マルドゥクの王 -1-
なるほど、とオレは苦笑していた。近寄りたくないわけだ。逃げるように去って行くタクシーを見送り、閑散とした街を見回してオレは納得した。
今にも崩れ落ちそうなビルが立ち並び、アスファルトはひび割れて、そこら中にガラスやコンクリートの破片が散らばっている。紛争でも起きたのか、と思ってしまうほどの荒れようだ。でも、この国にそういった内戦の歴史はないはず。ずさんな都市計画の遺物、といったところかな。
それにしても……なんなんだろう、この嫌な感じ。潮風に混じって流れ込んでくるこれは……。
「『死』が漂っている」
ぼそりと隣でユリィがつぶやいた。オレはぎくりとしてユリィに振り返る。心を読まれたのかと思ったのだ。それほど、ユリィの言葉はオレが感じている『違和感』を言い得ていた。
もちろん、神の子孫といえど、人の心を読めるような力はない。ユリィもオレと同じく、感じているってことだ。この『街』に漂う不穏な空気を。
死臭、とでも言えばいいんだろうか。といっても、嗅覚で感じるようなものではなく……もっと霊的なもの。目に見えない何かが身体にまとわりついてくるような、救われぬ魂の嘆きが聞こえてくるような……。ぼうっとしていると、この街に取り憑く『死』に呑み込まれてしまいそうになる。
まさに、『ゴーストタウン』だな。
「リスト」不意に、そんな『死』の気配を打ち消すような眩い光が目の前に現れた。「この上だよ」
輝く金糸で編まれた繭から飛び出したあどけなくも美しい天使――ケットは、金粉を振り撒きながら背後に振り返る。
「間違いありません」ケットのそれとは違う、落ち着いた声が続く。「それも、気配は、まだ二つ……」
「レッキと、アトラハシスの天使――だね」
足下でちょこんと座るシャム猫に相づちを打って、ユリィも眼前に聳えるビルを見上げた。
「どうするの、マルドゥク?」
「どうするって……」オレもつられたようにビルを振り仰ぐ。「どんな選択肢があるの? 入ってみるしかないでしょ」
建設途中で放り出されたのだろう、八階建てほどのビルの上半分は鉄骨が丸見えになっている。窓もドアもはめられていないままで、どこからでも中に入れそうだ。
もちろん、ユリィが気になっているのは、そのあとのことなんだろうけど……。
「しかし、危険では?」と、シャム猫――ラピスラズリが遠慮がちに口を挟んできた。「中がどんな状況なのかも分かりません。アトラハシスの天使の気配はありますが、だからといってアトラハシス様がご無事という保証はありませんし……」
アトラハシス――ぐっと心臓を鷲掴みにされたようだった。
「リスト……」
心配そうなケットの声が聞こえて、オレは強張った顔を和らげた。
「ラピスラズリの言う通りだね」オレにもマルドゥクとしての誇りがある。ユリィに動揺を悟られるのは気に食わない。なんとか平静を装った。「とはいえ、向こうもこっちが来ていることは気配で気づいてるはず。ここでごちゃごちゃ相談したところで……」
「その通りですわ。女性を待たせるのは失礼というものでしょう」
突然、辺りに響き渡った女の声に、オレはハッとして振り返った。――その甘ったるい声はラピスラズリのものとは明らかに違っていた。
声の主を捜して見回し、オレは奇妙な黒い煙に気づいた。ビルの入り口で陽炎のように揺らぐそれは、やがて人影となり、なまめかしい姿体のシルエットを創り出す。
「お久しぶりですわね」
