迎えに行くよ
「わたしは外で待っていますので」
くまなく部屋の中をチェックしてから、ボディガードはそう言い残して部屋を出て行った。カヤははやる気持ちを押さえ、「はい」と微笑み、閉じていく扉をじっと見届けた。
ガチャンと閉まる音があたりに木霊し、それを合図に、カヤは慌てた様子で持っていた鞄を開いてガサゴソと中を荒々しく探り出す。劇の台本やポーチをよけて、お願い——と祈りながら取り出したのは、携帯電話だった。
緊張の面持ちでサブディスプレイに目をやれば、着信履歴を知らせる表示が浮かび上がっていた。カヤは瞳を潤ませ、その場に崩れるように腰を下ろした。
「勘違いじゃなかった……」
安堵したようにつぶやいて、携帯電話を胸に抱く。それは、本間に内緒で購入したプリペイドの携帯電話だった。その番号を知っているのは、ただ一人——和幸だけ。
以前、GPS機能を手がかりに椎名に居場所を特定され、和幸とともに連れ戻されたことがあった。このままでは、二人きりになることはできない。そんな気がして、和幸と自分だけの携帯電話を持つことにしたのだ。
リビングで足下に置いた鞄から振動を感じ、もしかして、と思った。でも、確信は無かった。気のせいかもしれない、とも思った。和幸を想う強い気持ちが起こした錯覚かもしれない。和幸は、今、自由に電話できるような状況ではないのだから……。
でも、無視するには、その希望の光は明るすぎた。
居ても立っても居られず、ソファから立ち上がっていた。
もちろん、まだこの着信が和幸からと決まったわけではない。間違い電話かもしれない。カヤはごくりと生唾を飲み込み、震える手で携帯電話のボタンを押した。
「お願い……お願い……」
コール音に耳を傾けながら、カヤは目蓋を堅く閉じて祈っていた。
――カヤ。
その愛おしい声が聞こえますように、と。
やがて、コール音がぶつりと途切れ、カヤははっと目を見開いた。雑音がして――、
『やあ』
「!」
微笑みかけたカヤの顔が凍り付いた。
それは確かに、聞き覚えのある声。でも、待ち望んでいた声ではなかった。明らかに、和幸ではない。
「誰……?」
あり得ない。和幸以外の人物からこの携帯電話に電話がかかってくるはずがないのだ。番号はもとより、この携帯電話の存在を知っているのも和幸だけなのだから。
張りつめた空気の中で、研ぎすまされたカヤの聴覚が電話の向こうでクスクス笑う声を拾い取っていた。
『俺の声、忘れちゃった? キスまでした仲なのに、ひどいなぁ』
カヤは目をむき、息を呑んだ。
この緊張感の無い暢気な声。そして、キス……。
「曽良……くん?」
『正解。久しぶりだね、カーヤ』
「どうして――」
『時間がないから、用件だけ言うよ。あと十五分後に『お迎え』に行くから用意しといて』
「迎え……!?」
思わず飛び出した声に、カヤは自分で驚いた。ボディガードは扉を隔てたすぐそこにいるのだ。大声を出して聞かれでもしたらまずい。
カヤは咄嗟に口許を押さえて立ち上がり、ベランダのほうへと移動した。
「どういうこと? 十五分後に迎えって……曽良くんが今からここに来るってこと? どうして?」
『かっちゃんに頼まれちゃったからさ』
「和幸くん?」そこでハッとした。「この番号、和幸くんに聞いたの?」
すると、曽良は『まあ』と言葉を濁した。
「和幸くんと連絡取れたの? いつ? さっき、話したんだけど、なにか様子がおかしくて……警察の人はカインをテロリストって言うし。ねえ、どうなってるの? もうよくわからないことばかりで……私、どうしたらいいのか」
馴染みのある声が聞けて、気がゆるんだのか、疑問と弱音が溢れ出ていた。倒れかかるように窓に背をあずけ、目元を押さえる。
「ねぇ、曽良くん。何が起きてるの?」
『……会ってから話す』
そう答えた曽良の声に、いつもの陽気な色は無かった。
ざわっと胸騒ぎがして、カヤは思い出したように顔を上げた。
「皆は? カインの皆は無事なの?」
『……』
「曽良くん?」
電話の向こうで、大きくため息をつくのが聞こえた。
『とにかく、十五分後。今、ちょっと無理できる身体じゃないんだ。できれば穏便に済ませたい。今は一人なんだよね? そのまま、一人でいられそう?』
どうして、答えないの? 嫌な予感が悪寒となって、背筋に走った。
でも、それ以上の問いを拒むような雰囲気が曽良の口調から感じられて、カヤはぐっと唇を引き結び、喉まできていた言葉を胸の奥に押し込んだ。
「今は、自分の部屋にいるの。着替えたい、て嘘ついて、なんとか一人にはなれたんだけど……」
『じゃあ、どれが君の部屋か分かるようにしといて。ベランダに派手な色の何かを干しとくとか、できる?』
「うん……分かった」
正直、不安だった。いくらなんでも着替えに十五分もかからない。きっとすぐにでも催促の声がかけられるだろう。さっきの様子だと、疲れた、と訴えたとしても、このままここで一人で休ませてもらえるとは思えない。リビングでお休みください、なんて言われて終わりだ。
だが、それを曽良に相談したところでどうにもならない。自分でなんとかするしかない。カヤは覚悟をあらわに顔を引き締めた。
「ところで」しかし、気になることが一つ。カヤは訝しげに切り出した。「曽良くん、ここの住所は知ってるの?」
『夕べの十一時過ぎから明け方まで、かっちゃんと一緒に居た場所でしょう?』
カヤはぎくりとして——こんなときにも関わらず——頬を赤く染めた。
夕べから明け方まで……確かに、和幸とここに居た。そして、この部屋で——。
「なんで……そのこと……? 和幸くんから聞いたの?」
『俺はいろいろと知ってるんだよ』からかうような声色で曽良は言った。『カーヤが思っている以上に、いろいろとね』
不気味な口振りだった。
「どういう……意味?」
『話はまた会ったときに。じゃあ』
「待って、曽良くん――!」
さっさと電話を切られ、カヤは呆然と立ち尽くした。
明らかに、曽良の態度はいつもと違っていた。冷たくて、突き放すような……それでいて、淡々と語る声からは何か熱い感情が滲み出ていた。それは一週間前の、あの夜に彼から感じたものとはまったく別のもの。
カヤはそっと自分の唇に触れた。
――もう二度と、会えないといいね。
キスを交わしたあと、彼がこぼした言葉。それが不吉な予言のように脳裏をよぎった。