二人のクローン
今……なんて言ったんだ?
俺は呆然として、動くこともできなかった。
椎名は頬杖をつき、そんな俺を観察しているようだった。いつもと変わらない、すました笑みを浮かべて。
「座ったら、藤本くん?」
馬鹿にしているのか、と思うほど緊張感のない声だ。
頭の中では疑問が溢れ、腹の中を混乱が渦巻く。
本間先生がトーキョーの黒幕? 俺たちカインが血眼になって捜していた仇? 全部、嘘だったのか? 信じろ、て言ったのも……全部、嘘? 俺を――カインを陥れるための茶番? カヤは? カヤはどうなんだ? カヤのことも騙してたのか?
――遠慮しなくていいんだぞ。父親だと思って甘えてくれていいんだ。
『父親』も……茶番だったのか?
「さて、藤本くん」ころりと満面の笑みを浮かべて、椎名は口火を切った。「話してもらえないかな? 本間代議士の暗殺計画について」
「!?」
俺はぎょっとして椎名を見つめた。
「なにを……」
「君のほうも本間代議士を殺すための茶番だったんだろ、ぜーんぶ」
意味が分からない。茶番だったのはそっちだろ。本間先生の暗殺? そんなこと考えたこともない。
あの人が黒幕だと知っていれば話は別だったかもしれないが……少なくとも、俺は本間先生を信用していたんだ。カヤを引き取ってくれた情の深い人だと……どこかで、親父――藤本さんにその姿を重ねていたんだ。
なのに……。
ぐっと拳に力がはいった。
「俺は……カインじゃない」
「またまたぁ。そういうのは面倒だからいいって」
「俺はカインじゃない!」
手錠が騒がしく鳴るのも構わず、乱暴に両手を机に叩き付けた。こんなときこそ、冷静さを失ってはいけない。――親父の諭す声が聞こえてくるようだ。
「君さ、自分の立場分かってるの?」やれやれ、と呆れた様子で椎名はため息を漏らした。「もう自白しちゃってるんだからさ。妹を呼ぼうか? 興味深い証言をしてくれると思うよ?」
「……」
カナエ……。悔しさに、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
全身痣だらけの華奢な女だった。手首から鎖をぶらさげ、ひどく怯えた目をしていた。俺が助けなければ、と必死になったのはとんだ思い上がりだったってのか。
まさか、全部『茶番』だったなんて……。『黒幕』が仕込んだ女だったなんて……。
俺は力無く腰を下ろしていた。というより――腰が抜けた、に近かったかもしれない。
手遅れだ、と悟った。彼女には全てを知られてしまった。いや……全てをさらけ出してしまった。
俺のせいだ。俺がカナエを曽良に引き合わせてしまった。俺がカナエをカインの隠れ家にまで入り込ませてしまった。カインは今や、丸裸だ。
「他のカインは……?」
「ん?」
悔しさと怒りをおさえこみ、俺はまっすぐに椎名をねめつける。
「他のカインはどうするつもりだ?」
「やっと自分の状況を分かってくれたみたいだね」椎名は切れ長の目を細め、にこりと微笑んだ。「さあ、本間代議士暗殺について話してくれる?」
「話を逸らすな! 他のカインに何かしたのか!?」
「君こそ、話を逸らさないでくれるかな? 僕が先に聞いたんだよ。本間代議士暗殺について」
まるで普段と変わらない。人を小馬鹿にした態度だ。
身体がわなわなと震えていた。気が狂いそうな苛立ちがこみあげる。きっと、椎名に対してだけではない。自分自身に腹が立って仕方なかった。
「答えることなんてない! 本間秀実の暗殺? そんな計画は無い。あいつの正体を知ったのはついさっきだ」
「おかしいね」椎名はわざとらしく小首を傾げた。「じゃあ、なんで本間代議士に近づいたの?」
「本間秀実に近づいたわけじゃない」
「カヤちゃんに近づいただけ……かい?」
その瞬間、椎名の目の色が変わった気がした。警戒して答えるのを逡巡していると、椎名は身を乗り出し、じっとこちらを覗き込んできた。
「カヤちゃんと君が『仲良し』なのは僕もよく分かっているよ」
いちいち癇に障る言い方をしやがる。挑発のつもりか?
