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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
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ヤハウェへ贈る祈り

「もう充分でしょう」


 携帯電話のボタンを素早く押し、椎名は唇の片端をくいっと上げた。端整な顔立ちに浮かぶ残酷な笑みは、獲物を追い込み舌鼓を打つ捕食者のそれのよう。その瞳に映るのは、意気消沈し、生気のない顔をした少年だ。十代半ばの彼からは、若者らしいエネルギーは感じられない。希望とか夢とか、そんなものを一切捨てたような目をしている。

 当然だ。

 彼には——和幸には、自分の運命がはっきりと見えている。恋人を守るために家族を売り、そしてここで禁忌の存在、クローンとして消される運命。

 倒れたイスを直す気もなく、和幸は呆然と立ち尽くしていた。

 せめて、最後にカヤに伝えたかった。この世界を裁く運命を持つ彼女への、願いにも似た自分の想いを……。そんな望みさえ叶えることも許されず、和幸は失意のどん底にいた。そこから這い上がる力も、意志さえももう無い。ここで朽ち果てるだけだ。カヤを守るという誓いも、家族の期待も、全て裏切って……。


——人を殺さない生き方がある。幸せを選ぶ生き方がある。そのために、カインを辞めた人間がいる。それは、いつか弟たちの希望になる。


 夕べの曽良の言葉が和幸の脳裏によみがえる。

 なにが希望だ、と嘲笑する。自分は家族にとっての脅威以外の何者でもないじゃないか。

 椎名の言う通りなのかもしれない。クローンは結局、この世界に混乱を生むだけの存在。光を遮り、この世界に影を創るだけ。


「さあ、カインはどこに逃げたのか。教えてくれる?」嗜虐性すら感じさせる妖しくも甘い声で椎名は囁いた。「あんなに健気に君を想うカヤちゃんを、金持ちのお人形にはしたくないでしょう?」


 力が抜け切っていた和幸の拳がびくんと震えて、手の甲にメキッと血管が浮き出た。

 ぎろりと椎名を睨みつけると、絶望に沈んでいた瞳に光が戻る。敵意と憎悪がぶつかり合って火花を散らしているような輝きだ。


「まだ、そんな目つきができるとは驚いた」椎名はくつくつ笑う。「カヤちゃんに何かあれば、君は地獄からでもよみがえりそうだね。やっぱり、君は嫌いじゃないよ」

「俺がカインの暗号を明かしたとして、そのあとカヤはどうなる?」


 椎名の嘲弄を無視して、和幸は低い声で訊ねた。

 椎名はきょとんと目を丸くする。


「なんだい、急に? さっきも言ったでしょう。君がこちらの言うことを聞いてくれれば、カヤちゃんを悪いようにはしない」

「保証はあるのか?」

「保証もなにも」と椎名は馬鹿にするように鼻で笑う。「君を利用するためには、僕たちにはカヤちゃんが必要だからね」

「俺を殺したあとはどうなる!?」


 部屋を震わせそうなほどの和幸の怒号に、椎名は切れ長の目を見開いた。


「カインを全員捕まえたら、俺のことも殺すつもりなんだろう? そのあと、カヤはどうなる!? 俺が必要無くなったら、カヤも用無しなんだろう。それでも、あいつに手を出さないという保証はあるのか!?」

「寂しいことを言うじゃないか」椎名は白々しく哀しげに眉尻を下げた。「安心して。君が約束を守ってくれたら、カヤちゃんは必ず僕が守る。僕は彼女のボディガードだからね。それが仕事だ」

「今朝、クビになっただろ」

「冗談が言える余裕があるとは見上げたもんだ」

「お前の言うことなんて信用できない」


 吐き捨てるような和幸の言葉に、椎名は穏やかに笑んで見せた。


「僕の目的は、『より良い世界』を創ることだ。クローンも人身売買も無い世界。そんなものを夢見る僕が、ただ男運が無かっただけの健気な少女を売ると思うかい?」

「その『より良い世界』ってのも眉唾もんだからな」

「本当に頑固だよね」椎名は呆れたように苦笑した。「カヤちゃんの安全は僕が保証する。——それしか言えないよ」

「それで俺が納得するとでも思うのか?」


 すると、椎名は憫笑にも似た笑みを浮かべ、和幸を見上げた。


「納得しないとして、君に何ができるの?」

「……」


 和幸はぐっと眉間に皺を寄せ、押し黙った。


「ここで君が粘っても、カヤちゃんを危険にさらすだけだ。ほら、さっき彼女が言ってただろう。『ボディガード』と一緒にいる、て。残念ながら、彼らはボディガードなんかじゃない」