再び、朗々とした声が流れ、煙の中からショコラ色のすらりとした手足が現れる。そして、暗がりに二つの紅い灯が点った。
「マルドゥクの王にケット・シー。それから……シャカンの遣い。そちらの殿方は初めまして、ですわね」
羽衣のように纏っていた煙を脱ぎ捨て、オレたちの前に躍り出た天女のように神々しくも妖艶な女。微笑を浮かべる紅く熟れた唇。肩まで垂れ下がる黒々としたドレッドロックス。下着のような衣装で惜しみなく披露する扇情的な身体。まるでルルの色欲を具現化したような、魅惑的な女。――間違いない。あのときの天使だ。
「バール……!」
ケットが叫ぶと、アトラハシスの守護天使、バールは、ねっとりとした笑みを浮かべた。
一気に高まる緊張感。その一方で、特に変わった様子のないバールに、オレはホッとしていた。主に何かあったのなら、天使がこんなに落ち着いているはずもない。アトラハシスは無事だ、てことだ。
でも……そうなると、今度は疑問が浮かぶ。――なぜ、無事なのか。
アトラハシスの一族を皆殺しにしたニヌルタの王のこと。生き残りの命を奪うのに躊躇するとは思えない。
もしかすると、ここにはバールだけでアトラハシスは別の場所に隠れているのかもしれない。かつて、オレとケットがバールと廃校で会ったときのように……。
もしくは――。
「兄さんはいないの?」
オレが口を開くより先に、ユリィが焦ったように早口で訊ねていた。
やっぱ、ユリィもオレと同じ疑問に行き着いたんだな。
――そう、このビルにいるのはエンリルの天使だけで、ニヌルタの王はいない可能性も考えられる。それなら、納得もいく。バールがなぜここまで落ち着いているのか。アトラハシスとニヌルタの王との因縁を考えれば……バールがニヌルタの王と対面して、ここまで冷静でいられるはずもないんだから。
「『兄さん』?」
はて、と小首を傾げるバールに、ラピスラズリがすかさず言葉を返す。
「我が主、ユリィ・チェイスは、ニヌルタの王、タール・ニヌルタ・チェイス様の弟君です」
「ニヌルタの王の!?」
バールはぎょっと驚き、まじまじとユリィを見つめた。
「どなたかと思えば……驚きましたわ。ニヌルタの王の弟君とは……」
急に口ごもり、バールは気味悪そうに顔をしかめてオレとユリィを見比べた。
「なぜ、マルドゥクの王とニヌルタの者が一緒におりますの?」
しばらく黙考してから、「なりゆき」とオレは適当にあしらった。
長々と説明するのも面倒だし、第一、説明したところでバールも納得しないだろう。オレだって、未だに信じられないんだから。マルドゥクの王であるオレが、なんでニヌルタの奴と一緒にいるのか。どんな事情があろうと、ニヌルタの血筋の者と和気藹々――なんて、エンキへの裏切りと取られてもおかしくはない。
「なりゆき、ですか」とバールは嫌味っぽく言ってから、ユリィへ視線を戻す。「ええ、お兄様もお待ちですよ。弟君とこんなところで再会できるなんて、きっと喜ばれますわね」
ユリィは珍しく難しい表情で押し黙った。緊張がはっきりと見て取れる。会えるのが待ち遠しい、て感じじゃないな。怯えているようにも見える。
――オレは人間につく。お前はどうする?
初めて会ったときのあの言葉……本気だった、てことか。本気でユリィは、己の神も使命も裏切り、身体に流れる血に――エンリルの血筋に――抗おうとしているのか。
甚だ疑問だ。なんのために、そこまでする? なにがそこまで、こいつを突き動かしているのか。ニヌルタの王と、過去に何かあったのか?
