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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
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マルドゥクの王 -2-

 ニヌルタが選んだのは、近くにあった八階建ての廃ビルだった。中に入ると、壁には血で書かれたような落書き。足下には千切れた衣服や空き瓶が転がって、人気といえば、物陰で横たわる『人影』くらい。

 階段を上がって行くと、建設途中で放り出されたのか、六階から上は鉄筋の枠組みだけで、吹き抜けのようになっていた。燦々と降り注ぐ陽の光が、辺りを舞う埃をチカチカと輝かせて、絶望しかないような場所だというのに神秘的にさえ見える。


「いい景色だねぇ」


 窓が張られていない、壁が大きくくり抜かれただけの窓枠から景色を眺めて、ニヌルタは嫌味っぽくつぶやいた。


「見てみろよ、ナンシェお嬢様」白い歯をにっと見せ、ニヌルタはぎらついた眼差しをこちらに向ける。「ルルが必死に背伸びして、天に近づこうとしてる。バベルの塔を思い起こさせるねぇ」


 ちらりと外を見てみれば、霞の向こうで立ち並ぶ高層ビル群が。


「あと一ヶ月もすれば、この景色もずいぶんすっきりするだろう」


 くつくつとおもしろがるように笑うニヌルタに、わたしは拳を握りしめた。でも、満足な食事も採っていない身体に力がはいるわけもなく、手のひらに爪が触れる程度の感覚しかなかった。


「パンドラは、あそこでなにを見てるんだろうな」

「!」


 ぽつりと漏らしたニヌルタの独り言に、わたしはぎくりとした。

 パンドラ――『災いの人形』と呼ばれる女。この世界を裁く使命をもつ土人形。リストちゃんが破壊すべき神の創造物。

 そうだ、アトラハシスがここにいるってことは……きっと、パンドラもこのトーキョーのどこかにいるんだ。

 再び、ニヌルタの視線の先にあるビル群へと目をやる。

 こちら・・・側はとても人が住むような場所じゃない。たぶん、パンドラはあちら側で暮らしているんだろう。

 できれば、あそこが見た目通りの、光に満ちあふれた都であってほしい、と願った。パンドラの目に映る世界が、幸せな――『遺す価値のあるもの』であればいい、と……。そしたら、もしかして、パンドラはこの世界を裁くことを思いとどまってくれるかもしれない、リストちゃんは人形パンドラ殺しの罪から逃れられるのかもしれない、そんな子供じみた希望を抱いた。有り得るわけもないのに。神から与えられた使命は絶対。パンドラも、リストちゃんも……そして、目の前のこの男も、使命に逆らうことはできない。身体も魂も使命に縛りつけられ、『意志』を持つことも赦されない運命にあるのだから。

 わたしはきゅっと唇を噛み締め、地面を睨みつけた。

 マルドゥクの血を誇りに思う一方で、心のどこかで、リストちゃんを解放・・したいと思っている自分がいる。使命は祖神たるエンキから受け賜った恩寵なのに……それを疎ましく思っている自分がいる。使命さえなければ、と考えてしまう。

 マルドゥクの女として失格だ。こんなんじゃ、リストちゃんにがっかりされちゃうな。

 ふっと自嘲混じりの笑みがこぼれた――そのときだった。


「タール!」


 突然、階段のほうを見張っていたレッキが叫んだ。

 景色を眺めていたニヌルタは「来たか」と含み笑いをして、ゆっくりと振り返る。


「来た?」

「お前の出番ってことだ」

 

 ニヌルタはにんまり笑んで、わたしの腕を掴んで引き寄せた。


「なにを……」


 言い終わらぬうちに腕を後ろにひねりあげられ、階段に向き合う体勢になった。わたしを盾にするようにして背後に佇むニヌルタの息が耳元にかかる。いつもより呼吸が荒い気がした。緊張している? それとも……興奮?


「良かったな、ナンシェお嬢様。念願の再会だ」

「!」


 ざわっと全身に鳥肌が立つのを感じた。

 念願の再会――考えられるのは、一人だけ。この世界でわたしに遺された、たった一人の肉親。わたしの『王子様』。


 ――ああ、そっか。ナンシェ、僕は君を守るために生まれてきたんだ。


 クン、と心臓が痙攣でも起こしたかのように痛んだ。

 騒がしい足音が階段のほうから聞こえてくる。徐々に近づいてくるその足音に合わせるように、わたしの鼓動のスピードも増して行く。


「さて」そんなわたしに冷や水でもかけるように、冷酷な声が耳元でした。「リストちゃんはどちらを選ぶんだろうな?」

「!」


 ひんやりと冷たい鉄の感触がこめかみにして、わたしは唐突に悟った。それが何か、そして――、


 ――じゃあ、リスト・マルドゥクは、使命と大事な女の命……どちらを選ぶかな?


 あのニヌルタの言葉の意味。ニヌルタがリストちゃんに何をさせようとしているのか。


「ナンシェ!」


 やがて、そんな懐かしい声が響き渡って、一人の少年が階段を駆け上がってきた。黄金色の髪をなびかせ、碧眼をめいっぱい見開いてこちらを見つめる彼は、鏡に映したようにわたしによく似ていた。違うのは、その短い髪とやや尖った顎、小柄ながらも引き締まった体。そして、左手に携えた大きな剣。光を浴びて月のように輝く銀色の刀身と、くさびを象ったような刻印がびっしりと刻まれた柄。聖画像イコンのように美しくも荘厳な雰囲気を纏ったその剣は、彼が彼である証。マルドゥクの王の名とともに引き継がれる神からの『贈り物』。


「リスト……ちゃん」


 涙とともに、か細い声が溢れていた。

 やっと……やっと会えたのに、嬉しさでいっぱいになるはずだった胸は、引き裂かれそうなほどに痛くて……。ごめんなさい――その言葉さえ発することができなかった。

 わたしはリストちゃんの顔を見ているのもつらくて、だらりと頭を垂らした。


「よぉ、リスト・マルドゥク。初めまして。タール・ニヌルタ・チェイスだ。会えて光栄……」

「どういうつもりだ、ニヌルタ!?」


 聞いたこともないリストちゃんの怒号がこだました。

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