?」ゆっくりと振り返り、ユリィは労るような眼差しでナンシェを見つめる。「君は本当に、この世界を守りたいと思っているの?」