「なんで平気なの、バール?」
「!」
心配そうな、責めるような、そんな幼い声がして、オレはハッと我に返った。
「ケット……?」
急にどうしたんだ? ――そう、心の中で問いかけても、返事は無かった。
「なんのことですの、ケット・シー?」
「ニヌルタの王は……」言いづらそうに、ケットは切り出す。「君の主であるアトラハシスの一族を手にかけた。君が以前仕えていた先代の王も、ニヌルタの毒牙にかかったんでしょう。
天使として、憎しみに囚われるようなことがあってはいけない。でも……でも……天使だって、感情はあるんだ。それを表に出すことは罪じゃない。まして、主への忠愛は天使の誇りじゃないか。主を想って怒り、涙することは悪いことじゃないよ」
「何が言いたいんですの?」苛立ちもあらわに、バールは腕を組んでケットを睨みつけた。
「バール」と冷静にケットは続ける。「君はニヌルタの王に会ったというのに、取り乱した様子もない。まるで、君は……アトラハシスの犠牲を忘れてしまったようにさえ見える」
「!」
潮風に金の髪をなびかせ、バールに対峙する小さな背中は、ひどく寂しげに見えた。「ケット」とオレは歩み寄り、元気なく傾いた頭を撫でた。
見た目は幼くとも、永遠にも思える年月をマルドゥクに仕え、数多の主との別れを経験してきた。その無垢な心には数えきれないほどの傷が刻まれているんだろう。憎しみを知らない、清らかな愛ゆえの深い傷が……。だからこそ……愛すべき者たちを一度に失ったバールに同情し、そして、奪った相手への怒りを微塵も感じさせない同志に憤りを感じているのかもしれない。
「心外ですわね」
ふいに、バールはぽつりと言った。今までとは違い、媚びるような音色の無い、冷めきった声で……。
「あなたに……マルドゥクの僕にそのようなことを言う資格はありませんわ。アトラハシスの名をあなた方が軽々しく口にすることも、わたくしにとっては侮辱以外のなにものでもありません」
辺りの空気がずんと重みを増して、肩にのしかかってくるようだった。背筋を這うような悪寒を帯びた天使独特のプレッシャーだ。
バールの瞳は地獄の業火のように赤々と燃え、ゆらゆらと風に揺れるだけだったドレッドロックスは蛇のように蠢き出していた。
天使らしからぬおぞましいオーラ――『殺気』と呼ぶにふさわしいそれに、思わず、オレは後退った。ケットも同じものを感じ取ったのだろう、慌てた様子でオレの前に飛び出し、小さき盾となってバールの前に立ちはだかった。
「バール! エンキの末裔たるマルドゥクの王に対して、どういうつもり……」
「わたくしは神への忠誠も天使としての使命もとうに捨てましたわ。わたくしの主はただ一人、フォックス・エン・アトラハシスだけ。あなたがたにへりくだる気は毛頭ありません」
思わぬバールの言葉に、オレもケットも絶句した。
呆気に取られるオレたちの傍らで、ラピスラズリだけが「やはり」と納得したようにつぶやいた。
「バール……あなたは、本当にルルに心を奪われてしまったのですね。女神ティアマトのように」
オレはぎょっとしてラピスラズリを見下ろした。
神の一族なら、知らないものはいない。女神ティアマト――神々の母であり、そして、かつて、ルルの男に恋をした女神。神々を裏切り、ルルを選んだ彼女は、罰としてエリドーの天と地に封じられたという。
己の使命を捨て、己の欲望に走ることの愚かしさを教えるため、代々言い伝えられてきた昔話だ。
「使命を捨てた天使に、どんな罰が下ることか……」
悲痛な声で諭すように言うラピスラズリに、バールはフッと達観したように鼻で笑った。
「わたくしが恐れることは、フォックスを失うことだけですわ」
「バール……」憐れむようにシャム猫は鳴いた。
いつのまにか、バールから禍々しい気は消えていた。オレを見据える紅い瞳には落ち着きが戻り、口許に浮かぶ笑みには余裕が見られた。
「さて……無駄話はここまでにしましょう。マルドゥク、あなた様の客人も待ちくたびれてしまいますわ」
マルドゥクの王として、バールにもっと事情を聞きたいところだけど……確かに、のんびりおしゃべりしている場合でもないか。バールも、これ以上話す気はなさそうだし。
それに……。
「オレの客人?」
「ええ」とバールは舌なめずりでもするかのように、うっとりと笑んだ。「お美しいお嬢様ですわ」
お嬢様……って、女? 誰だ?
「兄さん以外にも誰かいるの?」
ユリィの問いに、バールは「そうですわねぇ」とわざとらしく悩ましげに眉根を寄せた。
「マルドゥクの聖女様……とでもお呼びしたらよいかしら?」
「!?」
ぞっと凍り付くような寒気が背筋を襲った。
「マルドゥクの……聖女?」
ケットが震える声で聞き返すと、「そう」とバールは悦に入ったように目を細めた。
「ナンシェ・アブキール様――ご存知ですよね、マルドゥクの王?」
ざあっとビルの合間を潮風が竜巻でも起こさん勢いで吹き抜けていった。