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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
278/365

残酷なお礼

 ちょうど、信号が赤に変わってブレーキに足をかけたときだった。バックミラーに映る客に動きがあった。

 高校生くらいの少年なのだが、乗り込んだときに『帝南高校まで』と言ったきり、ずっと黙って黒い携帯電話を耳に当てていたのだ。もちろん、タクシーの中で携帯電話をいじる人間は珍しくはない。だが、携帯電話を耳に当てているだけ・・というのは、珍しい以前に奇妙だ。

 二十年もタクシーの運転手をしている彼も、こんな客は初めてだった。

 さらに興味をそそられるのは、少年の格好だ。サイズが合っていなさそうなぶかぶかの灰色のパーカーに、地味な深緑のカーゴパンツ。高校生とは思えない服装だ。それも、彼のような少年が好んで着るとは思えない——運転手はバックミラー越しに少年を見つめながらごくりと生唾を飲み込んだ。

 ずっと窓の外を睨みつけるように見つめる少年は、神秘的とも言えるほどの美しさを漂わせていた。透明感のある白い肌は同じニホン人とは思えず、そのはっきりとした目鼻立ちも異国の血を感じさせる。少年に対して、『天使のようだ』という感想を抱いたのはこれが初めてだ。

 普段なら、客が後部座席で何をしようと無関心でいられた。カップルが突然愛を確かめだしても、迷惑料をふんだくってやればいい、と放っとくくらいだ。しかし、今回ばかりはバックミラーを確認しては、彼の仕草一つにさえ気を取られた。

 それほどまでに少年が気になって仕方ないのは、きっと、携帯電話のことなどはどうでもよくて、ただ、その人並みはずれた美しさのせいなのだろう。——そんな結論に至って、運転手は複雑な思いだった。客に興味を持ったことが初めてなら、『少年』から色気を感じたのもこれが初めてだったからだ。決して男色の気が出てきたわけではない。後部座席の少年には、性別を越えた魅力があるのだ。運転手は、その不思議な色気に取り憑かれているようだった。

 少年が携帯電話を下ろし、ふうっとためを息つく。そんな些細な動作にさえ目を奪われて、信号が青に変わったことにも気づけなかった。


「勝手なことを言うよ」少年は自嘲するような薄笑いを浮かべ、吐き捨てるようにつぶやいた。「裁け、だなんて……俺に『兄弟殺し』を押し付けてるだけじゃないか」


 兄弟殺し? 思わぬ言葉が、その愛らしいアヒル口から飛び出して、運転手はぎょっとした。同時に、動かぬタクシーにしびれを切らしたドライバーたちがクラクションを鳴らし始め、運転手は慌ててアクセルを踏んだ。


「あと五分……か」

 

 あまりよそ見をしていたら事故を起こしかねない。そうは分かっていても、ついつい視線はバックミラーへ——そこに映る少年へと向いてしまう。

 何度、一瞥を繰り返したときだっただろうか。ふと、バックミラー越しに彼と目が合った。運転手はぎくりとして視線を逸らす。四十半ばになって、思春期にでも戻ったかのようだった。


「ねえ」


 禿げ上がり肥えた親父が、三十近く離れた子供になにをどぎまぎとしているのか。それも、少女ではなく少年に。運転手は次第に自己嫌悪に陥り始めていた。


「ねえ、運転手さん」


 少年が自分を呼んでいるような幻聴まで聞こえてきた。異常だ。

 運転手は疲れたようなため息を漏らす。——と、そのときだった。


「あのさ」と、急に少年が後部座席からひょっこり顔を出してきたのだ。「ケータイ、貸してくれない?」

「ぎゃあ!」


 思わず、そんな叫び声をあげていた。


「ちゃ、ちゃんとシートベルトしてくれないと困るよぉ」よこしまな気持ちを悟られるんじゃないか、と動揺して、そんなことを口走っていた。「ケータイなら……ほら、貸すから! 後ろに座ってて」


 気づけば、ポケットから携帯電話を取り出し、放り投げるように彼に渡していた。


「ありがとう」


 無邪気に微笑む少年を横目で見て、やはり胸が高鳴ってしまう。恋心とはまた違う、抗えない誘惑。禁忌の甘い果実でも前にしているかのようだ。危険な香りがして、それがまた欲情をそそる。まだ未成年だったころに、上級生にタバコを勧められたときの感覚に似ている気がした。

 やがて、背後で単調な呼び出し音が鳴り出して、少年が「やあ」と親しげな声をあげるのが聞こえてきた。

 電話をかけさせた? 電話代を気にして、ワン切りでもしたのだろうか。律儀な少年だ、と聞き耳を立てながら運転手は感心した。しかし、冷静さを取り戻した彼の頭には一つの疑問が浮かんでいた。 


 そういえば、彼は黒い携帯電話を持ってはいなかっただろうか。


   *   *   *


 私は思わず、「え!?」と声を漏らしていた。

 周りを囲むボディガードのおじさんたちが、じろりと鋭い視線を向けてきた。


「どうか……しましたか?」


 ぎくっとして顔を上げると、ちょうど、紅茶を運んできてくれた前田さんが心配そうに私を見下ろしていた。私はあわてて首を左右に振り、「なんでもないです!」とごまかした。

 足下に置いておいた鞄を手に取り立ち上がると、肩をぐいっと背後に引っぱられた。弾かれたように振り返れば、ボディガードの一人が、ソファの背後から身を乗り出すようにして私の肩を掴んでいた。黒スーツに身を包んだ、スキンヘッドの男の人だ。


