ヤハウェの伝言
十五分後に迎えに来る――曽良くんはそれしか教えてくれなかった。声色も口調もいつもと違っていた。なんとなく……突き放すような、冷たさがあった。いつかの夜、口付けを交わした彼とはまるで別人。あのときも、どこか様子はおかしかったけど……それでも、私を抱きしめる彼の腕は優しくて、その声には暖かみがあった。こんなこと、考えちゃだめなんだろうけど……確かに、『愛』を感じたんだ。
でも、さっきの彼の声にはそれが無かった。ひしひしと伝わってきたのは、あの夜とはもっと別の――ううん、きっと、逆のもの。まるで、和幸くんがいつも望さんに向けていたような、敵意。
私はぎゅっと胸元を握り締めた。
嫌な予感がして、足が竦む。動くこともままならず、背中をぴたりと窓に押し当て、私は呆然としていた。
やっぱり、何かとんでもないことが起きている。私に分かるのはそれだけ。――そして、私は結局、こうして『迎え』を待つだけ。
「なんて無力なの……」と口からこぼれた蔑む声は、まるで他人のもののようだった。
表の世界では私が和幸くんを守る、て誓ったのに。私を信じて待っていて、なんて和幸くんに大口叩いておいて、何もできないの? このまま、ただ待っているだけなの?
いつも、誰かに頼ってばかり。誰かに守ってもらうだけ。
悔しさとふがいなさが胸を押し潰す。その痛みに耐えるように、私はぐっと目蓋を閉じた。
これじゃ、ただのお嬢様だ。せっかく、和幸くんのお嫁さんとして、カインの皆さんに認めてもらえたのに。失格だ。カインの花嫁として、失格――。
その瞬間、私はハッとして目を見開いた。
「カインの……」
――誓える? カインのお嫁さんとして。
脳裏をよぎったのは、どこか寂しげな曽良くんの声と銀色に輝く十字架だった。
「お嬢様!」突然、ドアをけたたましく叩く音がして、私はぎくりと飛び跳ねた。「お召替えは済みましたか!?」
それは質問というよりも、早くしろ、と急かすような口調だった。部屋の前で待っている、と言ったあのボディガードだ。今にもドアを蹴破って押し入ってきそうな勢い。
やっぱり、あと十五分もここに留まるのは不可能だ。一度、部屋を出て、戻ってくるしかない。曽良くんが来るまでに、どうにかしてこの部屋に戻ってこなきゃ。
「カヤお嬢様!?」
「もう少し、待ってください」
そう応え、私はゆっくりと深呼吸した。
さっきまで思考を覆っていたもやが晴れたようだった。急に落ち着きが戻っていた。
床に張り付いたように動かなかった足がふわりと浮き、吸い寄せられるように、私は机へと向かっていた。
一歩一歩踏み出すたびに、あの日の覚悟がよみがえってくる。あの日――カインの皆さんに認めてもらおう、と奔走したときのこと。カインの裏番長と恐れられる静流さんのもとへ一人で向かったときのこと。静流さんに首を絞められ、ナイフを突きつけられ、それでも、認めてもらおう、と必死に訴えたときのこと。
――私はただのお嬢さまなんかじゃないんです! カインに……裏世界の殺し屋に恋した、変な女です。だから、気に入ってもらえると思うんです。
感情のままに荒らげた声が、思い出せ、と私に鼓舞するかのように頭の中に響き渡った。
そうだ。私は覚悟を決めたんだ。裏世界の殺し屋に恋をした女として。カインの花嫁として。和幸くんが頼れるくらい強くなるんだ、て和幸くんと約束したんだ。彼を裏切ったりしない、て曽良くんに誓ったんだ。
弱気になっている場合じゃない。嘆いている場合じゃない。怯えている場合じゃない。今、すべきことをするんだ。
机の前で立ち止まり、私はそっと引き出しへと手をかけた。
――私が必ずなんとかするから! 何があっても、どんな手を使ってでも……絶対に、和幸くんを守るから!
