覚悟 -下-
途方に暮れて立ちすくむカヤに、前田は「すみません」と消え入りそうな声で語りかけた。
「僕は止めようと……なんとか、助けようとしたんですが……」
「でも、何もしなかったんでしょう」
前田の懺悔をすっぱりと一蹴したのは、カヤではなく、曽良だった。曽良はカヤが落としたナイフを拾い上げると、器用に手の中でそれを転がし始めた。
「かっちゃんが殺されると知ってて、何もしなかった。それで、『赦してくれ』なんて図々しいにもほどがあると思わない?」
殺される――その言葉に、カヤははっと目を見開いた。「いや……」と小さな悲鳴を上げて、すとんとその場に座り込む。凍えているかのように、己の肩を抱き、ガタガタと震える彼女に、「まだ、間に合いますよ!」と前田は慌てた様子で口を開いた。
「まだ、殺されると決まったわけじゃありません!」
「無責任だね」と、先刻と同じように、冷たい声が前田の邪魔をする。「今から助けるなんて不可能だよ。あんたがそれを一番、分かってるでしょうに。なんで、そんな嘘つくのサ? そこまでして、カーヤに嫌われたくないわけ?」
「……違う、そんなんじゃない!」
「何が違うの? ずっと本間秀実の悪行を見逃しておいて、今更、寝返って正義面? 何を期待してんのさ? 結局、好きな女に恨まれるのが怖いだけでしょ」不意に、ナイフに映った曽良の口許が怪しげに笑む。「それで『覚悟』? 笑わせるなよ、パンピーが」
その瞬間、前田の顔色ががらりと変わり、きっと吊り上がった目が曽良を睨みつけた。
「君に僕の何が分かる!? 僕だって、好きで本間の言いなりになってたわけじゃない!」
「は……?」
「何でも思い通りにいかないのは、君たちクローンだけじゃない! 僕だって……こんな人生を望んだわけじゃない。いつも、蔑まれて、見下されて……それでも耐えてきた! 耐えるしかなかったんだ! 和幸くんのことだって、僕は本当に助けたかった。でも……僕に何ができる? 仕方なかったんだ!」
「……だから?」
「!」
ふっとその場の空気が変わった。
ナイフを弄んでいた曽良の手がぴたりと止まり、一瞬にして前田の表情が強張る。
「『ビスケドール』って呼ばれるクローンを知ってる、お兄さん?」
曽良は冷ややかな笑みを口許に浮かべ、単調な声で語り出した。
「クローンの中でも、ちょっとした『ブランドもの』なんだ。美しい容姿の子供のDNAで創られたクローンさ。世の中にはいろんな趣味の大人がいるからね。高値で売れるみたいだよ」
「なんで、急に、そんな話……」
「『ビスケドール』は容姿が売りだから、身体は丈夫に創られるんだ。どんなに乱暴に扱っても壊れないように。でも……痛みはあるんだよ。だから、何度も叫んだ。助けて、やめて、て。けど、誰も何もしてくれなかった。痣だらけの身体を見ても、大人たちは皆、『かわいそうに』と言って去って行くんだ。さも、『本当は助けたいけど、仕方ない』て顔を浮かべてね」
曽良の『昔話』に、前田は何かを悟ったように眉根を寄せた。
「確かに、仕方なかったんだろうね。彼らにとっては、それも仕事だったから。所詮、屋敷の使用人でしかないあの人たちに、何かできるわけもない。でも……」
ふと、言葉を切ると、曽良はつと目を逸らし、寂しげに微笑んだ。
「でも、助けてほしかった」
前田はごくりと生唾を飲み込む。その表情からは恐怖の文字は消え、代わりに、憐れみの色が浮かんでいた。
「まさか、それ、君――」
「だから……俺はあんたみたいな大人、嫌いなんだ」
「!」
いきなりネクタイを引っぱられたかと思えば、焼けるような痛みを胸に感じて前田は目を見開いた。
***
和幸くんが殺される。おじさまが和幸くんを殺そうとしている。
いや……そんなの、嘘。
おじさまは、いつだって優しくて……私を本当の娘のように大事にしてくれた。両親を亡くした私を快く養女として引き取ってくれた。実の父親だと思って甘えていいんだぞ、て微笑んでくれた。全部、演技だったというの? まさか、おじさまは最初から和幸くん目当てで……カインを殺すために、私を家族に迎え入れてくれたの? 最初から、私はずっと騙されていたの?
前田さんも、私を騙していた? 今の今まで、全て知っていながら……和幸くんの命が危ないと分かっていて……笑顔で私と接していたの?
望さんは? 望さんも、知ってたの? 私のボディガードというのも、嘘だったの? 本当は、和幸くんを狙っていた?
