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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
285/365

約束の時間

 時計の針の音を、ここまで疎ましく思ったことはない。カチカチと規則正しく進む時の流れを、ここまで残酷だと思ったことはない。

 ちらりと壁にかけられた時計に目をやる。

 十一時五分。あれから、十五分――曽良くんとの約束の時間だ。

 早く、部屋に戻らなきゃ。でも、どうやって?

 気持ちばかりが焦って、考えが追いつかない。なんとかしなきゃ、と思えば思うほど、頭が回らなくなってしまう。

 着替えたばかりのカラシ色のプリーツスカートをぎゅっと握りしめた。

 着替える、という口実はもう通じない。体調が悪い、と言ってみたけれど、遠回しに「我慢しろ」と諭され、相手にしてもらえなかった。トイレもお風呂も、二階に行く理由にはならない。となると、もう残る手は……。

 私はそっと腰に手を伸ばした。ふわっとした白いシフォントップスの上から背骨をなぞっていくと、堅い感触がある。

 スカートのウエストゴムで背中に挟んだそれ・・を、いつでも取り出せるように準備していた。あとは、タイミングと……覚悟だけ。誰かを傷つけてでも、彼を――和幸くんを守るという絶対の覚悟。ためらうことも、迷うことも赦されない。失敗したら、あとはないんだから。

 

「お嬢様、背中、どうかされましたか?」


 私の企みを見透かしたかのように、背後から穏やかでない声がした。


「いえ、これは……」ここで怪しまれたら終わりだ。慌てちゃダメ。「スカートのタッグでしょうか。くすぐったくて」


 振り返り、私は照れたような笑みを浮かべた。

 私を上から覗きこむボディガードは、まるで高みから獲物を狙う鷹のようだった。大きく見開かれた瞳は私の姿を捉えて離さず、背もたれに載せた大きな手は今にも私の喉元を掻き切ってしまいそう。

 ぞっと悪寒が走った。

 この人を相手に、私はどこまでできるんだろうか――考えないようにしていた疑問がふっと脳裏をよぎる。彼だけじゃない。他に三人もいるのに。

 どうしよう……本当に、できる? 本当に、私は彼らを脅せる・・・の?


「カヤさん」

「!」

「本間先生からお電話が……」


 おじさまから? ハッとして振り返ると、前田さんが青白い顔でこちらを見下ろしていた。


「あの……内密なお話だとかで……」


 ひどく緊張した様子の前田さんに、私の不安は一気に高まった。まさか、和幸くんに何かあったんじゃ……?

 居ても立ってもいられずに立ち上がった私の腕を、前田さんは有無を言わさず掴んだ。


「え……?」

「早く、こちらに」


 戸惑う私に構わず、前田さんは踵を返して私の腕を引く。


「前田秘書、どこに行かれるんです?」


 刺すような鋭い声にぴたりと足を止め、前田さんはボディガードに振り返った。


「二階の本間先生の書斎です」

「書斎、ですか? なぜ、わざわざ?」

「それは……ほ、本間先生のご意向です。あの部屋の盗聴対策は万全ですから、一番安全だということでして……」

「それなら、わたしが書斎までお嬢様をお連れいたします」

「いえ、結構です!」と、慌てたように前田さんは早口で断った。「カヤさんは自分が連れて行きます。申し訳ありませんが、あなたがたはここに残っていていただきたい」

「つまり、我々にも聞かれたくないお話だ、ということですか?」

「そうです。あの……どうしても、カヤさんの耳にだけ入れておきたいお話ということですので」


 リビングに佇む四人のボディガードは顔を見合わせた。視線だけでどんなやり取りがあったのか。そのうち、「分かりました」と一人が気が向かない様子で頷いた。


「そこまで、我々に聞かれたくないというのなら仕方ありません。大変、不服ではありますが……」


 前田さんは「すみません」と消え入りそうな声で言って、再び、私の腕を引っぱり歩き出す。

 私は何か訊ねるわけでもなく、前田さんに連れられるまま、二階へと向かった。

 確信していた。何か良くないことが起きたんだ、と。ボディガードたちは気づかなかっただろうけど、私の腕にはしっかりと伝わっていたから。彼の手が、ひどく震えていることに……。

 二階で待っているかもしれない曽良くんのことよりも、おじさまの電話が気になって、それどころではなくなっていた。


***


「あの、前田さん……どうしたんです?」


 カヤを引きずる勢いで階段を駆け上り、本間の書斎は目の前――というときになって、前田は急に立ち止まってしまった。


「おじさま、電話口でお待ちなんですよね?」

「……」


 すぐにでも電話に出たいのに、前田はぴくりとも動かない。内密に本間が自分に話したい、というのだ。ただごとでない何かが起きたに違いない。おそらくは、和幸の身に……。じっとしていられるはずもない。痺れを切らして、カヤは前田を置いて駆け出そうとするが、その腕を前田は頑として離さなかった。


「前田さん!?」と責めるように声をあげるカヤに、前田は唇を引き結んだまま、首を横に振った。見開いた目は血走って、幾晩も眠っていないかのようだった。

 緊張を通り越し、狂気すら感じられる前田の面持ちに、カヤは恐怖を怯えた。声を失い、ぐっと体を強張らせる。距離を取ろうと身を引くが、しっかりと掴む前田の手はそれを許さなかった。


「時間……」


 やがて、筋肉が固まってしまったかのように動かなかった前田の唇が動き、震えた声がこぼれた。


「約束の時間でしょう?」


 え、とカヤは眉をひそめる。


「なんのこと……」

「迎えが来てるんですよね?」

 

