マルドゥクの王 -5-
「パンドラと……ナンシェを交換!?」
「パンドラの居所、お前も知ってるんだろ? アトラハシスは知ってるようだったぜ」
「それは……」
オレは口ごもった。しらばっくれるべきか。いや、下手に嘘をついて、ニヌルタを刺激するようなことは避けるべきか。
だが、逡巡したその一瞬は、『自白』同然だった。
ニヌルタは「やっぱりな」と確信を持ったように切れ長の目を細めた。
「アトラハシスは俺に協力する、と言うんだがな。『収穫の日』までパンドラだけは渡さない、ときた」ニヌルタは無精髭が囲む口許に、にんまりと妖しげな笑みを浮かべる。「オレはどうも、待つってのが性に合わなくてな。今すぐ、『人形』が欲しい」
「そんなの嘘だ!」いきなり甲高い声を上げたのは、ケットだった。「アトラハシスが君に協力するって? そんなわけない」
「なんだよ、エンキの天使」いじけた子供のように唇を尖らせ、エンリルの天使はケットをねめつけた。「タールを嘘つき呼ばわりしないでほしいな」
「アトラハシスは、エンキが認めた『最高の賢者』だ! ルルの王なんだよ? ニヌルタの王に協力するわけがない!」
「そう言われてもねぇ」白々しく困ったように眉根を寄せて、ニヌルタは肩を竦めた。「オレも正直、あまり信用はしてねぇ。だが、はっきり言いやがったぜ。『収穫の日』に、『テマエの実』もパンドラもオレに渡す、てな」
「そんな……そんなわけない!」
まるで自分に言い聞かせるように必死に首を左右に振るケットを横目に、オレは落胆するだけだった。素直にそれを事実として受け入れていた。
どこかで、覚悟はしていたんだ。エノクの預言を聞いた、あのときから。
――彼は、『災いの人形』に『テマエの実』を与えるわ。彼はあなたたちマルドゥクにもニヌルタにもつく気はない。ただ、『箱』を開けることを選んだ。
そして、極めつけは、さっきのバールの言葉だ。
――わたくしは神への忠誠も天使としての使命もとうに捨てましたわ。わたくしの主はただ一人、フォックス・エン・アトラハシスだけ。あなたがたにへりくだる気は毛頭ありません。
悟ってしまった。アトラハシスは、きっと、オレたちマルドゥクを恨んでいる。だから、使命を捨てたんだ。
そりゃそうか、と納得してしまえるのがつらい。
――『パンドラの箱』が開かれた日、確かに、兄さんは使命を逸脱するような行動を取った。でも、それは兄さんだけじゃない。
ああ、そうだ。ユリィの言う通りだ。あの日、使命に背き、勝手な行動を取ったのは、ニヌルタの王だけじゃない。先代マルドゥクの王、リチャードもだ。アトラハシスに見限られても仕方ないんだ。
オレは剣の柄をぐっと握りしめた。王の権威を示すはずの剣がただの玩具に思えて情けなくなった。
「お前らの間に何があったのかは知らんが……そういうわけだ。『テマエの実』はどうせ、『収穫の日』にしか手に入らねぇからいいとして、パンドラはさっさとオレのものにしておきたい。どうする、マルドゥクの王?」
どうするもなにも……選択肢なんて無い。
ナンシェ――オレは、彼女を守るために創られた。その使命を呪ったことはない。彼女のために創られたことを誇りにさえ思う。
初めて会ったとき、オレには分かったから。彼女にはそれだけの価値がある、と。彼女を憎むことはできない、と。
濁り行く世界の渦の中で、彼女だけは清らかで、穢れることのない水晶のような魂が目に見えるようだった。
だから、誓ったんだ。彼女を守る、と。彼女にこの剣を握らせない、と。彼女の魂を『災いの人形』の血で穢させはしない、と。その罪はオレが背負うと決めた。全て、ナンシェのため――そう思えば、自分の存在も赦せたから。
――リスト? 何を迷ってるの?
