マルドゥクの王 -6-
毎年、クリスマスにはマルドゥクの一族は皆、本家の屋敷に集まり、地下の神殿でエンキに祈りを捧げる。七歳のときのクリスマスも例外ではなくて、わたしは母に連れられ、本家の屋敷に来ていた。
エンキへの祈りは一人一人、別々に神殿にこもって行う決まりだったから、皆、本家の屋敷にこもって、順番待ちをすることになる。大人たちは食堂で小難しい話で時間をつぶし、子供たちは外で雪遊び――それが、マルドゥクのクリスマスの過ごし方だった。
「あの子、誰ですか?」
雪だるまをつくるのに夢中だったわたしは、一人だけ、遠くでぽつんとベンチに座る男の子の存在にそれまで気づかなかった。
ニット帽を目元まで深くかぶって、ポケットに手を突っ込み、ふらふらと足を宙で遊ばせている。見るからに退屈そうだった。ベンチのすぐそこでは、男の子たちが雪合戦をしている。混ざればいいのに、と不思議だった。
「ああ、あの子? リスト・ロウヴァーよ」
ふいに、隣で雪を丸めていた同い年のリディア・エリオットが面倒そうに答えた。
「リスト・ロウヴァー? 聞いたことありませんけれど……」
「あら、ウェンディ叔母さまから何も聞かされておりませんの、ナンシェ?」
「いえ……母からはなにも……」
「あなたは聞いているでしょう、シンディ?」
「ええ」と、雪に飽きて、長い髪を三つ編みに結っていたシンディ・ハノーヴァーは手を止めることなく、慣れた口調で言う。「本家では大騒ぎでしたのよ? 急に、リチャードおじいさまが子供を連れて来て、『剣の継承者』にする、て言い出したから」
「『剣の継承者』って……じゃあ、あの子が次の王なのですか!?」
まだ七歳だったわたしでも、『剣の継承者』の意味することは分かっていた。マルドゥク家に代々伝わる宝刀、『聖域の剣』。それは、我が一族の祖神、エンキから承った『贈り物』であり、マルドゥクの王の証。『剣の継承者』には、王の名とともに、不死の身体と崇高なる使命が与えられる。
一族の中で、『剣の継承者』に選ばれることは最大の名誉であり、継承権を持つものは皆、我こそはとしのぎを削っていた。そんな継承者争いは、リチャードおじいさまが年を取られるにつれ、激しくなり、一族が集まれば不穏な空気が流れるようになっていた。幼かったわたしでも、水面下で行われる足の引っぱり合いに気づけるほどに。
マルドゥク一族は、ハノーヴァー家を本家として、エリオット家、モンロー家、そしてアブキール家の三つの分家に分かれていた。代々、ハノーヴァー家から『継承者』が選ばれることが多かったけれど、そういった掟があるわけではなかった。エンキの代弁者である天使、ケット様が言うには、「王位継承順位などというものは存在せず、マルドゥクの血を引いているものには、平等に『継承権』が与えられる」とのことだった。つまり、誰が王位を継承するかは、神託が下るまでは誰にも分からない、皆に平等に可能性がある、ということ。だからこそ、本家やそれぞれの分家の間で、小競り合いが起きることになってしまったのだ。
ただ、エンキがなにを基準に継承者を決めるのかも誰も知らなかったから、不毛な争いでしかなかったのだけれど……。きっと、『継承者』になることへの執着と期待、そしてプレッシャーが、いらぬ争いを呼んでいただけだったのだろうと思う。
とにかく、わたしはそれが嫌だった。『剣の継承者』なんて誰でもいい、はやく決まって、一族皆、仲良くできればいいのに、と願っていた。
「神託が下ったのですね!?」
「そんなわけないでしょう、ナンシェ」興奮するわたしを、慌てた様子でシンディは諭した。
「エンキが娼婦の子を選ぶわけありません」
「しょうふ……?」
三つ年上のシンディは、本家の長女らしくしっかりとして、発言も十歳とは思えないほどに大人びていた。このときも、わたしにはシンディが言った『しょうふ』の意味が分からなかった。
「でも、神託が下ってないのなら……なぜ、リチャードおじいさまは、あの子を『剣の継承者』などと言い出したのでしょうか? 嘘をついているということでしょう?」
それまで黙って話を聞いているだけだったモンロー家のアリシアが口を挟んだ。眼鏡をくいっと上げ、利発そうな鋭い眼差しでシンディを睨む。
アリシアとシンディは同い年で、周りから比べられることも多く、お互いにライバル視しているようだった。このときも、アリシアに質問されただけで、シンディはむっとして敵意をむき出しにしていた。