「だから、なんだ?」
「カヤちゃんも君の正体を知っているのかな?」
「!」
嫌な予感がして、ざわっと背筋に悪寒が走った。
「カヤは何も知らない! 無関係だ!」
「君にそう言われてもね」椎名は蔑むような笑みを浮かべた。「テロリストと関係があったんだから、少なくとも事情聴取くらいはしないと」
「カヤは無関係だと言ってるだろ!」
「それは僕たちが彼女に直接聞くよ。彼女には正直に話してもらうさ。――どんな方法を使ってでもね」
「……やめろ」
どこかで分かっていた気がする。本間秀実が『黒幕』だと知ってから、うすうす感づいていた。こうして、カヤの名前が出てくることは……。
それでも、頼まずにはいられなかった。相手が誰であろうと、どんなに愚かな願いだと分かっていようと。
「カヤを巻き込まないでくれ」
放心状態でそうつぶやいていた。項垂れ、神に祈りを捧げるかのように。
頼む、と力強く言って顔を上げると、椎名はそんな俺を同情するような眼差しで見つめていた。ふっとため息を漏らしたかと思うと、余裕たっぷりの嘲笑を浮かべ、
「巻き込まないわけないでしょう。彼女は君の『弱み』なんだから」
* * *
和幸は呆然と椎名を見つめていた。希望を見いだせない目は光を失い、ぽかんと開いた口からはもはや言葉も出ない。頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。ただ、唯一、はっきりしていたのは、本間と共に学校に残ったカヤは安全だと――そう判断した自分は甘かったということだ。カヤは保護されているのではない。人質に取られただけだ。
胸が押し潰されるような息苦しさを感じて、和幸は顔をこわばらせた。自分のせいで家族は危険にさらされ、恋人が人質に取られている。その事実が、尋常でないストレスとなって襲いかかっていた。
「早速、戦意喪失かい? 効き目抜群だね」くすりと椎名は笑って、和幸を指差した。「今朝の件で確信が持てたよ。カヤちゃんのためなら君はなんでもする、てね」
今朝の件……例のイタズラのことだろう。椎名はカヤを襲うふりをして、和幸をけしかけた。あれはこのための実験だったということか。
ぐっと首が絞められる感覚が蘇る。今朝から、ずっと残っている痛みだ。
「どうだい? 話してくれる気になった?」
「……なんでだ?」
ぽつりと和幸はつぶやいた。
「は?」と、椎名は不敵な笑みを浮かべたまま、小首を傾げる。「なにがだい?」
「なんで……なんで、そっち側にいる?」
椎名はきょとんとして目を丸くした。
「お前も俺たちと同じなんだろ?」
椎名だけではない。和幸もまた、今朝の事件で確信を得ていたことがあった。
ずっと目の敵にしてきた恋人のボディガード、椎名望。その尋常でない握力。『手加減』なしでも壊れない肉体。導かれる答えは一つしかなかった。
「お前も、俺たちと同じ……『創られた』人間なんだろ!?」
椎名の返事を待つ必要はなかった。椎名がクローン――それも和幸と同じく商業用のクローンだということは、今朝の件で明白だった。
だが、だからこそ、聞きたいことがあった。和幸には分からないことがあった。棘のように心に刺さっている違和感を抜きたくて仕方なかった。
「なんで……」と困惑を顔に張りつけ、和幸は救いを求めるように椎名に訊ねた。「なんで本間秀実が『黒幕』だと知っていて、まだ従っているんだ!? 俺たちクローンがどんな扱いを受けてきたか、その原因は誰か、分かってないわけじゃないんだろ!?」
狭い部屋の中で、和幸の声が反響した。それは怒号というよりも、悲痛な叫びに近かった。
椎名は涼しげな表情でそんな和幸を見つめていたが、やがてククッと肩を揺らして笑い出した。
「子供だねぇ」と残酷にも思えるほど冷めた笑みを和幸に向ける。「自分たちが正しいと信じて疑わないか。君たちは『かわいそう』な被害者。それをいじめる奴らは皆、悪者かい? そんな悪者と、僕が一緒にいるのが不思議なわけだ。僕も『かわいそう』なクローンの一人なのに」
「何を言って……」
「自分は正義の味方かなにかだとでも思ってる? 君たちは『かわいそう』だから何をしても赦されるとでも思ってる?」
「何が言いたい!?」