――かっちゃんの言うとおり、嫌な感じだった。本当に、カーヤの護衛なの?
唐突に、脳裏をよぎったのは、いつかの曽良くんの言葉だった。
そうだ。初めて会ったときから、曽良くんは望さんを警戒していた。望さんの『護衛』を『監視』のようだ、と不審がっていた。曽良くんだけじゃない。和幸くんだって、ずっと望さんを嫌っていた。
でも、私は……私は何もしなかった。私は二人の言葉をまともに取り合おうとしてなかった。望さんはいい人だ、と何も知らずにかばうだけで……。
――もう少し、人を疑わなきゃだめだ。
曽良くんの助言が……今になって重くのしかかってくる。私はがっくりと頭を垂れた。
私のせいだ。和幸くんも曽良くんも気づいてたのに。私に教えてくれてたのに。私が二人の注意を無視したから……カイン皆を危険にさらしている。私のせいで、和幸くんが……。
苦しい。胸の奥に何か得体の知れないものが蠢いている。今にも、内側から切り裂かれそう。ぐっと胸元を押さえ、身体を丸めた――と、そのときだった。
「!?」
大きな物音がして、顔を上げた私は、目に飛び込んできた光景に愕然とした。
「前田さん!?」
曽良くんの足下で横たわる前田さん。そのワイシャツは右胸の辺りから真っ赤なシミが広がっていた。まるで、血のような……。
私は慌てて立ち上がった。錯乱している頭でも、すぐに理解できた。何が起こったのか。
「楽には死なせないよ」ガタガタと震える前田さんを見下ろして、曽良くんは冷たく囁くように言う。「カインを殺せば七倍の復讐――せめて、それだけは俺が守らなきゃ……」
曽良くんを見上げる前田さんの目は見開かれ、パクパクと何か言いたげな口からは隙間風のような音が漏れ出ている。
「大丈夫」と曽良くんはからかうような軽い調子で続けた。「肺に穴開けたから、息苦しいとは思うけど、すぐに窒息死なんてことにはならないから。出血多量になる前に、誰かが助けてくれるといいね。まぁ……助かっても、本間は裏切り者のあんたを赦さない。あらゆる臓器を抜き取られてからっぽの身体になるか、もの好きに売られて可愛がられるか。楽しみだね」
いつもの曽良くんの無邪気な声が不気味に響いた。ぞっと悪寒を感じつつも、私は棒のように固まってしまった足をなんとか動かし、前田さんのもとへ歩み寄ろうとした。
助けなきゃ。血を止めなきゃ。まだ間に合う。それしか頭に無かった。
私の気配に気づいたのか、曽良くんがくるりと身を翻し、そんな私の行く手を阻んだ。
「曽良くん……!?」
「カーヤ、これありがとう」
「これ……?」
何のことか、と訊ねる前に、目の前に『あるもの』が差し出され、私は言葉を失った。
ぽたりぽたりと涙のように赤い血を垂らすそれは、禍々しい光を放ち、鋭利な牙を私へ向けていた。身体中に痺れが走った。
「これ……は……」
美しいとさえ思えた澄んだ刃は赤く濁って、もう私の姿を映すことはなかった。全くの別物のようにさえ思えるそれは、でも、間違いなく、私のナイフだ。静流さんから譲り受けた、カインの花嫁としての証。
「受け取れないの?」
「!」
試すような曽良くんの声に、ぎくりとした。
おずおずと視線を彼へと向ける。冷静に私を見つめる曽良くんの目は、生気すら感じられないほどに冷えきっていた。答え次第では、そのままナイフで私の喉元を切り裂くのではないかとさえ思えた。
曽良くんの背後では、前田さんがうつろな目でこちらを見ている。今ならまだ間に合う。今、助けを呼べば、きっと前田さんは命を取り留める。でも……。
曽良くんの問いが意味することを、私は悟っていた。
今、選べ、ということなんだ。自分の立場を。どちら側に着くのか。血塗られたナイフを――カインの花嫁の証を――受け取る『覚悟』が本当にあるのか。カインとともに、罪に身を染める『覚悟』があるのか、試しているんだ。
私は深く息を吸い、目を閉じた。
暗闇の中で浮かび上がるのは、彼の笑顔。それだけで、胸が熱くなって、涙が溢れ出そうになる。会いたい、という気持ちで息苦しくなる。失いたくない。守りたい。だからこそ……和幸くんのいる世界だからこそ、私は『神』という存在さえも裏切ろうと思ったんだ――。
ぐっと拳を握りしめ、私は目蓋を開いた。
「『覚悟』はできてます」
力強く言って、私は曽良くんの手から血まみれのナイフを受け取った。
ナイフから滴り落ちる血はすぐに私の手を赤く染め、もう逃しはしない、と言わんばかりにべったりと肌に染み付いていった。