「分家のあなたたちには無縁の話かもしれませんが……」そんな嫌味で前置きして、シンディは透き通るような蒼い瞳でわたしたちを見つめた。「あの子は、リチャードおじいさまと娼婦との『隠し子』。今後も、彼とその母親のイリーナは、マルドゥクの本家――つまり、我がハノーヴァー家で預かることになりますわ。ですから、ハノーヴァーの屋敷の中で、少しでも二人の立場が良くなるように、とリチャードおじいさまがはったりをかましたに違いありません。『剣の継承者』となれば、私たちの未来の王です。娼婦の子供とはいえ、敬意を払わなくてはなりませんもの」
シンディの言い分にリディアもアリシアも納得したようだったけれど、わたしにはよく分からなかった。
ただ、リストという男の子も、剣の継承権争いに巻き込まれているのだ、とそれだけは分かった。それだけで、わたしには充分だった。
「ナンシェ? どこに行くの!?」
背後から責めるようなシンディの声が聞こえたけど、わたしは無視して進んでいった。
「ねぇ」雪に足を取られながらも、ベンチの前まで辿り着き、わたしはおずおずと話しかけた。「一緒に遊ばない?」
ベンチの向こうで雪合戦をしていた男の子たちが、わたしの行動に気づいたようで、ざわつきながら顔を見合わせていた。
「リスト・ロウヴァーくん……だよね? わたしは……」
「やめときなよ」
足をぶらぶらと動かすだけで反応のなかった男の子が、急に口を開いた。
「君も皆に嫌われちゃうよ」
背丈からしてわたしと同い年くらいなのに、その声はひどく冷め切っていた。聞いてるだけで、こちらの心までが凍えてしまいそうなほど。街も湖も草原も、何もかも見えるもの全て白く染め、冷たくしてしまう雪のように。
「なんで……そんなこと言うの?」
「本当のことだから。僕は泥棒なんだってさ」
「泥棒? なにを盗んだの?」
「『聖域の剣』」
ずばりと彼は言った。思いもしなかった言葉に、わたしは息を呑んだ。
「『マルドゥクの名』……不死の身体……使命……そういうもの全部、僕は盗むんだ」
「盗むって……そんな言い方は良くないよ」
「僕に言わないでよ。皆がそう言うんだ」
皆――か。わたしは辺りを見回した。
庭で遊んでいたマルドゥクの子供たちが、不信感をあらわにわたしを睨みつけていた。幼心にも、その視線を残酷だと思った。きっと、彼はここに来てから、この『皆の視線』に晒され続けてきたんだろう。
「わたしは……わたしは違うよ。わたしは、君を泥棒だとか思わない」
気づけば、わたしはそんなことを口走っていた。
男の子の足がぴたりと止まった。
「だから、一緒に遊ぼう」
「君も仲間はずれにされるよ」
「うん……たぶん。でも、二人で仲間はずれにされれば、寂しくないでしょう?」
「……」
静寂に包まれた庭は、時間までが凍ってしまったようだった。
やがて、男の子はゆっくりとニット帽に手を伸ばし、くいっと上にずらした。さらさらと金色の髪が揺れる下で、太陽の陽を浴びて輝く水面のような真っ青な瞳がわたしを見つめていた。
似ていると思った。自分に……。
「ああ、そっか」
ふと、彼は諦めたような、降参するような、そんな切なげな笑みを浮かべ、つぶやいた。
「ナンシェ、僕は君を守るために生まれてきたんだ」
「え……」
いきなり何を言い出すのか、とわたしはぎょっとした。それに、なぜ名前を知っていたのか。リチャードおじいさまから聞いていたのだろうか。
「ようやく分かった。リチャードが僕を創った理由……」
「創った……?」
「それに、エンキが君を選んだ理由も」
「エンキ様……選んだ?」
妙な言葉が次から次へと彼の口から溢れてくる。首を傾げることしかできないわたしに、彼は「ごめんね」と無邪気に笑った。
「今は、君は知らなくていいことだよ」
「はあ……」
それより、と彼は立ち上がり、寒さに赤らんだ頬を緩ませた。
「お誕生日おめでとう、ナンシェ」
「なんで、知ってるの!?」
クリスマスと重なって、忘れ去られるのが常だったわたしの誕生日。まさか、初めて会った男の子に祝われることになるなんて思いもしなかった。
「やっぱり、リチャードおじいさまからわたしのこと聞いてたの? だから、名前も知ってたの?」
「ああ、まあ。そうだね」
なぜか言葉を濁した彼を不審に思いつつも、わたしは「そういえば」と気になっていたことを訊ねた。
「君、いくつなの?」