「君たちカインはただの子供だ」椎名は急に真顔になって、ぴしゃりと言った。「気に入らないものが赦せない、現実と向き合えない、わがままな子供だ」
「……違う」
「何が違う? クローンだという事実に甘え、好き勝手に命を奪ってきた。君たちはただの幼稚な犯罪者だ」
「違う! 俺たちは表の世界に見捨てられた人間を助けてきただけだ!」
「助けてほしい、と言われたのかい?」
「……は?」
「一度でも、助けてほしい、と頼まれたことがあったのかい?」
思わぬ問いに、和幸は絶句した。なぜ、そんなことを聞かれたのかさえ理解できなかった。
「助けてきた、と君は言うけど……それは、君たちが勝手に判断し、実行してきたことじゃないのか?」
「それは……」
和幸は言葉に詰まった。
『盗まれた』子供の場合は、その両親からの依頼があっての『おつかい』だったが……『創られた』子供、すなわちクローンの子供の場合は、誰から依頼があるわけでもない。三神の情報をもとに、藤本からの『おつかい』を受けて、『迎え』に行っていただけだ。別に、子供たちから頼まれたわけではない。
その点では、椎名の言い分は正しいだろう。確かに、カインが自分たちで勝手にしていたことだ。
「助けなんて必要なかった子供もいたかもしれない」と椎名は食い入るように和幸を見つめて続ける。「君たちは勝手な『正義』で他人の意志をねじ曲げ、彼らの人生を奪ってきた。その犠牲になって失われた幸せだってあったはずだ。そんな考えはちらりともよぎらなかったのか?」
「……」
和幸は押し黙った。
そうかもしれない、と心の中でぽつりとつぶやく。カインのしてきたことは、ただの自己満足だったのかもしれない。『正義』の押しつけだったのかもしれない。『迎え』に行ったことで、余計につらい人生を歩むことになってしまった子供たちもいたのかもしれない。
それでも……と、和幸は眼球に痛みが走るほどに椎名を睨みつけた。
「俺は助けてもらえてよかったと思っている」
意外な返しだったのか、椎名は目を瞬かせた。
和幸は堪えるように眉根を寄せた。
思い浮かぶのは、恩人の顔だった。闇オークションで売られようとしている自分のもとに突然現れ、外に連れ出してくれた少年。カインと名乗った彼は、家と名前、そして家族をくれた。
広幸という名の、最初の『兄』だった。
いつも明るく振るまい、己の最期を前にしても落ち込むところを見せなかった彼が、一度だけ、切なそうな表情を見せたことがあった。それは小学生のころ、フォークダンスで力が『漏れて』ケガをさせてしまった同級生の家を訪ねたときだ。その夜、広幸はどこか哀しく苦しげに、和幸に何かを言いかけた。
――表の世界は、俺たちには暮らしづらいところだ。たくさん嘘をついて、たくさん我慢しなきゃならない。理不尽なことばかりだ。でも、いいところなんだ。そのうち、そう思える日がくる。じゃなきゃ、俺は……。
あのとき、広幸が何を言おうとしていたのか、和幸は今になってようやく分かった気がした。あのときの広幸の気持ち。何を思っていたのか。どうしてあんなにも不安そうだったのか。
和幸はこみ上げてくるものを必死に押さえ込んでいた。こんなときに、広幸が恋しくてたまらなくなった。
「俺は……」と和幸はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに椎名を見つめた。「俺は感謝してる。俺を助けてくれた『カイン』に。この世界に連れ出してくれたことを感謝してる。だから……」
「だから、同じように子供をさらえばいいと思ったのかい?」
椎名の端整な顔立ちは冷たく微笑んでいた。
「人は違うんだ、藤本くん。君が正しいと思ったからといって、それが正しいとは限らない」
「それでも……!」と和幸は声を張り上げ、机に両手を叩き付けた。「本当に助けが必要な子供がいたらどうする!? 助けを待っている子供がいるかもしれない! 正しいかどうか分からないからって、見て見ぬフリしろ、て言うのか!?」
机に置いた手が震えていた。怒りというよりも、悔しさと憤りからだった。
和幸は、自分がカインの中でもまだ運が良かったほうだと知っていた。売られる前に広幸が『迎え』に来てくれたからだ。生まれてから売られるまでの五年間、人体実験や肉体改造で脳や身体を散々いじられたが、大事な競売品ということで大切にされていた。
