マルドゥクの王 -7-
「なるほど」打ち拉がれるナンシェの傍らで、タールは呆れた様子で頭を銃口で掻いた。「王位継承か。そんな手に出るとは……」
タールは「チッ」と舌打ちして、うずくまって動かないナンシェを睨みつけた。
「お前も不死の身体を得たってわけだ。よかったじゃねぇか」
「……ない」
「あ?」
「わたしはそんなものいらない!」
そう叫んだ途端、箍が外れたかのように、ナンシェはぼろぼろと涙を流して嗚咽混じりに訴え始めた。
「わたしは不死の身体なんていらない! 剣なんていらない! 使命なんていらない! わたしは……」
ナンシェは背中を丸め、平伏するかのように額を床にすりつけた。
「わたしは……リストちゃんと、一緒に帰りたかっただけなのに」
「ナンシェ」ケットは慰めるようにナンシェの肩にそっと手を置いた。「リストは君を守りたかったんだ」
「守るって……こんな方法で守られても、嬉しくない! どうして? どうして、リストちゃんはこんなこと……!? わたしが、死にたくない、なんて言ったから? わたしがリストちゃんを追いつめたから……!」
「そんな言い方しないで、ナンシェ」
「そうだぜ」とケットに相づちを打ったのはタールだった。「もし『リストちゃん』がパンドラを連れて来ていたとしても、オレはお前を殺すつもりだったんだ。『リストちゃん』の判断は正しかった。感謝することだな」
ケットはぎょっとして顔を上げる。そこには、信じられない、と言いたげな愕然とした表情が浮かんでいた。小さな口はぽかんと開いて、言葉も出ないようだ。
タールはそんな天使の反応に子供のようにおもしろがってクツクツ笑う。
「『リストちゃん』のお陰で命拾いしたんだよ、ナンシェお嬢様。――いや、もう『マルドゥク』とお呼びするべきか」
「ニヌルタ……」
ナンシェの泣き声はいつのまにか止み、その小さな身体はガタガタと小刻みに震えていた。剣の柄を握る手に力がこめられ、血に染まった手の甲に細い血管が浮かび上がる。
「ナンシェ?」
異変に気づいたケットが声をかけるや否や、ナンシェは突然身体を起こし、涙と血を辺りに散らしながら勢いよくタールに振り返った。
「ニヌルタ!」
奇声とも悲鳴ともつかない叫びをあげ、ナンシェは剣を振るおうとした――が、ナンシェの身体はぴたりと止まった。いや、正確には、剣が彼女を引き止めたのだ。
「え?」とナンシェは呆けた声を漏らして、剣を見下ろす。「なんで……」
ナンシェは何度も剣を持ち上げようとするが、剣は全く以て動かない。両手で掴み、引っぱり上げようとしてみても、剣はまるで床に張り付いてしまったかのようにびくともしない。
「なんで……なんで……!?」
傍から見ればパントマイムでもしているかのような滑稽な様に、タールは失笑した。憐れみさえも含んだ侮蔑の笑みを浮かべ、ナンシェに歩み寄ると、彼女に反抗するかのごとく床にへばりつく神の剣を踏みつけた。
ケットが「なんてことを!」と怒号をあげるが、タールは無視してナンシェを卑しむように見下ろす。
「それが『使命の重さ』ってやつだよ、マルドゥクのお姫様よ。お前には重すぎるみたいだな」
ナンシェは目を剝き、硬直した。タールが何を言わんとしているのか、続きを聞かずとも分かったのだろう。剣の柄を握る手からふっと力が抜け、怒りと憎しみに染まっていた顔に絶望が浮かび上がる。
ケットはかける言葉が見つからないようだった。今にも泣きそうなほどに顔を歪め、じっとナンシェの前に立ち尽くす。その小さな拳をぎゅっと握りしめて。
「その『聖域の剣』やオレの『冥府の剣』は神からの『贈り物』だ。物質としての重さなんてない。その代わり、そこには『使命』が宿っている。ただの人間には到底、背負えない重い『使命』がな。その重みに耐えうる者だけが、『神の剣』を振るうことを赦される」
一息で言い切ると、タールは満足げに微笑を浮かべた。
「そう落ち込むな、マルドゥクのお姫様」タールはすっと『聖域の剣』から足をどけ、ナンシェの傍らにしゃがみこんだ。「お前はもともと、エンキから選ばれたわけでもないんだ。『リストちゃん』のお情けで王位を継承しただけ。剣を振るえなくて当然だ」
反論することもなく、ナンシェは呆然と剣を見下ろしていた。タールはそんな彼女の頭を覗き込んだ。捉えた獲物を前に舌鼓を打つ捕食者のような、愉悦の表情を浮かべて。
「お前は『使命』を背負える器じゃない。本来なら、お前はこの剣に手を触れることも赦されないはずだった。
