より良い世界のために
「どういうつもりだ、椎名?」
意気揚々とICレコーダーを背広の内ポケットにしまう椎名に、俺は我慢ならずに訊ねていた。椎名はそれが意外そうに目を丸くし、「なにが?」ととぼける。
「今の『自白』だ!」がばっと身を乗り出して、俺は声を荒らげた。「俺たちが『人身売買の被害者』だって? 今更、かばうつもりか!? 『黒幕』のことまで話させて……今の『自白』が表沙汰になれば、本間はただじゃ済まないぞ! 何を企んでる!?」
すると、椎名は「シーッ」と人差し指を口許に当てた。
「この部屋は元々、『外に知られてはまずいこと』をするためのもの。だから、一応監視カメラや盗聴器はない」でもね、と子供を優しく諭すように椎名は忠告してきた。「ドアの向こうでは、こわーい大人たちが興味津々で聞き耳を立てている。あまり大声を上げないでくれると助かるな」
ちらりと視線を椎名の背後にやると鉄製のドアがあった。この部屋と外とをつなぐ唯一のドアだ。蟹江とかいった刑事もまだそこにいるのだろうか。
俺は気を落ち着かせ、椎名へゆっくりと視線を戻す。
「つまり、他の奴らには知られたくない、てことか?」
「さあ」
「お前……」と俺は椎名を睨みつける。「本間秀実を裏切る気か?」
椎名は口許にうっすらと笑みを浮かべ、冷静な眼差しで俺を見つめるのみ。答えない。――いや、答える必要もない、てことか?
「何がしたいんだ、お前は?」
確信した。さっきの『自白』は……カヤのためでも、カインをテロリストに仕立て上げるためでもない。本間秀実を陥れるための罠だ。
だが、なぜ?
結局、こいつもクローンだ、てことか? 俺たちと同じ……『黒幕』を憎む存在。じゃあ、なぜ俺たちに敵対する? なぜ、俺たちカインを目の敵にする?
「さっきも言ったでしょう」呆れたようにため息をつき、椎名は不敵に笑んだ。「僕はより良い世界を創りたいんだ」
「より良い世界?」
――だから、君に協力してもらいたい。『先生』のもと、より良い世界を創るために。
確かに、そんなうさんくさいことを言っていたな。
その先生を裏切るようなマネしといて、説得力なんてありゃしない。どういうつもりなんだ?
「僕にはいたんだ。僕を『普通の子供』として育ててくれた父親が」憂いに満ちた眼差しを部屋の隅へと向け、寂しげに椎名は切り出した。「僕はその人の夢を叶えたい。そのためだけに生きてきた。どんなこともしてきた」
「父親……」
椎名の口からその単語が出て来たことに驚いていた。
親父のほかにもいたっていうのか。クローンの子供の『父親』になるような人間が……。
「もう少しなんだ」椎名の瞳には、執念とか怨念といったものを感じさせる、禍々しい眼光が宿っていた。「もう少しで……父の望んだ世界が……表も裏も無い、より良い世界が創れる」
「表も裏もない……?」
俺はぎょっとしてしまった。
こいつ、本気で言ってんのか? 表も裏もない世界なんて、そんなものを夢見てるのか?
啞然として固まっていると、椎名は「だから」ところりと表情を変えて楽しげに口火を切った。
「君にも協力してほしいわけさ」
「協力? もう『自白』はしただろ」
「やだなぁ。とぼけちゃって」妖しく笑んで、椎名は茶々のケータイを手に取った。それでコツコツと机を叩く。「さっきの暗号さ。どういう意味か教えてくれるかな? 取り逃がしたカインを捕まえたいんだ。ちゃんと『掃除』は終わらせなきゃね」
ざわっと全身が粟立った。
「ふざけるな!」思いっきり両手を机に叩き付けていた。「なにが『より良い世界』だ!? 父親の夢だ!? でたらめ言いやがって! それとカインとなんの関係があるっていうんだ!? なんで俺たちを狙う!?」
「君も本当は分かっているんだろう?」
俺とは対照的に、冷めた口調で椎名は言った。
「これからの世界、僕たちクローンは、生きててもどうせろくな目にはあわない。『より良い世界』に、僕たちクローンの居場所なんてないんだから」
「な……」ひやりと冷水が背中をつたったような感覚がした。「なにを言ってる?」
「君たちカインこそ、その証じゃないか」
「なんの話だ!?」
「君は言ったね。自ら進んで『殺し屋』になった、と。もっと正しく言えば、それしか生きる道がなかった――じゃないの? 『殺し屋』になるしかこの世界で生きていく道がなかった。だから『殺し屋』になった。他に選択肢なんて無かった。違うかい?」
「それは……」
「僕たちクローンはこの世界にあらざるものだ。だからこそ、混乱を招く。君たちカインも、その混乱の一つに過ぎない。
僕たちという存在が、世界に裏を創ってしまう。だから、まずは僕たちが消えるべきだ。そうすれば、この世界はきっと少しずつ治っていく」
「だから……まずはカインを皆殺しにするっていうのか?」
「何事にも、『はじまり』は必要だ」達観したような眼差しを浮かべ、椎名はさらりと言った。「君たちには『のろし』になってもらう。大丈夫、君たちの犠牲は決して無駄にはしないさ」
大丈夫、だ? ぎりっと奥歯を噛み締めた。
「お前はどうなる?」椎名を睨みつけ、俺は憎悪をにじませた声で訊ねた。「お前もクローンだろ。お前も『より良い世界』とやらのために死ぬってのか?」
「もちろん。僕もそのときがきたら身を引くつもりだ。それくらいの覚悟はとっくにできている」
軽い調子で言ってから、椎名は目をふっと細め、自虐めいた笑みを浮かべた。
「それに……もうずいぶん昔に、僕は死んでいるからね」
「死んでいる?」馬鹿にするように鼻で笑った。「じゃあ、今のお前は幽霊かなにかってわけかよ?」
「そう。亡霊さ」俺の嫌味を軽口であしらい、椎名は「さあ」と話題を変えた。「話をそらしたい気持ちはよく分かるんだけどね。あまり時間もないから、本題に戻りたいんだ」
本題——喉をつぶされるような息苦しさが襲って来た。俺はぐっと堪えるように唇を引き結び、視線を落とす。机に置いた両手が震えて、手錠がカチャカチャと音を鳴らしていた。身体を焼き尽しそうな激しい怒りと気が狂いそうなほどの恐怖が心の中で暴れている。
「カインのお友達はどこに逃げた? 正直に答えてくれるかな? ——カヤちゃんのためにも」
頭がおかしくなったのか、想像通りの脅し文句に笑えてしまった。