日常と友情の終わり -上-
「おい、藤本。藤本曽良!」
補修も終わりに近づいたときだった。くたびれたスーツを着た初老の教員が怒鳴った。
ウトウトと夢の世界に逃げようとしていた曽良は、はっと意識を取り戻して顔を上げた。
相変わらず秩序のかけらもない教室で、教師は教壇の上からちょいちょいと手招きしていた。
「警察がお前に話があるそうだ」
「警察……?」
思わぬ単語に眠気もすっとび、曽良は茶色い瞳を見開いた。
教師はちらりと教室の入り口へ視線をずらす。つられるようにそちらに目をやれば、確かに三人ほどのがたいのいい男たちが立っている。スーツ姿で、揃って不景気な顔をしている。
警察が自分に用がある?
自然と曽良の顔つきは険しくなった。ぞわっと胸の奥でどす黒い煙がとぐろをまくのを感じた。
『警察』という響きは、それまで騒いでいた不良たちをも黙らせた。教室はめずらしく静まり返り、不良たちの視線は曽良へと向けられていた。
曽良は気を鎮めるために、深く息をついた。
「なんですか?」
惚けた声で答え、面倒そうに立ち上がる。
まさか。考え過ぎだ。——曽良は自分にそう言い聞かせ、高まった緊張を抑える。
カインは裏で生きる存在。表の番人である警察が関わってくるはずはない。表と裏は交じり合ってはならない——それは、暗黙の了解。決して崩れることのない、トーキョーの仕組み。それを破れば、この社会のバランスが崩れることは目に見えている。
表は表。裏は裏。決して交錯することのない、パラレルワールドのようなもの。
カインが警察には手を出さないように、警察もカインを探ることはない。そのはずだ。
そもそも、警察がカインと関わることは、カインの存在を表に知らしめることになる。それは誰も望まない。カインが敵対する連中もだ。カインを表に引っ張り出せば、自ずと彼らの悪行も明るみに出されることになるのだから。
心配そうに見つめる隣の席の友人——鈴木に微笑みかけ、曽良は男たちのほうへと歩み寄っていった。
「悪いね」と男が教室に足を踏み入れ、口火を切った。「夕べ、この辺りで起きた暴力事件で、目撃者に君の名前があがっている。話を聞きたい」
曽良は肩の力を抜いた。だよな、と心の中でつぶやいた。
事情聴取のために生徒が呼び出されることは、この高校ではよくあることだった。その証拠に、いつものことか、と言わんばかりに不良たちの興味はそがれ、また騒ぎ出した。
教壇までたどり着くと、教師が「おい」と不機嫌そうに声をかけてきた。
「長引くだろうから、これは返しておく」
渡されたのは、さっき取り上げられた携帯電話だった。
「すみません」
反省の色もなく、にこりと微笑み、曽良は携帯電話を受け取った。
まったく、と教師は舌打ちのようなものをして、不良たちに向き直った。
その背後を通り過ぎようというとき、ポケットにしまおうとした携帯電話が突然震え、思わず手を滑らせた。あ、と思ったときには、足下に転がった携帯電話がそのはずみでパカッと開いて——。
『助けて、兄さん!』
「!?」
ハッと息をのんだ。
たった一瞬だった。すぐに電話は切れたようだった。
しかし、はっきりと耳にした。騒がしい教室の中でわずかに漏れ聞こえた悲鳴を、曽良の聴覚はしっかりと拾い取っていた。
間違いない。茶々だった。
ドクン、と鼓動が不気味に響いた。
すぐにもかけ直したい衝動を封じ込め、何事も無かったかのように、曽良は落ちた携帯電話を拾い上げた。
閉じる前に、ちらりと画面を確認した。
——不在着信、一三六件。着信メール、七二件。
異常だ。
すぐにポケットにつっこみ、呼吸を整える。騒ぎ出しそうな心臓を必死に落ち着かせていた。
視線を前に戻せば、三人の男たちが口許だけ愛想良く微笑み、鋭い視線を曽良に向けていた。
