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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
253/365

不吉な再会 -上-

 病室のベッドに横たわる初老の男は、じっと窓の外を眺めていた。衣を脱ぎ捨て、寒そうに身を震わせる木々に、冬が近いことを感じて寂しさに胸を痛めた。つんとつきでた細い木の枝に、一枚だけ残った衣服――木の葉を見つけて、藤本はせつない表情を浮かべた。この冬を、果たして自分は乗り切ることができるのだろうか、と疑問がわく。

 そんな不安に呼応するかのように、胸に激痛が走り、ぐっと心臓のあたりをつかんだ。

 さすがに若いころから無理をしてきただけあって、身体にはがたが来ていた。とうとう、主治医である筒井にはっきりと、「もう長くはありません」と告げられてしまった。

 驚きはしなかった。ずいぶん前から、忠告を受けていたからだ。早々と曽良に『後継者』としての自覚を持たせたのも、そのためだ。

 覚悟はしているといっても、やはり心残りは山ほどある。できれば、あと一年、いや、半年でも一ヶ月でもいい……そうみっともなく願っている自分がいる。


 二十一年前、『クローンを救う会』を立ち上げ、三年にわたって同志とともに数々のクローン工場を爆破した。多くの同志を失ってもなお突き進み、ただただ破壊行為を繰り返した。秘密漏洩を防ぐために、自爆用のネックレスまで創って。テロ組織、と呼ばれても仕方のないほど過激な集団だった。もしも、対象がクローン工場でなかったなら――裏社会の闇に隠された施設でなかったなら――おそらく自分は大々的に爆破犯として指名手配にでもなっていただろう。

 やがて、思想の相違からそんな彼らとも離れ、一人でクローンの子どもたちを救い集め始めた。そうして出来上がった、新たな組織『カインノイエ』。そこで彼は『父親』という任務(・・)を得た。よくよく考えれば、それは――『父親』になることは――ずっと夢見ていた『使命』だったのかもしれない。そう、三十年前のあの日から。


 これまでの道のりを振り返り、藤本マサルは苦笑を漏らす。波瀾万丈。闇に呑まれた人生。今日まで生き永らえたことが奇跡というものか。これ以上望むのは、強欲なのかもしれない。

 ふいに、壁にかけてある時計に目をやると、時刻は九時四十五分を指していた。

 さすがにもう港のほうは片付いたかな、と今朝『おつかい』を頼んだ娘たちの顔を思い浮かべる。レオン・リャンは大事な取引相手だ。失礼がないよう、懇切丁寧に対応してくれてるといいのだが。

 しかし……初めての、子供たちだけの『取引』。みるみるうちに、藤本の皺だらけの顔に渋い表情が浮かび上がった。

 いやいや、と軽くかぶりを振る。

 少々、不安要素もあるが……信じてやらないでどうする、と藤本は自戒する。どれほど問題児だろうと、皆、かわいい子どもたちじゃないか、と心の中で唱えて頷いた。


「パパ」


 ノックとともに、そんな『かわいい子どもたち』の一人の声が聞こえてきた。藤本は、おや、と上半身を起こす。


「砺波か? どうしたんだね、入りなさい」


 たとえ病室といえど、彼の『子ども』がノックをするなど不気味なことだった。たとえ客が来ていようがなんだろうが、カインの子たちがノックするようなことはなかった。藤本もそれを咎めようと思ったことはない。

 クローンとして『創られた』彼らにとって、この世界に居場所はないも同然。だからこそ創った『カインの家(カインノイエ)』。彼らの居場所だ、ノックなど必要ない。――それが藤本の方針だった。

 しかし、こういった特殊な場所では少し注意したほうがいいのかもしれない、と入院してから思うようになった。――カインの一人が注射の最中に突入してきたせいで、看護士を驚かせ、えらい目にあいかけたことは記憶に新しい。他にも顔色が悪くなるような出来事は多々あった。

 いつかはそれらも大切な思い出になるのだろうが。


「あのさ、パパ」ちょろっとだけ開いたドアから、幼い顔立ちの少女が顔をのぞかせた。「わたしは巻きこまれただけ、てことをまず知っといてほしいんだけど」

「……」


 嫌な出だしだ。

 藤本の表情がこわばった。口許の皺に濃い影が落ちる。


「今度は何をしたんだ、砺波?」

「だから」と、甲高い声を放って、砺波は病室に飛び込んだ。ふわりとウェーブがかった黒髪が揺れる。「わたしは何もしてないんだってば。巻きこまれたのっ!」

「じゃあ、何に巻きこまれたんだ? いや、待て。その前に、誰に(・・)巻きこまれたのか聞いておこうかな」


 藤本には、それ(・・)で大体、どれほど心の準備をすればいいのか把握できる。

 砺波は扉の前で居心地悪そうに頬をかくと、てへっとあどけない笑みを浮かべた。


「えっと……曽良?」

「まあ、そうだろうとは思ったが」思わず、大きなため息が漏れた。やはり、前もって聞いておいてよかった、と心底思う。「で、あの子と何をしでかしたんだ?」

「だから、わたしは何もしてないんだってば。巻きこまれた、て何度も言ってるのに」


 口をとがらせ、ぶつぶつと自己弁護を続けながらも、砺波は扉に振り返る。


「パパに紹介したい人がいるの」そんな砺波の声をきっかけに、扉がゆっくりと開いていく。「『フィレンツェ』から、かず――じゃくて、曽良がひったくってきた(かなえ)さんよ。売られるところだったみたい」

