粛清のはじまり -4-
和幸は言葉を失った。
死神に似た男が何を言ったか、すぐには理解できなかった。いや、理解できるはずもない。警察を名乗る人物がカインの存在を肯定するなど、あってはならないことなのだから。
「カインは都市伝説ではありません。反政府活動を行っているテロ組織。巷で噂されている話はそのカモフラージュにすぎません」
体育館が水を打ったように静まり返った。やがて、ひとたび引いた大海の潮が戻ってくるようにどっとざわめきが沸き起こる。
「テロ組織?」
「カインが?」
「マジかよ? 本当にいんの?」
「都市伝説じゃなかったのかよ」
困惑と好奇の声が飛び交う中、和幸は今にも気を失いそうだった。嫌な夢を見ているようだった。現実とは思えなかった。
あり得ない、と何度も頭の中で繰り返していた。
警察がカインの存在を認めた? それも、テロ組織?
無意識に、和幸は小さく顔を横に振っていた。
だめだ、と心の中で叫ぶ。何かが大きく崩れ去っていくのを確かに感じていた。助けさえも呼べないスピードで足場が崩れて行く――。
カヤの視線を感じたが、反応することもできなかった。大丈夫、なんて嘘でも言える余裕はない。
「そんな話、わたしは聞いていないぞ」
緊張を顔に張り付ける和幸をよそに、本間はまるで本気にしていないような毅然とした態度で死神を睨みつけた。
「まだ報告していませんでしたから」まるで用意していたかのように、死神はさらりと返す。「この劇の調査が終わってから報告する予定でしたので」
「気に食わんな。わたしに楯突く気か」
「人聞きの悪いことをおっしゃる。あとで根掘り葉掘り報告するつもりでしたって」
死神はくいっと小首を傾げてみせた。ふん、と本間は鼻を鳴らし、死神を値踏みするような眼差しで睨みつけた。
二人が無言の駆け引きをする傍らで、和幸はようやく冷静さを取り戻し、状況の分析を始めていた。打開策を練るために……。
警察がカインをテロ組織と公言した。あり得ないことだが、戸惑っている場合でもない。その事実をもう受け入れるしか無いだろう。その上で、自分がどうするかを考えなければならない。
本気になれば、死神や他の連中を一瞬のうちで蹴散らし、カヤを連れてここから逃げることも可能だ。そう、『本気』になれば……。
しかし、その行為は『自白』そのものである。警察をなぎ倒し、国務大臣の娘をさらう――テロリストそのものだ。
ここで逃げれば……自分がカインだということを認め、さらに『カインはテロリスト』という死神の証言を証拠づけることになってしまう。
そうなれば、自分だけでなく、カインの皆もただでは済まないだろう。
『無垢な殺し屋』と呼ばれながらも無事でいられたのは、表と裏の境界線が守ってくれていたから。表のやり方――『正義』や『法律』と呼ばれるもの――が届かない裏の世界で存在していたから。そこでのルールは、生きるか死ぬか、それだけだったから。
もし……と、和幸は表情を曇らせた。
もし、万が一――カインが表の世界で『テロリスト』というレッテルを貼られれば、もうその境界線は守ってはくれない。カインは日向に引っ張りだされ、表のルールに縛られることになる。警察は境界線を恐れることもなく、堂々とカインに『正義』を下せる、ということだ。
――俺が『殺し屋』なのは……ただ偶然、家族を脅かす存在が人間だったから。家族の脅威は全て取り除く。俺がしているのはそれだけだよ。
そうだ……と、和幸はいたたまれない悔しさに奥歯を噛み締めた。
カインは裏のやり方しか知らない。悪事を働くのも、大切なものを守るのも、裏の世界での手段なんて一つしか無かった。『殺し』しかなかった。だから、『無垢な殺し屋』になったのだ。
だが、そんなことを表の世界で訴えたところで、誰が聞き入れる?
『殺し』という解決法しか知らないカインに、『正義』に守られた世界で何ができる?
警察に追われれば、『無垢な殺し屋』に抵抗する術はない。――カインは終わる。
くそ、と和幸は心の中で悪態づいた。
なぜ、カインがテロ組織だ、なんて話が出てきたのかは理解できないが……とりあえず、自分がここで出来るのはそんな戯言を肯定するような行動を取らないことだけだ。
逃げるわけにはいかない。
どうにか……表のやり方で、この場をしのぐしかない。
でも、どうやって?
「安心しなさい、和幸くん」
「!」
まるで和幸の心中を察しているかのような穏やかな声がした。
和幸は我に返ってその声の主を見つめた。勝ち誇ったような笑みを浮かべる初老の男を……。
「わたしを誰だと思ってるんだ?」
闇に沈んだ心にふっと小さな光が灯るのを感じた。
とんでもない『武器』を見落としていたことに気づいて、和幸は目を見張った。
カインと縁を切り、表で『藤本和幸』としての生活を始め、そして出会った表の権力者。正真正銘、『ただの高校生』としての和幸しか知らない人間。――カヤの養父、国家公安委員会委員長、本間秀実。
こんな打算的な考え方をするのは好まないが……娘の恋人が反政府活動に携わったなんて、おそらく彼も望んではいないだろう。
カヤを利用するようで良心が痛む。だが、背に腹は変えられない。
この状況で自分ができることは、しらばっくれることだけ。つまり、『面白半分でカインを脚色した劇を企画した高校生』を演じきるしかない。
そして――。
「わたしがなんとかしよう。わたしの言う通りにしていれば大丈夫だ」
悪魔の甘い囁きにも聞こえたその言葉を、信じるしかないと思った。