あの言葉に、嘘偽りはない。それを証明するように力強く引き出しを開き、『ある物』を取り出した。
カインの花嫁――その資格を、今、試されている気がした。
***
「静流姉さん? そう、俺」と後部座席の少年は、また誰かに電話をかけていた。「今、どの辺?」
迎えに行く、だとか、キスをした仲だ、とか、穏便に済ませたい、だとか……痴話ゲンカを思わせる意味深長な会話を終えたかと思えば、すぐにまた別の誰かに電話だ。しかも、今度は『姉さん』ときた。この時代、血のつながった姉などいるはずはないから、義理の姉だろう。複雑な家庭なのか。
「頼みたいことがあるんだ。すぐに、『連絡網』を回してほしい」
急に声を低くした少年に、運転手は眉をひそめた。ちらりとバッグミラーを見やれば、少年の端整な顔立ちに笑みが浮かんでいた。それは決して愛らしいものではなく、内なる凶暴性を隠して獲物に忍びよるかのような、妖しいもの。ぞっと寒気がして、運転手はすぐさまバッグミラーから目を逸らした。目を合わせてはいけないような、そんな身の危険を感じたのだ。
「『パンドラの箱』は間もなくヤハウェのものに――それだけ」
『パンドラの箱』? 運転手はぎょっとした。詳しい話は知らないが――たしか、開けてはならない箱、ではなかった。何かの比喩だろうが、いったい、なんの話をしているのか。そういえば、兄弟殺しがどうの、とつぶやいていたし……。
普段なら、後部座席の客が何を話そうと気にならないというのに、少年の会話に聞き耳を立て、詮索している自分がいた。
他人に興味を持つな、トーキョーでは無関心こそ生き残る術。――トーキョーのタクシードライバーを二十年もして、それは重々承知しているはずなのに。少年の妖しい魅力に惑わされているようだった。
「運転手さん」
唐突に、少年の声がすぐ耳元でした。ちょうど、信号が赤になったときだった。思わず振り返りそうになるのをなんとか堪え、慌ててブレーキを踏む。
「な、なんですか?」と、動揺もあらわに訊ねる。
「ケータイ」無邪気に言って、少年は携帯電話を差し出してきた。「ありがとう」
「あ、ああ……いえ」
後部座席から伸びる白い手から、すっとそれを抜き取り、そそくさとポケットに突っ込む。心臓が慌ただしく鳴り響き、ハンドルを握る手が震えていた。
こんな子供――しかも、少年に……。何度、自身に訊ねたかも知れない質問を頭の中で繰り返す。
「ねぇ、運転手さん」
甘えるような声が左耳をくすぐり、まだ、そこに居たのか、と叫びたくなった。ざわりと背筋をムカデが這い上るような感覚がした。
「は……早く、ちゃんと席に座って、シートベルトを……」
「寄り道したいんだ」
「は?」
「とりあえず、右に曲がって」
「右……ですか」
そうだ、仕事だ。――急に現実に引き戻されたようだった。
まだ動揺が残るおぼつかない手で、右にウィンカーを出す。
ふ、と満足そうに彼が笑みをこぼすのが目の端で見えた。
「ありがとう。日野さん」
ぎくりとして目をむいた。それはまぎれも無く、自分の本名だ。なぜ――と疑問に思ったのもつかの間、すぐに思い出す。そういえば、シートの後ろに所属会社と名前が書かれたプレートが貼ってあるのだった。それを見て、自分の名前を知ったのだろう。
しかし……と、日野はごくりと生唾を飲み込む。
なぜ、わざわざ、名前で呼ぶ? こんな客は初めてだ。
見えない糸に操られているような、催眠術にでもかかっているような、妙な違和感を覚えていた。
***
「五分だよ」と、椎名は嬉しそうにほくそ笑む。「もう懺悔は充分だろう」
チッと舌打ちしたくなるのをなんとか堪えた。
曽良への『祈り』を捧げてから、それらしいことをつぶやいて、なんとか五分持たせたが……。