「『フィレンツェ』からって……勝手に『お迎え』に行ったのか!? 活動は休止するように、と言ったはず――」


 今は自分が不在の上、情報屋の三神も休業中。そんな状況で『おつかい』なんて危険すぎる。曽良にもしっかりと釘をさしておいたはずだったのだが。

 命に関わる問題なのだ。こればかりは、しっかりと叱らなくてはならない。

 身を乗り出して、厳しい表情で説教を始めようとした藤本だったが、その気は失せた。――一瞬にして。


「!」


 どくん、と藤本の心臓が大きく揺れた。いつも穏やかな眼差しで子どもたちを見守っている、その目が見開かれる。呼吸も忘れ、藤本は硬直した。

 窓の外で、はらりとあの木の葉が落ちたことに、気づくこともできなかった。


「あの……初めまして。鼎、と申します」


 病室に足を踏み入れ、ぺこりとお辞儀をした少女。

 雪のように真っ白な肌。さらりと流れる茶色混じりの黒髪。同じ色をした、特徴的な太い眉。おずおずと自信無げにこちらを見つめる瞳は、灰色がかった緑色。真ん中わけをした前髪のせいであらわになっているひろいおでこ。

 心臓が不規則なリズムを刻みだす。


「パ……パパ、どうしたの?」


 驚愕した表情を浮かべて凍ったように動かない藤本。そのただ事でない様子に気づいたのだろう、砺波は血相変えて駆け寄った。


「大丈夫? 筒井先生、呼ぼうか?」


 心配そうな砺波の声が、ずっと遠くから聞こえるようだった。「パパ」と必死に叫んで顔をのぞきこんでくる砺波が目に入らない。その視線は、彼女の肩越しに佇む別の少女を捉えて離さない。

 見覚えがある――なんてものじゃない。

 面影がある(・・・・・)のだ。


「どうかされたましたか?」


 その声が、記憶に残るあの愛おしい声と重なる。

 

――行ってきます。


 最期に聞いたあの声。忘れたことなど一度もない、あの明るい声。思い出すだけで、ぽっかりと開いてしまった心の穴に、寂しくも温かい小さな灯火を点してくれる、あの懐かしい声。

 全く同じではない。だが、自分には分かるのだ。自分には――。

 間違いない。

 なんてことだ、と全身が粟立つ。

 ここにきて、と心臓が焼けるように熱くなる。

 やっと……ようやく……とうとう……そんな言葉が頭の中で次から次へと連なり、視界がゆがんだ。目頭に熱がこもって、ぽろりと頬を何かが伝った。――それは、涙。彼の三十年越しの想いが形となったもの。

 がたがたと震える唇から、ようやく声が漏れた。ひどくか細い、感極まった声。


「フィリオ……」


 二度と呼ぶことはないだろう、とあきらめていたその名。三十年前に亡くした、実の(・・)愛娘の名。

 底知れぬ哀しみと深い愛しさゆえに許されない過ちを犯し、『罪』を産み落としてしまった若かりしときの自分。その『罪』を捜し続けた二十一年間。贖罪のときを待っていた。

 そして、とうとう――

 裏世界で暗躍し続けた男の、積年の呪縛から解き放たれた瞬間だった。


   *  *  *


 ステージの幕も閉め、最後のミーティング。てわけで、出演者もはじめ、裏方も全員、ステージ上に呼び出され、アンリの演説(・・)を待っていた。

 幕の向こうでは、がやがやと人が入ってくる音が聞こえてくる。……思ったより多そうだ。

 思わず、神サマ――と、その名を呼んでいた。中止にしてくれ、と渾身の祈りを捧げたそのときだった。


「いやぁ、遅くなっちゃってすみませぇん」


 暢気にへらへら笑ってステージ上に現れた『神の子』。

 はは。そうだったな。神サマの関係者は今や、こんなに近くにいるんだった。しかも、ロクでもないのが。

 

「なにしてたのよ、ロウヴァーくん!」当然、大遅刻の主演には監督の怒りの鉄槌がくだる。「本番まであと十分なのよ!? リハなしのぶっつけ本番じゃないのよ!?」


 今回ばかりは、アンリを応援しよう。たまにはリストも痛い目にあうべきだ。神の子だからって何でも許されちゃ不公平、というもんだ。

 しかし……アンリ以外の女子からいっさい負のオーラを感じないのはなぜだ。遅刻して迷惑かけた奴に、なんで嬉しそうに頬を赤らめてるんだ。リストをこれ以上甘やかすな。


「そのことなんですけどぉ」


 でた。あいつお得意の『天使の微笑』。あの笑顔をされると殴りたい気分も萎えるんだよな。証拠に、怒り狂ってるはずのアンリさえ「なに?」とたじろいでいる。


「実は、オレなし(・・・・)のぶっつけ本番になりそうなんですよね」

「……」


 静まり返るステージ。

 一瞬、リストが言った意味が分からなかった。たぶん、この場にいる全員そうだろう。

 『オレなし』? って……つまり、劇を降りるってことか? つまり――主役なし?