ふいに、戸惑うケットの声が脳裏に響いた。
――ひとまず、『災いの人形』をニヌルタの王に渡そう。『収穫の日』まで時間はあるし、『災いの人形』は今や不死だ。危険はないよ。ナンシェをまず取り返して、それから『災いの人形』も取り返せばいい。
そう……だね。それが、マルドゥクの王としての正しい選択肢だ。
「おい、マルドゥク? 聞いてんのか?」
オレはふうっと深く息を吐き、ナンシェを見つめた。
いったい、どんな生活を強いられていたのか。ふっくらとした頬は見る影もなく痩せこけ、唇は乾き切り、血が滲んでいる。晴れ渡った青空を思わせた瞳は不安げに潤み、雨空のように曇って見えた。
「ごめんね、ナンシェ」
オレは力無くそう言った。
「パンドラは……今、ルルとして、幸せに暮らしている。オレにはそれを壊すようなマネはできない」
オレの言葉に、ナンシェは目を剝き、固まった。
「リスト……!? なに言ってるの!? ニヌルタの『交換』って意味、分かってるの!?」
「ケット様のおっしゃる通りです! マルドゥクのお嬢様のお命がかかっているのですよ、お分かりですか!? きっと、パンドラ様もご理解くださいます!」
足下で背中の毛を逆立てる小さな猫に、オレは「うん」と微笑みかけた。
「あの人は、自ら進んで身を差し出すと思う」
「それならば……」
「天使どもの助言は聞いとけ、マルドゥク」ニヌルタは豪快に笑い出した。「パンドラを渡さないってんなら、ナンシェお嬢様とはここでお別れだ。ルルが創ったこの玩具で頭をぶち抜くぞ」
「分かってるよ。でも……パンドラは渡せない」
はっきり言いきると、ニヌルタは笑みを凍らせた。
「おいおい……つまり、この女はどうなってもいいわけか。使命を選ぶ、てのか。肉親の命よりも」
「使命は関係ない」
「関係ない?」
ラピスラズリの言う通り、あの人は――本間先輩は、事情を話せば飛んで来てくれるだろう。そういう人だと知ってしまった。だからこそ……そんな人だからこそ、守りたいと思ってしまう。
――パンドラとか、使命とか、そういうんじゃない。友達として、リストくんに頼みたいの。和幸くんをお願い。
自分でも呆れてしまうよ。いつからか、本間先輩を『災いの人形』と割り切れなくなっていた。
『友達』――そう言われて、嬉しかったんだ。
マルドゥクの王失格だな。
* * *
「パンドラの命はもう彼女だけのものじゃない。彼女に残された時間をお前に渡すわけにはいかない」
「何を言ってんだ?」
「彼女をあの人から奪うわけにはいかない。あの人が、遺された世界を受け入れるためには、彼女と向き合う時間が必要なんだ。だから……あの人から、彼女との時間を一秒でも奪いたくない。『友達』として、それだけは守らなきゃならない」
「『あの人』だ? 誰のことだ?」
リストの隣でケットははっと息を呑んだ。何かに気づいたかのように、とっさにリストを見上げる。その視線に気づいているのだろうが、リストは何も応えなかった。ただ、まっすぐにニヌルタとナンシェを見据えていた。迷いのない、力強い眼差しで。
「リストちゃん……どうして……」かろうじて聞き取れるほどのか細い声が、淀んだ空気の中に流れ込む。「やだ……助けて、リストちゃん」
ナンシェの瞳から、堰を切ったようにぽろりぽろりと雫が次から次へと落ちていく。それでもリストは、「ごめんな、ナンシェ」と動揺すらも感じられないしっかりとした語調で繰り返した。
「もう一度、一緒に旅行でもしたかった」
「いや……」とナンシェはなり振り構わず、黄金色の髪を振り乱し、首を横に振った。「いや、死にたくないよ、リストちゃん! お願い、助けて」
「マルドゥク様、お考え直しください! このままでは……」
「ラピスラズリ、下がって」
冷静で、しかし、重みのある声に、ラピスラズリはぎくりと怯えた様子で振り返った。
「ユリィ……?」
「マルドゥクには、マルドゥクの覚悟がある。それを邪魔しちゃだめだ」
下腹部を押さえ、青白い顔でこちらを睨みつける主の目は、珍しく鋭く鬼気迫るものがあって、ラピスラズリはしゅんと耳を水平に倒して口をつぐんだ。
「マルドゥクの覚悟、ねぇ。そこまで言われちゃ、仕方ねぇわな」ニヌルタは白けた様子で、ナンシェに憐れみの眼差しを向けた。「ここまで付き合ってくれたのに悪かったな、ナンシェお嬢様。お前の王子様は、お前より使命を選んだみたいだ。これが、神の子の運命ってやつさ。受け入れな」
「いや……お願い! わたしは……まだ、覚悟なんてできてない! リストちゃん、助けて!」
「赦して、ナンシェ」
リストは静かに言って、ゆっくりと目蓋を閉じた。
「君を……守り切りたかった」
ナンシェはぴたりと凍ったように硬直した。絶望の色に染まった顔に、一粒の涙が儚い光を放って落ちていく。
「リストちゃん……どうして……」
そして、次の瞬間――ナンシェの声は乾いた破裂音にかき消され、紅い鮮血が埃に覆われた床を染めた。
華奢な身体がぐらりとくの字に曲がり、稲のような黄金色の髪が赤い雫を垂らしながら潮風に揺れる。
「残念だったな、ナンシェお嬢様」
ニヌルタは大人しくなった少女にそっと囁き、掴んでいた手を離した。ようやく解放された彼女の身体は、重力に押し潰されるようにその場に沈んだ。