「監視だろ?」皮肉をにじませた声で和幸は口をはさむ。「カヤが逃げ出さないように見張ってるだけだ」

「それもあるけど……もう一つ」椎名は身を乗り出し、じっと和幸を見つめた。「君が歯向かったときの『お仕置き』さ」

「お仕置き?」

「今朝のこと、忘れたわけじゃないでしょ。僕が彼女にしたこと」


 ざわっと全身に鳥肌が立った。和幸は口を開いたまま声も出せずに固まった。

 まざまざと脳裏に浮かび上がるのは、嫌がるカヤを力づくでソファに組敷く男の背中。カヤの悲鳴までが生々しく蘇ってくる。

 和幸は青白い顔で首を小刻みに横に振った。


「やめろ……」

「やめろ、て言われてもね」椎名は頬杖をつき、困ったように笑む。「忠告したはずだよ? 男が本気で襲おうと思ったら、カヤちゃんみたいなか弱い女の子なんて簡単。だから、ボディガードである僕に感謝するべきだ、て」


 いつのまにか、和幸の息は上がっていた。手のひらは汗でぐっしょりと濡れている。


「これ以上は言わなくても分かるよね? さあ、覚悟を決めてもらおうか」

「……」


 ごくりと生唾を飲み込んだ。

 もう逃げ場なんて無い。四方を囲む壁が、身動きできないほどに迫り来るようだった。

 受け入れるしかない。——覚悟なんかじゃない。それは諦めだった。

 和幸は瞼を閉じ、これが最期かのようにゆっくりと息を吸った。

 そのときだった。


「これ、カヤちゃんからのお守りなんだろ」


   *   *   *


 カヤからのお守り?

 思わぬ言葉に、俺はハッと目を見開いた。


「お守りまで取り上げることはないのにね」椎名がスラックスのポケットから出した拳からは細いチェーンが溢れ出ていた。「ただのネックレスでも、君にとっては特別なんだろう?」


 椎名はチェーンに指をからめて、目線の高さに掲げた拳を開く。チャリンと音を鳴らして勢いよくこぼれ落ちてきた物体が、椎名の目の前で電灯の光を反射して銀色に輝いていた。

 まるで催眠術にでもかけられているかのように、左右に揺れるそれを俺はじっと見入った。

 見覚えがあった。カヤの胸元で揺れるそれを、ずっと疎ましく思っていた。何度、投げ捨ててやろうか、と思ったことか。だが、皮肉なことに、夕べ、俺はそれに救われたんだ。

 曽良がカヤに渡したネックレス。カヤを裁くために捧げられた十字架。——カインの『お守り』。


「蟹江さんが取り上げた君の所持品をチェックしていたらね、部下が教えてくれたんだ。これ、カヤちゃんが君に贈った『お守り』なんだろう?」


 椎名は滑らかな口調で言い、そっと十字架を机の上に横たえた。茶々のケータイの隣に花でも添えるかのように。


「そういえば、カヤちゃんはこれを大事そうに首に提げていたね。肌身離さず、ずっと。そんなお気に入りのネックレスを君に渡したんだ。『お守り』なんて泣かせるじゃないか。よっぽど、君が好きなんだね」


