粛清のはじまり -3-
本間……先生?
思わぬ人物の介入に、俺は呆然としてしまった。俺を囲む男たちも戸惑いを隠せないようだ。
「国家公安委員会委員長……本間委員長?」俺の腕をつかむ死神がぽつりとつぶやいた。「これはこれは……驚きましたね。こんなところでお会いするとは」
「白々しい挨拶はいい」本間先生は苛立ちもあらわにため息を漏らして歩み寄ってきた。「いったい、何事なんだね? 高校生を犯罪者のように連行するとは……」
眼鏡の奥の鋭い眼光が、今にも俺を地獄に引きずり込まんとする死神の手へ向けられた。
「放してやりなさい」
たった一言。それだけで、死神はあっさりと俺の腕を放した。あまりにあっけなくて、違和感さえ覚えるほどに……。
「大丈夫かい、和幸くん?」
眼差しだけは鋭さを残し、本間先生は四角い顔をほころばせた。
俺は「はあ」と生返事をする。
状況がまるで飲み込めていなかった。当然だ。まさか救いの手があろうとは、思いもしていなかったんだから。
俺は元裏世界の殺し屋。存在の証明もないクローン。頼れるものも権力も武器さえもない俺は、表の世界では裸の赤ん坊同然。もはや大人しく従うしかないのだ、と思っていた。この先、何があろうと俺は受け入れるしかない、と覚悟していた。表の世界に俺を守ってくれる人なんていない……はずだったから。
「和幸くん!」
体育館のざわめきを切り裂くような声が響いた。
ぎょっと振り返ると、カヤがステージ横の階段を勢いよく降りてくるところだった。
「カヤ……」
整った顔立ちが苦悩に歪んでいた。
なり振り構わず――そんな勢いで駆け寄ってくる彼女を迎えようと身を翻した俺の前に、若い男が立ちはだかった。
「君、大人しくステージの上で……」
叱るように言い、おそらくカヤを押し返そうとしている男に、本間先生が「ああ、君」と軽い調子で声をかける。
「彼女はわたしの娘だ。丁重に扱うようにね」
「は……」カヤを引き止めた男が間抜け面をこちらに向けた。「いや、しかし……」
「聞こえなかったかな? その子はわたしの娘だ、と言ったんだよ」
脅すような本間先生の言葉も、男にはピンとこないようだった。娘がなんだ、これは任務だ、と言いたげだ。そんな部下に俺の隣で死神がため息を漏らす。
「構わない。彼女を通してやれ」
「そういうわけには……」と食い下がる若い男に、死神は首を横に振った。
若い男は納得いかない様子だったが、しぶしぶ身を引き、カヤに道を譲った。
男の影から姿を現したカヤは、俺の姿をその澄んだ瞳に映すと、ほっと安堵したように唇をゆるめた。
白いワンピースをふわりとなびかせ、頼りない足取りで俺に駆け寄ると、カヤは倒れ掛かるように俺に抱きついた。
この細い腕のどこにそんな力が? そう疑問に思ってしまうほど、力強く抱きしめてくる。
アンリで手一杯で、そういえばカヤのフォローは充分にできてなかったか。
「カヤ。心配すんな。俺は大丈……」
「行かないで」
溜め込んでいたものを吐き出すように、苦しげに、しかしはっきりと彼女はつぶやいた。
「行っちゃダメ。行かないで。お願い」
懇願するというよりも、説得するような力強い口調だった。
そんな彼女の背を撫でて、ふいに脳裏に浮かんだのは夕べの出来事。オークションでカナエを『迎え』に行こうとする俺を、カヤは必死に引き止めたんだ。すがるように、行かないで、と訴えた。
そう……か。
すっと肩から力が抜けて、罪悪感がじわりとこみ上げてきた。俺にしがみつく彼女の姿に、傷を抉られるようだった。
今更ながらに気づかされた。夕べ、どれほど彼女につらい思いをさせたのか。
「悪い」
それしか言えなかった。
安心させるように、その華奢な身体を力いっぱい抱きしめた。体育館中の注目を浴びていようが、どうでもよかった。
ややあってから、「参ったな」と面倒そうな死神の声が聞こえた。
「引き離すのが気が引けてしまうよ」
「まだそんなことを言っているのかね?」俺より先に怒りの声をあげたのは、本間先生だった。「彼はただの高校生だ。何を理由に警察署に連れて行くというんだ?」
カヤはピクリと反応し、顔を上げた。俺もカヤを抱きしめたまま、死神を睨みつける。その大きな黒目は、地獄の入り口にも思えた。
「何を理由にって……」と死神は怪しく笑んだ。「劇の内容が問題なんですよ」
「劇? さっきの劇かね?」
「あれはだめですよ」死神は馬鹿にするように頭を振った。「新治安維持法に抵触します」
「新治安維持法?」
明らかに、本間先生の表情がこわばった。
「なにを馬鹿なことを。あれは反政府運動を取り締まるものだ。こんな学生の劇、相手にする必要はないだろう」
「そうはいきませんよ。カインをヒーローに仕立てあげた劇なんて立派な反政府運動です」
反政府運動?
「なに言ってんだ!?」
思わず、俺は声に出していた。
本間先生と死神の視線がこちらに向けられる。黙っているべきだった、と思ったが後悔してももう遅い。
「カインなんてただの都市伝説だ。どっかの誰かがでっちあげた作り話だろ。盛り上がると思って脚色しただけで……反政府運動なんて、冗談じゃない」
「そうです」と俺から離れ、カヤも力強い声で死神に訴えかけた。「ただの劇です」
「彼らの言うとおりだ」
俺たちとは違い、落ち着いた声で本間先生も続いた。
「カインの話はわたしも耳にしたことがある。若者の間で流行ってるホラ話。そんなものを相手にするなど、恥さらしだぞ」
すると、死神は勝ちを悟ったようににんまりと笑んだ。
「カインは実在します」