「君の一つ下」
「年下なんだ? 同い年くらいかとは思ったけど……そっか」
つい、顔がほころんだ。マルドゥク家の中でわたしより年下の子が、それまでいなかったからだ。
「じゃあ、リストちゃんって呼ぶね!」
リストちゃんは一瞬嫌そうな顔をしていたけれど、すぐに微笑み「いいよ」と言ってくれた。お姉さんになれることに浮かれるわたしに水を差すまい、としてくれたのだろう。
「ナンシェ、僕、君に会って覚悟ができたよ」
オレンジ色の照明が銀世界を照らし始めたころのことだった。ふと、リストちゃんはわたしと二人でつくった雪だるまを見上げて言った。
「覚悟? なんの?」
「泥棒になる覚悟だよ」
「リストちゃんは泥棒じゃないって」
「泥棒でいいんだ」夕陽に照らされたリストちゃんの横顔には、清々しい笑みが浮かんでいた。「ナンシェを守るためなら……」
わたしを守るためなら、泥棒でいい――リストちゃんのその言葉の意味は、今でも分からない。小さいころのことだから、深い意味はなかったのかもしれない。でも、嬉しかったんだ。何があっても、リストちゃんが守ってくれる、て思えた。王子様が現れたんだ、なんて思った。
ねぇ、リストちゃん。あのときから、リストちゃんはわたしの王子様だったんだ。ずっと信じてたんだ。リストちゃんだけは、何があってもわたしの味方でいてくれる、て。
なのに、どうして?
リストちゃんは、わたしよりもパンドラを選んだの? わたしの命よりも、パンドラの残された時間のほうが大切だというの? パンドラは『災いの人形』。ルルでもないのに。ルルを滅ぼために、エンリルがルルに似せて創ったもの。どうして、そんなものに情けをかけて、わたしを見捨てたの?
リストちゃん――。
「ナンシェ」
誰かが、呼ぶ声がした。
「ナンシェ」
誰?
ふっと目蓋を開くと、ひどい頭痛がした。意識が朦朧として、視界が霞む。
「なに……どうなってるの?」
わたし、ニヌルタに頭を撃たれたんじゃ……?
重い身体をのっそりと起こし、顔を上げると、人影があった。わたしの前で片膝をつく、小さな少年――。
「ナンシェ」金粉を散りばめたように輝く長い髪を床に垂らし、彼は深々とわたしに頭を下げた。「エンキが天使、ケットは……ナンシェ・アブキールに、マルドゥクの剣を継承することを認める」
ざわっと背筋に戦慄が走った。電流が脊髄から脳天にまで駆け抜けるような痺れが走り、わたしは目を見開いた。
「……どう……いうこと」
意識がはっきりとして、ようやく、右手に妙な感覚があることに気づく。
鉄のように固く、絹のようになめらかな質感の中に、手のひらにはびっしりと這うような凹凸を感じる。くさびの形の刻印が、自然と脳裏に浮かび上がった。
全身が震えていた。
わたしは呼吸も忘れ、ゆっくりと手元を見下ろした。そこにあったのは――。
「!」
わたしの手には大振りの剣がしっかりと握られていた。うっすらとオーロラのような光の膜が覆う銀色の刀身には、赤ワインをかぶったように左半分を真っ赤に染めたわたしの顔が映っている。
はっとして辺りを見回すと、わたしの周りの床には赤いしぶきが飛び散っていた。
ぞっと寒気に襲われた。全てを悟った。
「わたし……一度、死んだんだ……」
そして、生き返った。――いえ、違う。死ねなかった……。
「先代リスト・マルドゥクは貴女に『聖域の剣』を継承されました」
脳に直接入り込んでくるような声に、わたしははっとして顔を上げた。
幼い少年の姿をした天使は、まだ片膝をつき、わたしに頭を垂れていた。まるで、わたしが彼の主かのように……。
「やめて……ケット様」
そんなこと、あってはならない。わたしがケット様の主なんて……。
「もう、ケット、でいいんだよ」ケット様はゆっくりと顔を上げ、黄金をはめこんだような瞳にわたしの姿を映し出した。「ナンシェ・マルドゥク」
全身から力が抜けた。頭の中が真っ白になった。
考えたくなかった。その名を得たことが何を意味するのか。
――王に選ばれたものは、不死になれる。『王位継承は命と引き換え』。でもそれは、王位継承をしない限り、なにがあっても死なないってこと。だから、心配すんな。
旅立つ日、墓地でリストちゃんはそう言った。
わたしは唇を噛み締め、項垂れた。まだ現実に目を向ける勇気が出なくて、ケット様の背後を見ることができなかった。そこにさっきまで立っていたはずの人物の姿を捜すのが恐ろしかった。