茶番の終わり
ようやく捲かれていた布がはずされ、瞼に光が当たるのを感じた。ゆっくりと目を開くと、そこは四方を真っ白な壁に囲まれた窓も無い狭い部屋だった。真ん中には、机と向かい合うイスが一組。
取調室……だろうか。ここは警察署か? それにしては、やたら静かだ。
移動中はずっと目隠しをされ、自分がどこに連れて行かれているのか把握できなかった。車の走行時間からある程度の場所は予測できるが、やたらと右折や左折を繰り返していたから、大して当てにもならないだろう。尾行を警戒したのか、俺が距離を測っているのを勘づいていたのか。
立派な犯罪者扱いだな。
俺はジャラリと手錠を鳴らして両手を挙げた。
「これは取ってくれないんですか?」
ちらりと背後に視線をやると、あの死神のような縁起悪い顔をした男が鼻で笑った。
「調子に乗るな。そこに座れ」
愛想笑いで返し、俺は大人しく男の指示に従ってイスに座った。
一般の高校生――その体を貫き通す。今、俺にできることはそれしかない。あとは本間先生を信じるだけだ。
――わたしを信じて、君は大人しくしているんだ。余計なことはしゃべらなくていい。弁護士が来るまで、黙っていなさい。
あの言葉にすがるしか、俺が日向で生き残る方法はない。
「さて」男は億劫そうに俺の向かいのイスに腰を下ろした。妖しく目を光らせながら、俺をじっと見つめてくる。「カインのことを話してもらおうか、藤本和幸くん」
「バカバカしい。カインなんて本気にしてんのかよ、おっさん」
背もたれによりかかり興味なさそうにそっぽを向く。わざとふてくされた態度をとった。
「あれはただの都市伝説。話題になってるから乗っかっただけだ。俺の作り話だよ」
「さっきも言ったがね、カインは実在している」
心臓が大きく鼓動を打った。思わず、男に振り返りそうになるのを必死にこらえた。
なぜ、ここまで確信を持って言える? なぜ、警察がここまではっきり俺たちの存在を認めるんだ?
何かが大きく狂い始めていることを感じながらも、俺はとにかく平静を装った。
「テロ組織なんだっけ? 正直、どうでもいいよ。俺には関係ない」
「関係ない……ね」
男はなにか含んだ言い方でつぶやいた。
男をちらりと見やると、すました表情を浮かべ、大きな黒目で食い入るようにこちらを見つめていた。魂が吸い取られるような気味の悪さを感じた。殺気とはまた違う不快な敵意……いや、好奇心に近いもの。
こいつ、なんなんだ? 何が目的なんだ? カインに何の用がある?
締め上げて問いつめてやりたい。だが、そんなことをしても不利になるだけだ。日向の世界では、それじゃなんの解決にもならない。
悔しさとやりきれなさがこみあげて、手錠に捕らえられている両手に力が入った。
「カインはそう……テロ組織だ」ややあってから、男は穏やかな口調で口火を切った。「反政府運動を行う危険因子でね。そういった輩を英雄化して民衆を煽るようなことは、現行の新治安維持法で禁止されているんだよ」
「新治安維持法……」
そういえば、体育館でもその名前を聞いたな。
「なんなんだ、それ? その法律が原因で、俺はこうして捕まったのか?」
すると、男はぷっと噴き出し、くつくつと薄気味悪く笑い出した。
「無知とは恐ろしいね。自分の国が何をしているのか知らないとは。いや、関心がないのかな。それが、身を滅ぼすとも知らずに……」
やがて男の口許から笑みが消え、あの不吉な黒目がじっと俺を見つめてきた。
「気付いたときには雁字搦め。君は国に住んでいるんじゃない。国に食われているだけ」
「……」
じっとりとした汗が背筋を伝っていった。ぞっと寒気がした。
いつのまにか見えない蜘蛛の糸に絡めとられてしまったかのような、そんな不安に襲われた。
「おや」と男が眉を上げたのは、ノックが聞こえたときだった。「来たようだね」
来た?
眉をひそめると、男はわざとらしく呆れたように苦笑した。
「君の弁護士だよ」
本間先生が用意してくれると言っていた弁護士か。予想以上に早い。さすが、というか……。
驚きとともにとりあえず安堵しつつ、男の背後でゆっくりと開いていく扉に目をやった。
そして――。
「どうも。無事かい、藤本くん?」
姿を現した『弁護士』に、俺は思わず立ち上がっていた。
いけ好かないすました笑み。何か企んでいるような切れ長の目。さらりと肩まで伸ばした黒髪。一見遊び人のような印象の、すらりとした長身の男だ。
「椎名……!?」
椎名望——本間先生の部下。カヤのボディガードだった男。
ぐっと喉が詰まるような息苦しさがよみがえる。
「なんで……お前が……」
「先生に頼まれたんだ。君の弁護をするようにね」
「弁護って……」
相変わらず飄々とした態度で部屋に入ってくると、椎名は机に手をつき、座っている男に微笑みかけた。
「ご苦労さまでした、蟹江さん。あとは僕に任せてください」
男――蟹江というらしい――は、すんなりと腰を上げ、「ご苦労さん」と椎名に声をかけて部屋を出て行った。
まるで前からお互いを知っていたかのような親しげな態度。どうなってんだ? 本間先生は蟹江を知らない様子だったのに……。部下である椎名が知っていて、本間先生は知らないなんてことあるのか?
