赤い眼の女
和幸は、あるマンションに暮らしていた。月五万ほどの、比較的新しい普通のマンションだ。清潔感ただよう白い外観と、駅に近いのが特徴だが、オートロックがないので、女性入居者は少ない。
このマンションには、何人かのカインが暮らしている。誰がどこに、までは把握していないが、和幸はその事実だけ知っていた。
カインは、住む場所も生活費もすべて藤本に世話をしてもらっている。和幸も例外ではない。ここのマンションの部屋は、藤本に用意してもらった。
鍵を取り出し、3階の角部屋のドアを開ける。ここが、和幸の部屋だ。
「?」
ふと、和幸は変化に気づいた。なんだか、妙な気配がする。
「まさか……」
ハッと気づいた。そうっと靴箱に手をいれると、そこに隠しておいた銃に手をのばす。
カインは、その仕事ゆえ、命を狙われることもある。ほとんどが逆恨みといえるものなのだ。カインの『おつかい』は主に、盗まれた子供を奪い返す、というもの。恨みさえすれ、恨まれる覚えはない。
だが、子供を盗み売り飛ばす、という過程で様々な危ない連中が絡んでいる。ほとんどの場合、それは組織ぐるみのビジネスだ。カインは、そんなビジネスの邪魔者、といったところ。
カインは顔を隠すこともせず、向かっていく。それは彼らのプライドでもあった。だが、それ故に、なんらかの証拠で顔がわれ、報復として命を奪われたカインもいる。だからこそ、カインは目撃者を排除する。それが、彼らの生き残る手段だからだ。これが、彼らが『無垢な殺し屋』と呼ばれるようになった所以でもある。
しかし、和幸は、三神が『天然記念物』と評する珍しいカイン。彼は、たとえ姿をみられようと、誰も殺したことはなかった。それは、彼の最後のこだわりでもあるのだが…。そのせいで、命を狙われることも多々あった。
和幸は、この部屋にすでに誰かが潜入している、と確信した。銃をかまえ、部屋にゆっくりと入っていく。
暗い部屋をそうっとのぞくと、和幸は息をのんだ。
いる。誰かいる。
だが、妙だった。その人影は部屋の真ん中で、どうどうと立っている。しかも……そのシルエットは明らかに女性だ。
変な威圧感がある。和幸はごくりとつばをのみこんだ。
しばらく、陰から観察していると、女の髪が、うにょうにょと動いていることに気がついた。まるで生きているかのように漂っている。
「なんだよ、あれは……」和幸は、女から聞こえないくらい小さな独り言をつぶやいた。
そのとき、雲におおわれていた三日月が、顔をだした。和幸の部屋にも月光がそそいだ。だんだんと、女の姿があきらかになっていく。和幸は息をのみながら、それを見つめた。
女は窓を背にしているせいで、逆光だ。はっきりと姿を確認はできない。
* * *
くそ。よく顔が見えない。
俺は女から見えないように注意をはらいながら、部屋の中をのぞいていた。あの女、どっかの殺し屋か? 俺も『おつかい』のせいでこわーい連中に恨みを買ってるからな。命を狙われてもおかしくはない。
だが……それにしてもあの女、不気味だ。あの髪、普通じゃねえし。生きてるみたいに動いている。しかも、さっきからじっと立ってるだけだし。なんなんだ、こいつは?
それに、俺も変だ。足がすくんで動かねえ。
そういえば…今朝も、こういう感じを味わった。あのガキだ。俺を『創られた子』と呼んだあのブロンドのガキ。あのときも、俺は今と似たような恐怖を感じた。幽霊とかに対する恐怖とは違う。身の危険に対する恐怖とも違う。これは……畏怖?
「悪く思わないでね、ボク」
「え」
急に、女は口をひらいた。そして、女ははっきりと俺を見つめた。
俺は、女の眼だけはっきりとみることができた。なぜなら、女の眼は自ら赤い光を放ったからだ。ぼんやりと光るそれは、クリスマスの赤い豆電球のようだ。
俺のことに気づいていたことも驚きだが…この眼はなんなんだ?
思わず見とれてしまうような、怪しい魅力をもっている。何秒、俺は見つめていただろうが……急に心臓がどくん、と大きな鼓動をうち、激痛がはしった。
「う!?」
あまりの痛みに、胸元をおさえ、俺はその場に倒れた。
「なんだ、これは……」
倒れた拍子で、俺は部屋の中にはいっていた。
やばい。これじゃ、女にすぐやられちまう!