 迎え――その瞬間、カヤは息を呑んだ。

 そういえば、とようやく気づく。立ち止まっているこの場所は……自分の部屋の目の前。曽良との待ち合わせの場所。扉の向こうには、きっと、曽良がいる。

 でも、なぜ、それを前田が知っているのか。

 不安と焦り、緊張、困惑、全てが一緒くたになって身体の中を焼き尽すようだった。喉がかあっと熱くなり、その熱を吐き出すように、カヤは前田に問いつめていた。


「どうして、前田さんがそれを知っているんですか!? まさか……皆、知ってるんですか!?」

「知ってるのは僕だけです」前田はカヤの腕から手を離し、落ち着かせるように両手のひらを見せた。「安心して……早く行ってください」

「でも……おじさまからの電話は?」

「あれは嘘です。カヤさんを連れ出す為の口実です」

「嘘って……」


 カヤは言葉を詰まらせた。頭の中は混乱が渦巻いている。分からないことばかりだ。なぜ、曽良との待ち合わせを前田が知っているのか。なぜ、前田は嘘までついて自分を曽良のもとへ遣ろうとしているのか。

 狼狽えるカヤに、あと一押し、とばかりに前田は詰め寄った。


「僕のためにも、行ってください」

「前田さんのためって……どういうことですか?」

「いいから、行ってください!」

「だめです、行けません! 私は、たぶん、このまま、家を出ます。扉の向こうで待っている友人は、そのために来るんです。もし、私がこのまま姿を消したら、責めを受けるのは前田さんです。おじさまの信用を失ってしまいますよ!?」

「分かってます。それも分かった上で、カヤさんに行ってほしいんです」


 いつもと違い、前田の声はしっかりとしていた。そこにははっきりと、彼の意志が感じ取れた。力強い意志が……。


「もう、言いなりになるのはうんざりなんです。嫌なことを……間違ってると思うことを、無理やりさせられるのはたくさんなんです。せめて、一度くらい、自分が正しいと思うことをしてみたい。自分の意志で選びたい。それが、あなたのためなら、なおさら、僕は……」

「……」


 じっと見つめてくる前田の視線に熱いものを感じて、カヤはたじろいだ。

 初めて見る、前田の感情的な目。ここまで真っ直ぐに自分を見つめてきたことさえなかったというのに。爆発しそうな衝動を必死に堪えているような、青年らしい雰囲気が漂っている。

 そんな前田の熱気に当てられたからか、カヤは顔が熱くなるのを感じた。たまらず、目を背けて後退る。


「でも……私は……」


 はい、分かりました、と去るわけにはいかなかった。

 前田がどれだけ、本間に尽くしていたか、カヤは短い期間だったが、しっかりと見てきた。それを棒に振るようなことをさせるわけにはいかない。それに、前田の言う、間違ってること、正しいこと、という意味も理解できない。この非常事態に、前田も混乱しているだけかもしれない。

 ダメだ、とカヤは首を横に振った。


「できません。こんなやり方じゃ、前田さんを利用するみたいで……」

「僕はそれで構いません! 言ったでしょう、あなたのためなら、喜んで――」

「私は喜べません」


 きっぱりと一蹴するカヤに、前田は面食らった様子だった。


「ダメです」力強く、カヤは念を押す。「そんな自分勝手なこと、できません」


 一度、リビングに戻って出直そう、とカヤは心に決めて、前田の横を通り過ぎようと足を踏み出す。


「そんなこと言ってる場合じゃないんですよ」


 血でも吐くんじゃないか、というほど、苦しげな声だった。振り返る暇もなく、また腕を掴まれ、無理矢理、引っぱられる。――本間の書斎などではなく、カヤの部屋へ。


「前田さん!?」

「ここに残ったところで、売られてしまうだけだ」自分に言い聞かせるように、前田は早口で捲し立てた。「だったら、彼らと一緒に居た方がまだ安全だ」


 売られる? 彼ら? 何を言っているのか。戸惑うカヤに問う暇すら与えず、前田はカヤの部屋の扉に手を伸ばす。


「前田さん、だめです!」


 この扉を開ければ、そこに前田の未来はない。なぜか、直感でそれを悟った。あのとき――和幸の手を取ったとき、何かを失うことを確信したように。

 無我夢中で身をよじり、その場に踏ん張り、あらゆる手で前田を止めようとしていた。だが、たとえ不死になったといえど、その身体は憎らしくも十六のひ弱な少女のままだった。前田の手はいとも簡単に扉に届き、躊躇無く、それを開いてしまった。

 前田は息も着かせぬ勢いでカヤの部屋に駆け込むと、呆然とするカヤを引きずり込んだ。


「すみません、カヤさん」部屋に入るなり、カヤから手を離し、前田はすぐに扉を閉めて鍵をかける。「僕は、止めようともしなかったんです」


 悔しげに唇を噛み締め、戸に額を当てる前田。今にも泣き出しそうな青年の横顔を、カヤは途方に暮れた様子で見つめていた。


「止めようとしなかった? なんの話――」

「待ち合わせに他の男を連れてくるなんて、ひどいなぁ」

「!」


 突然、ぶわっと冷たい風が流れ込んできた。


「一人で待ってる約束じゃなかった、カーヤ?」


 開け放たれた窓から吹き込む風に、カーテンがひらひらと舞い踊っていた。その間から姿を現す人影が一つ。

 さらさらとなびく短い黒髪は一本一本が月の光に輝くよう。異国の血を感じさせる彫りの深い顔立ちに透き通るような白い肌。愛くるしく大きな瞳はうっすらと茶色く、印象的なアヒル口は笑みを浮かべて愛嬌を振りまいている。――見慣れたはずの、そんな彼の美しい容姿が、今日に限っては不気味に映った。


「曽良……くん」

「やあ」と、彼はいつものように暢気に笑ってみせた。「『おむかえ』に来たよ」

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