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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
282/365

ルルの王

 王と呼ばれるにふさわしいルルは、このエリドーに一人だけだ。

 ナンシェは横たわりながらも、その碧眼をめいっぱい開いて、歩み寄るその人物を見つめていた。

 黒い外套を海風になびかせながら、黒皮のブーツでひび割れたアスファルトの大地を踏みしめ、一歩一歩、迷いの無い歩みでこちらに近づいてくる。荒廃した街を颯爽と進むその姿は、気高く頼もしく、神に遣わされた救世主を思わせる。近づいてくるにつれ、高貴なオーラが、ピリピリと静電気のように肌を刺激してくるようだった。全身に鳥肌が立ち、ナンシェはごくりと生唾を飲み込んだ。

 間違いない、と確信する。あの人こそ……。

 でも、どうして、こんなところに? 今まで、どこに? ——いえ、そんなことは今はどうでもいい。

 ガタガタとナンシェは震えていた。胸の奥が燃えるように熱くなり、王の姿を捉える視界が歪み出した。さっきとは——タールに首を絞められたときとは——違った息苦しさが襲ってくる。きゅっと乾ききった唇を噛み締め、ナンシェはかたく目蓋を閉じた。

 暗闇に浮かび上がるのは、打ち拉がれるリチャード・マルドゥクの背中だった。それは、記憶の奥にしまい込んだ光景。

 まだ幼い頃、マルドゥクの本家でリストと遊んでいたときのことだ。本家の地下にあるエンキの神殿に忍び込み――そこで、リチャードが延々と懺悔をしているところを覗いてしまったのだ。その丸めた背には『神の騎士』たる威厳などなかった。己の咎に今にも押し潰されそうな憐れな罪人が、必死に赦しを請うていた。

 リチャード・マルドゥクの罪——それは、『パンドラの箱』が開かれたあの日、アトラハシスの一族を護れなかったこと。

 アトラハシスはエンキが認めたルルの王。その王の一族を護るのは、エンキの末裔であるマルドゥクの使命。だからこそ、それをしくじったリチャードの罪は重く、最期まで彼はその重みに苦しんだ。きっと、リストに剣を継承する最期のその瞬間まで悔いていたに違いない。そして、祈り続けていたに違いない。王を継いだはずの少年が、無事に生き長らえていることを。

 つうっと目尻を伝って行く涙を感じながら、ナンシェは祈るように語りかけていた。

 ——リチャードおじいさま。アトラハシスの王は、ご無事でした。


「ルルの王、『最高の賢者』、アトラハシス」


 舌鼓でも打つように、タールはねっとりとした口調でつぶやいた。

 ぎくりとして目を開けば、アトラハシスと思しきその人物は、二メートルほど先で立ち止まっていた。はっきりと顔は見えないが、外套の下からのぞく浅黒い肌と形のよい唇は確認できる。


「ようやくお会いできて、感激の極み。ずっとお捜ししておりました」


 敬うような口調とは裏腹に、タールのその声色には蔑むような響きがあった。捕食者の余裕だ。二ヶ月も彼の傍にいたナンシェには感じ取れるようになっていた。彼独特の、嗜虐性のある妖しげな興奮が。

 ナンシェは力を振り絞り、両手で地面を押すようにして上半身を持ち上げた。


「アトラハシス!」と、稲のように黄金に輝く髪を振り乱し、ナンシェは精一杯声を張り上げる。「早くここを立ち去りなさい! あなたは王といえど、ルル。不死の身体を与えられてはいない。ニヌルタの『冥府の剣』の前には無力……」


 しかし、最後まで言い切ることは許されなかった。急に頭に強い衝撃が走り、そのまま地面に頬ずりさせられるように押しつけられた。容赦なく頭を踏みつけられ、ぐりぐりと強まる圧迫感に「あう……」ともはや悲鳴も出せずに、ナンシェは地面に這いつくばう。


「さっそく、役に立ってもらうぞ、マルドゥクの聖女」


 タールのその勝ち誇ったような囁きに、ナンシェは唇を噛み締めた。悔しさが身を焼き尽くすようだった。

 逃げて、と心の中で悲鳴を上げて、懇願するような眼差しでアトラハシスを見つめる。

 タールの持つ『冥府の剣』はルルを裁く・・剣。ルルを護る『聖域の剣』とは対極をなす剣だ。その切っ先に触れたルルは、一瞬にして魂を身体から切り離されてしまう。アトラハシスといえど、例外ではない。事実、『パンドラの箱』が開かれたあの日、アトラハシスの一族は、皆、その剣によって命を絶たれた。

 マルドゥクやニヌルタの王とは違い、アトラハシスの王には不死の身体は与えられていない。今、タールに『冥府の剣』で貫かれれば、王もまた他のアトラハシスの者たちと同じ運命を辿ることになってしまう。そして、自分にそれを止める術はない。——ナンシェは己の無力さに胸がはち切れそうだった。


「アトラハシスよ」タールは低い声を辺りに響かせた。「この女は、お前が崇拝するエンキの末裔、マルドゥクの聖女だ!」


 ざあっと潮風がビルの合間から流れ込んできた。はためく外套のフードの下で、アトラハシスの唇はぴくりとも動かない。


「この女の命が惜しくば、『パンドラ』と『箱』を大人しくオレに渡せ」


 その要求に、ナンシェはハッと目を見開いた。


「お前が持っているんだろう?」と訊ねるタールの声には確信が感じられた。「お前らの神殿を探したが、どこにも無かったからな。アトラハシスの王の証である『守護者の鏡』も、その天使さえも見当たらなかった。すぐに分かったよ。アトラハシスの王を取り逃がしたのだ、とな」


 そうだった、とナンシェは思い出していた。

 リチャードは言っていた。自分が駆けつけたときには、アトラハシスの神殿には『パンドラ』も『パンドラの箱』も無く、あったのは、アトラハシスの者たちの亡骸だけだった、と。

 まさか、当時はまだ幼い子供だったはずの王が、『パンドラ』と『箱』をニヌルタの手から守り、ずっと保管していてくれたというのか。 


「さあ、早く渡せ。オレはあまり気が長いほうじゃない」

「うっ……!」 


 ミシッとさらに強く踏みつけられて、ナンシェは歯を食いしばった。

 このままでは、タールに『パンドラ』も『箱』も奪われ、アトラハシスの王も殺されてしまう。自分のせいで……。

 リストちゃん——ナンシェは、どこにいるとも知れないたった一人の肉親に助けを求めていた。

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