俺はあわてて体を起こし、女に銃をむけた。だが……
「いない?」
部屋には誰もいなかった。気づくと、心臓の痛みも消えている。たった一瞬の痛みだった。俺はたちあがると部屋のすみずみまで見て回った。といっても、一人暮らしのせまい部屋だ。ぱっと見でいないなら、どこにもいない。
「風呂場!」
俺はひらめいた。見ていないところは、風呂場だけだ。
あいかわらず銃をかまえたまま、風呂場にしのびこむ。にしても…自分の家の風呂場に 『忍び込む』ってのも変な話だよな。
慎重に、脱衣所をみまわし、風呂をのぞく。
「……」
一応、バスタブの隣のトイレのふたも開けてみる。
「いるわけねぇっつうの……」
俺は自分でつっこんだ。
「あの女、あとかたもなく消えてる……まさか、窓からとびおりたってことは…ないよな。
ここは3階だ。運が良くても大怪我。
俺になにもせず、そんな危ない逃げ方するのは変だ」
脱衣所にもどり、洗面台に銃を置いた。
「すでになにかしたとすれば……あの眼か。光る赤い眼なんて普通じゃねえ。
何かのトリックか……新手の武器か?」
俺はまた胸元に手をおく。
「確かに、胸にすんげえ痛みがあった。心臓を握られたみたいな、変な激痛」
ふと、顔をあげ、洗面台の上にある鏡を見た。
「え……
なんだ、これ!?」
鏡には、血で書いたような真っ赤な文字で『神崎カヤに近づくな』と書かれてある。
冗談じゃねえ。おかしい。さっき、ここにはいったときには、こんなのなかったはずなんだ。
俺は声を失い、後ずさった。
「!?」
一歩下がった足の下に、なにかの感触があった。あわてて下を見ると、それは石鹸だ。
「なんで、こんなとこに!?」
石鹸でつるっとすべり、俺の足は柔道ではらわれたかのように大きく弧をえがき、体のバランスがくずれた。
体が反射的に受け身をとったが……狭い脱衣所だ。俺は頭を壁にぶつけた。
「っつ……」
俺は頭をかかえて、寝転がりながらもがいた。
「痛ってえ……」
一通りもがいたあと、それまで痛みでつぶっていた目をふと開ける。
そして、最初に目に入ってきたものに、俺は息をのんだ。それは……銃口だ。
「!」
これは、ただの偶然なのか?
その銃は、さっきまで俺が持っていた銃だ。俺が倒れた拍子に落ちたのだろうが…俺の目の前に銃口を向ける形で落ちている。
もちろん、暴発したりすることはないだろうが……これがワザとだったとしたら、俺を脅すには充分な『いたずら』といえるだろう。
「……呪い、か」
そんな言葉が自然と口からもれていた。
そういえば、カヤは言ってた。自分が呪われている、という噂が流れたこともある、と。
俺はゆっくりと体を起こし、冷静に考えることにした。
「もし、これが何らかのトリックだったとしたら……」
タネは分からないが、犯人ははっきりと分かる。
「『神崎カヤに近づくな』か。確かに、こんなイタズラされちゃ、こわくなるわな。
ただのストーカーじゃねぇぞ、これは」
そう、カヤの『ストーカー』の仕業だ。
そうだ、とひらめいた。『ストーカー』の正体を暴く方法を思いついたのだ。血文字だ。俺にはわかる。あれは本当の血。犯人の血かは分からないが……藤本さんに頼めば、DNAから誰の血か調べだしてくれるはずだ。そこから、何か分かるかもしれない。
もう一度血文字を確認しよう、と鏡を見上げた。
「!」
だが、そこにはもう血文字はなかった。
「どういうことだよ……」
呆然とした。また消えてる。ここには誰も入ってきてないんだ。なんで消えるんだよ?
「まさか……相手は幽霊か?」
「おしい」
「え!?」
急に後ろから声がした。この声……聞き覚えがある。そして、この感じ。あの恐怖感。『畏怖』だ。
ばっと後ろを振り返ると、そこには、あの子供がいた。俺を『創られた子』と呼んだ、ブロンドの……不思議な子供だ。
「お前、あのときの……」
「やあ」と、子供は無邪気に微笑んだ。