ところが、お前があまりに情けないもんだから、『リストちゃん』はこうして剣とともに王位を譲っちまった。お前はエンキから正当なる王と剣を奪ったようなもんだ」
ナンシェはぞっと色を失くした。カタカタと乾いた唇が震え出す。タールは悦に入るように目を細め、そんなナンシェの頭に手を伸ばした。殴ることしかしなかったその手は、ゆっくりと幼子でもあやすようにナンシェの髪を撫でた。
「感謝するよ。お前みたいな落ちこぼれがマルドゥクの中にもいたことを。
お前なんかに使命は果たせない。――『裁き』は終わりだ」
「ニヌルタ!」とケットがとうとう怒号を上げた。「それ以上の侮辱は赦さない!」
「おうおう、怖いねぇ」わざとらしく身震いして、タールは腰を上げた。「オレは善意から慰めてやっただけだぜ」
「見え透いた嘘を……」
ケットは激しい剣幕で、タールを睨みつける。
「分かった、分かった。邪魔者は退散するよ。賢明なる若きマルドゥクの王を亡くしたんだ。たっぷりと二人で弔うといい」
持っていた銃をジーンズと腰の間にはさみ、タールはナンシェとケットに背を向け、歩き出し――と、突然、ハッとして足を止めた。
「ったく。まさか、王位継承とは……」
タールが憎らしげに見つめる先には、一人の少年が横たわっていた。うつ伏せに倒れる彼の身体に傷はない。事情を知らないものが見れば、昼寝か貧血かと思うことだろう。だが、そこにもう魂は無い。今ごろ、祖神たるエンキのもとに還っているだろう。
タールは気に入らない様子で顔をしかめ、ブーツの底をひきずるようにして階段へと向かう。
「目の前でお嬢様を殺してやろうと思ったのに。これじゃ、骨折り損だぜ。なんのために小娘連れて地球を半周したんだ」
ぶつくさと小言を漏らすタールの背中を、「タール、もう行くの?」とレッキがトコトコと小さな歩幅で追いかける。
「兄さん」
そんな二人の前に、立ちはだかる人影があった。赤い鮮血が滴り落ちる腹部を押さえ、血の気の無い顔でタールを睨みつける。がたがたと頼りなく震える足下ではシャム猫が心配そうに見上げていた。
タールは鼻で笑って、蔑むような、憐れむような、そんな眼差しを彼に向けた。
「お前は家に帰れ、ユリィ。邪魔だ」
「さっき言ったこと、本当なの?」
「さっき?」
「たとえマルドゥクがパンドラを連れて来ていても、彼女を殺すつもりだった、て……」
タールは驚いたように目を丸くしてから、「クッ」と唇の片端を上げた。
「だったら、なんだ?」
「目の前で大事な人を奪う――仕返しのつもりなの?」
その瞬間、がらりとタールの表情が変わった。
「よく喋るようになったじゃねぇか、ユリィ」
「誰への仕返しのつもりなの、兄さん?」
「何が言いたい?」
「アナマリアを殺したのは、マルドゥクじゃない! これじゃ、ただの八つ当たりだ!」
タールはかっと目を見開き、ユリィの胸ぐらを掴んだ。頭突きでもする勢いでぐいっと顔を寄せ、
「もう一度言う、ユリィ。大人しく家に帰れ」
瞳孔が開いた目は、タールが正気を失いかけていることを示すには充分だった。さすがのユリィも緊張の面持ちで口を噤む。これ以上刺激すれば、タールは腰の銃を取り出し、ユリィの眉間を打ち抜くだろう――その場にいた全員に予想がついた。それほど、タールから感じるオーラはおぞましいもので、その声からは鬼気迫るものが感じられたのだ。
「タール」やがて、レッキが遠慮がちにタールのTシャツの裾を引っぱった。「もういいじゃないか。行こうよ」
やはり、ニヌルタ同士のケンカはレッキにとっては見るに耐えないものがあるのだろう。小さな天使は不安に揺れる黒い瞳をタールに向け、返事を待っていた。
その視線を感じ取ったのか、このまま睨み合っていても埒があかない、と判断したのか、タールは大儀そうにため息ついて、ユリィの身体を突き飛ばすようにして胸ぐらから手を放した。
腹に穴があいているのだ。ユリィに踏み堪える力があるわけもなく、そのまま尻餅ついた。
「ユリィ!」と慌てて、ラピスラズリが駆け寄った。「大丈夫ですか?」
ユリィは己の天使に目もくれず、まっすぐに兄を見上げていた。何かを訴えかけるような力強い眼差しで。
「じゃあな、ユリィ」
しかし、タールは冷たく別れを告げ、レッキとともに階段へと向かって行った。
やがて、不気味なほどに静まり返ったフロアに、階段を下りる足音が響き始めた。
 