だが、多くのカインは違う。売られてからカインに助け出された者は、地獄のような悲惨な日々を経験している。身体中にまだ傷が残っている者もいる。心に残った痛みを必死に隠そうとしている者もいる。
和幸の幼馴染である曽良もその一人だ。本人からは聞いたことはないが、二年もの間、狂った『親子ごっこ』をさせられていたと噂に聞いた。光矢という名のカインが『迎え』に行ったときには、すっかり衰弱し、殺される一歩手前だったという。
カインがいなければ、曽良は死んでいた。自分も、あのまま売られていたらどうなっていたか分かったものではない。それなのに、どうしてカインがしてきたことが間違ってたなんて言えるだろうか。
和幸は悔しさに顔を歪め、涼しげな椎名の顔をキッとねめつけた。
「俺たちだって不安なんだ。『迎え』に行った子供が幸せになるかどうか……いつだって不安なんだ! それでも、何かしなきゃいけないだろ。
どこかで苦しんでる子供がいる――俺たちはそれを知ってる。なのに、黙ってろっていうのか!? それなら、誰かに恨まれてでも、正しいと思うことを……自分にできることをしたいと思うだろ!」
いつもの人を小馬鹿にした笑みを消し、椎名はどこか残念そうに和幸を見つめていた。
「君を見ていると昔の自分を思い出すよ。情熱的で真っ直ぐで……目の前で苦しむ人を助ければ、世界を救えると思っている」
恐ろしいほどに静まりかえった部屋に、椎名の淡々とした声が流れる。
挑発的とも思えたこれまでの態度とは打って変わって、やけに落ち着いた椎名の雰囲気に和幸は訝しそうに顔をしかめた。
「でもね」と椎名は憐れむような視線を和幸に向けた。「大人の世界はそこまで単純じゃないんだ」
蔑むような言い方ではなかった。諦めきっているような……そんな声色だ。
脆弱ささえ感じさせる椎名の様子に、和幸は調子が狂って言い返す気が起きなかった。
「正直、君たちを憎む気持ちはもう無い。それよりも、同情している。君たちをクローンではなく、普通の『子供』として扱い、間違ったことを指摘してくれる大人が周りにいなかったことを」
「同情……!?」
ふざけるな、と言いかけた和幸を、椎名の冷静な声が遮った。
「さっき、君は言ったね。クローンがどんな扱いを受けてきたか、その原因が誰か、僕は知っているはずだ、と」
「それがなんだ?」
「僕はちゃんと知ってるよ。一部のクローンが幼いうちから殺し屋として使われていること。その原因が誰かも」
和幸はハッとして目を見開いた。
脳裏をよぎったのは、初老の男だ。綿のような白い眉に、年々薄くなっていく髪。笑みを浮かべると、深い皺が刻まれる目尻。しかし、その瞳はいつでも闘志がみなぎり、歳を感じさせなかった。
彼こそ、存在の証明のない自分たちへ、救いの手を差し伸べてくれた人物。赤の他人である自分たちを、実の子供のように育ててくれた。カインにとって神であり、父であり、唯一無二の理解者、藤本マサルだ。
「そんなんじゃない!」と慌てた様子で和幸は声を荒らげた。「俺たちは使われていたわけじゃない! 俺たちは自分から進んで……」
「子供が自ら進んで『殺し屋』になる――そんなことが起こりうる状況自体が問題なんだよ」
「……」
椎名の話がどこへ向かっているのか皆目見当つかず、和幸は途方に暮れたように呆然とした。
「この世界は狂っている」椎名は切れ長の目を薄め、重々しく口火を切った。「そして、僕たちクローンこそ、その証だ。僕たちが存在する限り、この世界は治らない」
だから……と、椎名はおもむろに内ポケットから携帯電話を取り出した。
「だから、君に協力してもらいたい。『先生』のもと、より良い世界を創るために」
椎名が机に置いたその携帯電話に、和幸の目は釘付けになった。サブディスプレイの下に貼られたプリクラ。そこには見覚えのある二人の少女が映っていた。去年亡くなった寧々というカインと、その妹分の少女だ。
誰の携帯電話かは聞かずとも分かった。
和幸は気が遠のくのを感じた。ぞっとして顔色が一瞬で青くなった。呼吸が乱れ、胃液が逆流してくるような吐き気を覚えた。
絶望が現実の形を成して押し寄せてくる。
「茶々……」
弱々しくこぼれたその声が自分のものだとは思えなかった。