ジャラリと手からこぼれ落ちた十字架が目の前で左右に揺れる。
――間に合わなかったか。落胆が、見えない重石となって肩にずっしりとのしかかるようだった。
「それだけ懺悔すれば、神様も赦してくれるよ」
そんな椎名の軽口にいちいち頭に来ている余裕もなかった。
俺はやおら立ち上がり、倒したパイプイスを直す。一挙一動、能の舞かのように、ゆっくりとした動作で。わざとらしくてもいい。今更、時間稼ぎがバレたところでどうにかなるものでもない。椎名の勝ちは決まったのだから……。
ぎゅっと右手で十字架を握りしめながら、直したパイプイスに腰を下ろした。
カヤの十字架を外していい、と曽良が言ってきたのは、今朝のことだ。あのあとすぐに、起爆スイッチも受信機も――どんなものなのかは俺は知らないが――処分してしまったのかもしれない。『祈り』は、届いてすらいなかったのかもしれない。
俺はじっとうつむいていた。膝の上に置いた拳がガタガタと震えている。
椎名はきっと、いつものあの余裕の笑みを浮かべているに違いない。勝利を確信し、俺を憐れむような目で見つめているのだろう。容易に想像つく。だからこそ、顔を上げる気にはなれなかった。今にも気が狂いそうだったからだ。ほんの少し揺れただけで、溢れてしまいそうなコップいっぱいの水のように、あらゆる感情が飽和状態。俺の理性は、もろく細い蜘蛛の糸で繋ぎ止められているようだった。
同じクローンだというのに、俺たちを追いつめる椎名。『より良い世界』なんて戯言で、同族殺しを正当化して……。理解できない。なぜ、『黒幕』に味方する? なぜ、俺たちカインを――クローンの救済のため、裏の世界で戦ってきた俺たちを――否定する? もし、誰かカインが『お迎え』に行っていたら、こいつも俺たち兄弟の一人だったはずなのに。椎名は、恨むべき相手を履き違えている。なぜ、こいつはそれが分からない? ――そんな、悔しさにも似た腹立たしさと困惑が、爆発しそうな俺の怒りに油を注ぐ。
「藤本くん」と慰めるような親しげな声で、椎名は囁きかけてきた。「あの暗号、解いてくれるよね? カヤちゃんのために」
俺はそっと目蓋を閉じた。
もう、選択肢は無い。ヤハウェに祈りが届かないのなら、俺にできることは何も無い。
親父……こんな息子で、ごめん。――そう、祈るように懺悔した、そのときだった。
「!」
いきなり、机の上で振動音がした。「うわ」と椎名まで驚いた声を漏らした。
この音は……。ざわっと胸騒ぎのようなものがして、俺は反射的に顔を上げていた。
「メールか?」
驚いた、とつぶやきながら、椎名が手に取ったのは、机の上で騒がしく震えるケータイだった。サブディスプレイの下に貼られたプリクラには、聡明そうな女性とお団子頭の少女が微笑んでいる。見覚えのある――そして、きっともう二度と会えないだろう二人。寧々さんと茶々。
茶々が遺したケータイにメールが届いた――俺は焼けるような心臓を胸の奥に感じながらも、じっと椎名を見つめていた。もう、演技など忘れていた。きっと、今、瞳を覗きこまれれば、そこにはしっかりと希望の光が灯っていることだろうと思った。
「おや」茶々のケータイを開いて、椎名は目を丸くした。「また、暗号かな」
ケータイの画面へ向けられていた椎名の視線がちらりとこちらにずれ、その口許に嘲笑のような笑みが浮かぶ。
「新しい暗号みたいだよ、藤本くん」言って、椎名はケータイの画面を俺に見せてきた。「『パンドラの箱』は間もなくヤハウェのものに――だって」
「!」
俺は声を失い、固まった。
椎名はそんな俺に、満足そうに目を細める。
「何か、重要なことみたいだね?」
「……」