いや、そもそも……椎名が弁護士?
状況が理解できずに呆然と突っ立っていると、椎名はイスに腰を下ろしながら暢気に微笑みかけてきた。
「とりあえず、座って。藤本くん」
「……」
頭の中が混乱して、心臓がぱにくってる。大人しく座れるわけもない。
そんな様子の俺に「仕方ないね」と苦笑し、椎名はジャケットのポケットから何かを取り出した。
「君には、反政府活動への関与の嫌疑がかけられている」
淡々と語りながら、椎名は取り出した銀色の機械を机に置いた。手のひらに収まる程度の長方形のポータブルオーディオだ。会話を録音する気か?
「ここ十数年、政府の高官や各界の権力者が殺されててね。どうやら、カインと名乗るテロリストの仕業らしい。——で、君は、そのカインと通じているんじゃないか、と疑われている」
政府の高官や各界の権力者の暗殺……か。人身売買に絡んでいる奴らの中には、そういう連中も多い。子供を助ける過程でカインが手にかけている場合もあるだろう。それをテロだ、と言われれば……確かに、俺たちはテロリストになるのかもしれない。
だが、俺たちをテロリストとして表で裁けば、人身売買も明るみに出る。そいつらの悪行も芋づる式に引っぱり出されるってことだ。それを恐れて、今まで俺たちを野放しにしていたんじゃないのか。
どうなってるんだ?
ぐっと拳を握りしめ、頭に血が回るように深く息を吸った。
「俺は無実だ」
とにかく、今は自分のことだ。カインには親父がついてる。なんとかしてくれるはずだ。
俺は力強く椎名を見つめた。
「俺はカインとは無関係だ。反政府活動に加担した覚えもない。俺はただ学園祭の演劇でカインを取り上げただけだ」
「そう」
必死に訴えている俺を馬鹿にするかのように、椎名は軽く流すのみ。
「お前、俺の弁護士として来てるんだろ!?」つい熱くなって、机に手を置き、怒鳴りつけていた。「ちゃんと、真面目に……」
すると椎名はポータブルオーディオに手を伸ばし、ボタンを押した。
「いきなり、録音――」
『あなた、誰なの?』
唐突に怯えた少女の声がして、俺は思わず目を見開いた。
雑音がひどい。盗聴か。
俺は訝しげにポータブルオーディオに視線を落とした。
胸の奥がざわめいていた。嫌な予感がしていた。そこから流れてきた声に、聞き覚えがあったからだ。
そして……。
『俺は、和幸』
心臓が大きく波打った。
『かずゆき……』とノイズに混じって少女の声が続く。
『君を迎えに来たんだ』
頭の中で鮮やかに状況が浮かび上がる。
身体中に痣をつくった華奢な色白の少女。蝋人形のように、今にも溶けて消えてしまいそうな儚い美しさを持った少女だった。灰色混じりの翠色の瞳でこちらをじっと見つめ、彼女は首もとに光る青いペンダントに触れながら聞き返してきた。
『迎え……?』
だから、俺は答えた……。
『俺は……』
答えたんだ。カナエに……。
『俺は、カインだ』
見つめる先で、椎名の指がポータブルオーディオの停止ボタンを押した。
俺は何も考えられず、呆然とした。
「参ったな」ふいに、椎名が演技がかった口調で言った。「自白しちゃったら、弁護はできないよ」
愕然として顔を上げると、椎名の勝ち誇った笑みがあった。
「妹がお世話になったね」
椎名は頬杖をつき、くすりと笑った。
「妹って……」
「椎名鼎」軽く言って、椎名はポータブルオーディオをポケットにしまった。「似てない、とか野暮なことを言わないでよ。血はつながってないんだ」
「カナエが……お前の妹……? なんで……」
「それにしても……なかなか便利な世の中になったよね。あんな小さなネックレスで盗聴ができるんだから」
「!」
脳裏をよぎったのは、小さなペンダント。カナエの胸元で海のような蒼い光を放っていた。
俺は呼吸を続けるのがやっとだった。身体の芯から苦しいほどの熱がこみあげてくる。
カナエが椎名の妹で……会話を盗聴していた? どういうことだ? カナエはオークションで売られるところだったんじゃないのか?
全部、嘘だったのか? カナエは……椎名の妹は競売品のふりをして俺の前に現れた?
なぜ?
俺に近づくため? 俺の『自白』を録るために? 俺がカインだと知ってて……?
――オークションにおいでよ、藤本くん。
心臓に杭を打たれたような衝撃がした。
まさか……はめられていたのか? あのときから?
でも、なんでだ? なんで椎名が俺を罠にはめる? こいつはただの本間先生のボディガードだろ。カインに関っても得はないはずだ。
それに……第一、こいつは俺たちと同じ――。
「ごめんね、藤本くん」憫笑のようなものを浮かべ、椎名は俺の顔を覗きこんできた。「ぜーんぶ、茶番だったんだよ」
「茶番……?」
すると、椎名は身を乗り出し、そっと小声で囁いた。おもしろがるような表情で……。
「本間秀実……あの人が、裏のトーキョーを仕切っている黒幕。人身売買を斡旋している張本人。君たちの敵さ」
頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。
「君の恋人は、『黒幕の娘』だったんだよ。残念でした」