こちらの動揺を悟られてはいけない。——曽良はアヒル口にいつもの暢気な笑みをつくった。
「荷物も一緒に持って行っていいですか? 長引いたら、そのまま帰りたいんで」
え、と男たちはあっけに取られたようだった。
曽良は返事も持たずに踵を返した。
「おい、君。すぐに済む」
「荷物は置いていきなさい」
口々に男たちは曽良を止めんと声を上げた。
足音が一つついてくる。
追いつかれる前に、と曽良は足早に自分の席へと戻った。
「ふ、藤本くん?」
表情を取り繕う余裕はなかった。さすがに顔に出ていたのだろう、鈴木が不安そうに声をかけてきた。
振り返って、逃げろ、と言いたかった。巻き込みたくはなかった。
「藤本曽良! 荷物はいいから、すぐに……」
その野太い声はすぐ後ろに迫っていた。
曽良は鞄を手に取り、くるりと振り返る。
警察だという男は、腕を伸ばせば触れられるところまで近づいていた。
柔道でもやっているのか、がっしりと迫力のある体つきだ。全部開けているスーツのボタンは、果たしてちゃんと閉められるのか疑問に思うほど。目つきは悪く、おまけにオールバックで、警察とは到底思えない容姿だ。
曽良がおもむろに鞄の中へと手を忍ばせると、男の顔がこわばり、緊張が見て取れた。
「何をする気だ?」
脅すような声色は、決してただの目撃者へ向けるものではなかった。
曽良はあえて何も答えなかった。ただじっと男を見据えていた。わざと敵意をむき出しにした眼差しで。
目当てのものの感触を手で感じ取ると、曽良はふっと笑みを浮かべた。
男はぴくりと眉を動かし、とっさに後退った。
合図するかのように短く息を吐き、曽良は鞄の中から勢いよく『それ』を抜き取った。その動きを瞬時に察して、男は「くそ!」と悪態づいてスーツの内側から銃を取り出し、曽良へと向けた。
「!」
教室にどよめきが起きた。
そりゃそうだろう。同級生が警察に銃を向けられているのだから。ただ、鞄から鍵を取り出しただけなのに——。
曽良は目を丸くし、驚いた風をよそおった。
「なんですか、急に!? ただの自転車の鍵ですよ」
鍵を右手に残し、鞄をどさっと足下に落とした。
男は、しまった、と言わんばかりに顔を歪めた。しかし、動揺しているのは表情だけだ。銃はぴたりと曽良を捉えて離さない。
ただの高校生への態度とは思えない。
曽良はぎゅっと鍵を握る手に力を込めた。——しっぽは出した。あとは捕まえればいいだけだ。
「先生!」と教壇の上で啞然としている教師に振り返る。「なんか、撃たれそうなんですけど」
鍵を持つ手で、自分に向けられている銃を指差した。
教師は思い出したように顔を引き締め、足を踏み出した。
「これはどういうことなんですか?」
いくら問題児や警察ざたに慣れているといっても、教室で銃を出されては黙っているわけにもいかないだろう。教師は眉間に深い皺を刻んで、こちらに勇ましい足取りで近寄ってくる。ここは譲らんぞ、という気合いが伝わってくる。
曽良はちらりと男へ視線をずらした。——事実かどうかは別として、警察を名乗って訪れた以上、教師を無視するわけにもいかないはずだ。
すると、思惑通り、男は苦渋の色を浮かべつつ、「これは……」と教師に振り返った。
一瞬、銃口がぶれた。
男の注意がはっきりとそれたその瞬間を、曽良は見逃さなかった。
素早く銃を持つ男の手首を取り、銃口を床へと向けさせると、息をもつかせぬ素早さで持っていた鍵を男の首筋を目がけて突き刺した。
抵抗……いや、疑問も持たせぬ勢いだった。自分に何が起きたのかも、男は理解できなかっただろう。
力が抜けた男の手から銃を抜き取りつつ、曽良は突き刺した鍵に力を込めた。
「ヤハウェのご加護を」
静かに祈りの文句をつぶやき、曽良は男の首を一気に掻き切った。