「『おもちゃ箱』の次は『パンドラの箱』か。『パンドラの箱』と言えば、世界に禍いをもたらす禁忌の箱。危険な武器でも調達した、てことかな?」
椎名の見当違いの推測に耳を傾けながら、俺はうつむいた。椎名の勝ち誇った笑みを見たくなかったからじゃない。俺の口許から溢れる笑みを、椎名に隠したかったからだ。
「話すよ」
十字架を握りしめる拳が震えているのは、絶望のせいでも、怒りのせいでもなかった。身体を駆け巡る血を沸き立たせ、心臓を舞い上がらせているのは、ほかでもなく、歓喜。
たとえ、あらゆる神に見放されようと、ヤハウェだけはカインを守ってくれる。
「カインの隠れ家の場所……教えてやる」
あとは、時間を稼ぐだけだ。ヤハウェが『パンドラの箱』を手に入れるまで……。
***
汗ばんだ手に握られていたのは、手のひらに収まる大きさの無線ラジオのような機械だった。それにつないだイヤホンから聞こえてきた会話――といっても、一方の声しか聞こえないが――に、愕然としていた。魂が抜けたようにぼうっとソファに座り込んでいた。
――どういうこと? 十五分後に迎えって……曽良くんが今からここに来るってこと? どうして?
それが、二階のとある部屋に仕掛けた盗聴器が拾った音声だった。
十五分後……と、血走った目が腕時計へと向けられる。カチカチと規則正しく時を刻む秒針が、ひどく憎らしく思えた。逆らえない時の流れを突きつけられているような気がした。
『曽良くん』――その人物が誰なのか、面識は無くとも、よく知っていた。今回の『大掃除』で、『駆除』ではなく『捕獲』対象になっている三人の一人。カインのリーダー代理を務めているという少年だ。椎名たちの間では『友人A』と呼ばれていた。
カヤの恋人である藤本和幸、『パパ』と呼ばれるリーダーと思しき男、そして『友人A』に関しては、その『捕獲』のために、特別に作戦が組まれていた。『パパ』を『捕獲』次第、それぞれの作戦が始まる手筈だった。藤本和幸の『捕獲』に成功したということは、同時期に『友人A』の『捕獲』も試みられたはずである。それなのに、なぜ、彼が彼女に電話をかけてきたというのか。『捕獲』に失敗したということか。
さあっと血の気が引いて、背筋が凍り付く。
椎名たちが『捕獲』に失敗するような少年。『パパ』の代わりに、『無垢な殺し屋』たちを束ねていたという『友人A』。そんな彼が、ほんの十五分後――十一時五分には、ここに現れる。
ガタガタと受信機を握る手が震えていた。
「前田秘書」
背後からいきなり低い声がして、思わず、大仰にぎくりとしてしまった。
「はい!?」慌てて振り返った拍子に、耳からイヤホンが抜け落ちる。「すみません、何ですか?」
あたふたとした様子で聞き返すと、背後で佇む大男は訝しそうに睨みつけてきた。
「なにか、怪しい動きはありましたか?」
前田のこけた頬がぴくりとひきつる。
男の視線はまっすぐに、手元の受信機へと向けられている。その分厚い唇は引き結ばれて、それ以上語る様子はないが、言わんとしていることは手に取るように分かった。
「怪しい動き……」
前田はびっしょりと額を汗に濡らし、視線を泳がせていた。真面目そうな顔立ちは不安に歪み、その顔色は青白く染まっている。
『無垢な殺し屋』がここに来るというのだ。このままでは自分の身も危うい。彼らに知らせなくては。そのために雇ったボディガードではないか。――そう頭では分かっているのに、なぜか口が動かない。
あまりの恐怖が声を奪っているのか?
いや、違う。
前田はちらりとローテーブルに視線をやった。そこには、冷えきった紅茶の入ったティーカップが置いてある。
――いつも、ありがとうございます。
前田の声を奪っているもの――それは、そんな少女のたった一言だった。