「どこに行くつもりですか、お嬢様?」

「あの……部屋に戻ります」

「ここに居てください」


 異論は認めない、と言いたげな高圧的な口調だ。

 いくら恐いといっても、彼はボディガードなんだ。私の安全を考えてのことなのだろうけど、引き下がるわけにはいかなかった。


「着替えるだけです。これ、劇の衣装で……落ち着かなくて……」


 すると、ちらりとボディガードの視線が私の鞄に向けられた。


「それは必要ですか?」

「これは……」つい、ぎゅっと鞄を胸に抱きしめていた。「ここにあっても邪魔ですから、部屋に置いてこようと思って」


 ボディガードは疑るような目で私をじっと見つめてきた。その迫力に押されながらも、私も負けじと見つめ返した。

 下手したてに出てたらダメだ。言いなりになってたら、きっと、このままここに閉じ込められてしまう。それじゃ、だめ。和幸くんに誓ったんだもん。私が守る、て。


——カヤ。どうか、この世界を……。


 最後のあの言葉がひっかかって仕方なかった。彼はなんて言おうとしたんだろう? あんな苦しそうな声で、何を私に伝えたかったんだろう? おじさまが向かっていると知ったときの彼の反応もおかしかったし……。嫌な予感がする。

 だから……だからこそ、こんなところで足止めを食らっているわけにはいかない。


「ここで着替えろ、とでもおっしゃるんですか!?」


 私は覚悟を決めて、ボディガードを怒鳴りつけた。さすがに驚いたようで、肩を掴んでいたボディガードの手が緩んだのを感じた。私はここぞとばかりに身をひねってその手を振り払い、呆気にとられるボディガードを睨みつけた。

 重い沈黙がリビングに降り立った。

 スキンヘッドのボディガードは鼻の穴をぴくぴくと動かし、今にも爆発しそうなほど顔を赤く染めていた。苛立ちがひしひしと伝わって来る。

 任務中の——それも、身体を張って私を護ろうとしてくれる人を困らせて、胸が痛むけど……今は良心に構ってる場合でもなかった。

 しばらく、睨み合っていると、


「い……いいじゃないですか、着替えくらい」


 張りつめた空気の中、弱々しい声が沈黙を破った。ハッとして振り返れば、大事そうにティーカップを抱いた前田さんが強張った表情でこちらを見ていた。


「ご自分の部屋で着替えられるんですよね?」

「はい、もちろんです」


 なぜ、そんな当たり前のことを確認してきたのか不思議だったけど、とにかく私は何度も頷いた。

 正直、場所はどこだっていい。一人になれさえすれば……。


「じゃあ、問題ないじゃないですか」とボディガードに目配せする前田さんの頬はひきつっていた。「カヤさんの部屋なら安全です」


 私の部屋なら安全? 間取りとか……そういう点で、だろうか?


「ああ、なるほど」しばらくして、目を瞬かせる私の背後で納得したような声が溢れた。「そうだったな」


 私はスキンヘッドのボディガードと前田さんを交互に見やった。二人の間では無言のやり取りが行われているようだった。


「とりあえず、お部屋の前までご同行します」急に落ち着きと余裕を取り戻し、ボディガードは軽く会釈をした。「お着替えされている間は、お部屋の前で待機させていただきます」


 部屋の前……それなら、大丈夫、だよね。


「お願いします」と私もぺこりと頭を下げた。

「では、参りましょう」

「はい」


 ボディガードに促されるように身を翻し——そこで私ははたりと動きを止めた。今にも泣き出しそうな表情で、前田さんが目の前に立っていたからだ。

 どうしたんだろう? 気分でも悪いのかな?

 じっと見つめていると、ややあってから前田さんは我に返ったように「すみません!」と横に飛んだ。


「……すみません」


 沈んだ顔を下に向け、前田さんは震えた声で繰り返す。

 どうして、そんなに謝るんだろう? 別に、前田さんが邪魔だったから立ち止まっていたわけじゃないのに。

 私はつい苦笑していた。


「前田さんって、本当に優しい方ですよね」


 ぴくりと前田さんの肩が震え、ティーカップがカチャリと鳴った。その音に気づいて、思い出したようにティーカップに視線を向ける。


「紅茶……せっかく淹れてくださったのに、冷めちゃいますね」

「あ、いや……」


 そういえば、前田さんはいつもこうして紅茶を淹れてくれるんだよね。ついでだから、とごまかすように言っていたけど、おじさまが紅茶を飲むのは見たことがない。嘘だというのは知っていた。

 夜中に勉強していたら、クッキーを運んできてくれたこともあった。そのときも「邪魔してすみません」と何度も謝られちゃって、お礼を言うタイミングもなかった。

 廊下で会えばいつも大きな笑顔で迎えてくれて、この家に越してきたばかりで不安だったとき、どれだけその笑顔に救われていたことか。

 今だって、ボディガードとの間を取持ってくれているのは前田さんだ。こんな状況で、着替えたい、なんて普通に考えたら迷惑なわがままだ。それなのに、呆れるわけでもなく、私のために口添えまでしてくれた。

 前田さんはおじさまの秘書で、私にまで気を配る必要はないはずなのに……。


「『お兄ちゃん』って、前田さんみたいな存在なのかな」


 気づけば、私はそんなことを口にしていた。

 前田さんは「へ」と青白い顔を上げて、まん丸の目で見つめてきた。私はその視線をまっすぐに受け止め、ふっと微笑んだ。


「いつも、ありがとうございます」

「……」

 

 私は心を込めて、ずっと胸の奥で暖め続けたその言葉を口にした。

 いきなりだったからか、前田さんは言葉もでない様子で啞然としていた。

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