 泣き落としにでもかかってるのか。

 そのすました顔を殴り飛ばしてやりたかったが、必死に堪えていた。せっかく開けそうな突破口をふさぐわけにはいかない。


「お前……」心に点った小さな希望の灯火を悟られないよう、俺は努めて沈んだ声を出す。「それ、ずっと持ってたのか?」

「そう」と、得意げに椎名は笑った。「どれほどカヤちゃんが君を想っているのか、万が一、君が忘れるようなことがあったら……と思ってね」


 ずっと……持っていた。——その言葉に、思わず、拳を力強く握りしめそうになった。

 興奮に沸き立つ血潮を感じる。

 チャンスだ、と叫ぶ声が聞こえた気がした。一か八かだが、賭けるしかない。救いの神がまだ俺を見捨てていなければ、希望はある。あとはもう祈るだけだ。


「祈らせてくれ」掠れた声で、俺は言った。「最後に、祈らせてくれ」

「祈る?」


 さすがに、椎名は怪訝そうに眉根を寄せた。

 俺はじっと十字架を見下ろし、絶望した風を装う。肩を落とし、声からは覇気を無くし、感情を殺す。

 演技は苦手だ。だが……。


——演技だ、て意識するからきっとうまくいかないんだよ。


 そうだよな、カヤ。演技だと意識しなければいい。自然に、なりきればいい。表の世界でずっとしてきたことじゃないか。嘘ばかりの人生で無垢を演じてきたんじゃないか。いまさら、難しいことなんてないはずだ。


「祈るって」椎名は十字架を手に取り、チェーンを鳴らしながら左右に振った。「この十字架に祈りたいの?」

「他に何がある? 俺は今から、家族を裏切るんだ。覚悟を決めろと言うなら、懺悔の時間くらいくれてもいいだろ」

「でも、これただのアクセサリーだよ? ロザリオじゃないけど、意味あるのかな?」

「構ってられるか」


 声が震えているのは、演技なのか、興奮が隠せていないだけなのか、自分でも分からなかった。

 椎名は「懺悔ね」とつぶやき、そんな俺をじっと見つめてきた。瞳に何か文字でも書いてあるのか、というくらいに熟視してくる。美月姉さんのように読心術でも使えるのか? 

 しばらく俺を観察してから、椎名は背もたれによりかかって、ふっと息をついた。


「いいよ」


 けろりと言って、椎名はテーブルホッケーでもするかのように十字架を俺のほうへと滑らせてきた。


「君たちの『巣』が教会だったから、まさかとは思ったけど、本当に宗教家なんだねぇ。なるほど、通りで絵画の話は分からないくせに、サロメのことだけは詳しかったわけだ。カインは皆、そうなのかい?」


 相変わらずの減らず口だな。

 俺は「だから、何だ」と冷たく返し、手錠を机の上で引きずるようにして十字架を手に取った。そのまま膝を折り、床に跪く。机に両肘をついて十字架を両手で握りしめ、それを口許に近づけた。祈りが届きやすいように……。


「五分だけだよ」


 椎名のその言葉を聞き届け、俺は瞼を閉じた。そして、心の底から俺は願った。


「ヤハウェよ」低い声で、だが、しっかりと俺は唱えた。「この罪深き命にご慈悲を。十字架の裁きは、今はまだお赦しください」


 曽良。俺を恨む気持ちは分かる。だが、もう少しだけ待ってくれ。この十字架がどういう役目か、分かってるつもりだ。こういう状況に備えて、親父が創ったんだよな。仲間の情報が漏れないよう、捕まった人間を『片付ける』ために。そのために、爆弾を仕込んだ。それは分かってる。今更、命乞いをするつもりもない。

 だが、もう少しだけ……もう少しだけ、待ってくれ。


「もし、この声が届いたならば、どうか、カヤに救いの手を。彼女を導き、自由をお与えください」


 カヤが捕まっている限り、俺はどうすることも出来ない。だから、カヤを本間の家から救い出してくれ。カヤは何も知らないんだ。事実を伝えて、どこか安全なところへ逃がしてやってくれ。そうすれば、俺はカインを売る必要はなくなる。皆、逃げられる。


「全てが片付いたときには……」ぎゅっと十字架を握りしめ、俺は固く目をつぶった。「これ以上罪を犯さぬよう、約束通り、この身にヤハウェの裁きを」


 家族の脅威は全て取り除く。お前はそう言ったはずだ。だから、全部終わったら――カヤもカインの皆も無事に逃げられたなら――俺を『片付けろ』。


「そして、彼女に伝えてくれ」


 これが最期の頼みだ、曽良。


「たとえ、何が起きようと……この世界を恨まないでくれ、と」

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