「いまさら、抜けるってこと!? 冗談じゃないわよっ!」沈黙を引き裂いたのは、アンリの怒号。「無理無理! ロウヴァーくん目当てで見に来る観客だって多い――って、その前に、主役が抜けたら劇が成り立たないじゃない!?」


 待てよ。劇が成り立たない? てことは……中止か!?

 雨雲のすきまから一筋の光が降り注ぐイメージが脳裏をよぎった。まさか、俺の願いが叶う? ここにきて、リストが『神の子』らしく、俺に手を貸す――わけないか。


「そうだよ」と、アンリに続いたのは、意外にもカヤだった。「ずっと一緒に練習してきたのに――何か、あったの?」

「!」


 ぎくりとして、隣に佇むカヤに振り返る。

 カヤはリストを凝視していた。その表情からは緊張がはっきり見て取れた。

 俺には分かる。カヤが緊張してるのは、本番前だからじゃない。カヤが気にかけているのは……

 ざわりと胸騒ぎがした。

 そうだ。こいつを捜しに行ったはずのユリィの姿がない。


「何かあったのか!?」


 脅すような口調で、俺はカヤの質問を繰り返していた。

 周りの視線を感じた。あのアンリまで怯えたような顔でこちらを見ている。そうだな、あいつの前でこんなに声を荒らげるのは初めて、か。


「パスポートに不備があったみたいで、今すぐ大使館に行かないと、郷国(くに)に強制送還されちゃうみたいなんですよね」

「は……」


 パスポートに不備?

 俺はあっけに取られて、固まった。なんだ、その『神の子』らしからぬ事情は?

 周りはざわつき、「大変そう」と同情の声もあがっている。


「今すぐじゃなきゃだめなわけ?」


 諦め半分、困り果てた様子で食い下がるアンリ。リストは「すみません」と苦笑いで返した。

 ふと、その藍い瞳がばちりとこちらに向けられた。一瞬にして走る緊張。駆け抜ける悪寒。こいつが『神の子』であることを問答無用で受け入れさせるプレッシャー――畏怖だ。


――リストの言ったこと、全部、嘘だからね。


「!」


 頭の中に直接送りこまれた幼い声。反射的に俺は頭を押さえていた。


――普通にして。『人形』に気づかれたくないから。


 言われて、カヤを一瞥する。残念そうな表情でリストを見ている。俺の異変には気づいていないようだ。

 頭においた手をおろし、平静を装う。

 

――そ。その調子だよ、かずゆき。


 子どもの声に褒められる、てのは変な感じだな。

 で? 何かあったんだな、ケット? ユリィか?


――ニヌルタの子は外で待ってる。


 待ってる? 

 あいつが何かやらかしたわけじゃないのか。じゃ、なんなんだ?


――『あとで説明するんで、今はとにかく本間先輩の傍にいてください』、てリストの伝言だよ。


 あとで説明する? おいおい。そんなことが通じると思ってんのか? なんで今、教えない? それとも……教えられない、てことなのか?


――リストは……。


 急に、ケットの声に元気がなくなった。口ごもり、しばらく黙りこむ。

 その間にも、アンリが代役探しに躍起になっている。リストや他の連中となにやら相談してるみたいだ。まあ、俺が血祭りにあがることはないだろうから安心だ。


――リストはね、君に……ううん、君たちに楽しんでほしいんだよ。


 いきなり復活したかと思ったら、突飛なことを言い出した。

 俺はぎょっと目を丸くする。って、顔に出しちゃいけないんだった。


――かずゆきやパンドラには、普通に文化祭を楽しんでほしいんだよ。だから、今は言いたくないんだと思う。今はこっち(・・・)のことは心配しないで、リストやニヌルタの子に任せて。


 心配しないでって……すでに気になってるっつーの。楽しむ気になんてならねぇよ。変なことに気をつかわねぇで、教えろ。


――リストは本当は残りたいんだよ。本当は……劇、やりたくてしかたないんだと思う。リストにとっては、最初で最後の学校生活だから。こんなこと、二度とないかもしれない。だから、本当は参加したいんだ。でも……リストはマルドゥクの王だから。立場があるから。『使命』があるから。行かなきゃいけない。


 唖然とした。

 最初で最後の学校生活って……あいつ、今まで学校行ったこと無いのかよ。


――無いよ。だから、リストは友達もいなかった。一族の皆も、リストをよく思っていなかったから。ナンシェと彼女のお母さん以外は……。


 ナンシェ。その名前に、ある写真の少女が思い浮かんだ。リストによく似た、太陽のような笑みを浮かべる少女。確か、彼女こそ自分が『創られた』理由だ、とリストは言っていた。詳しい事情までは話してくれなかったが。


――だからね、リストは、せめて君たちには楽しんでほしいんだよ。自分にはできないことだから。自分の代わりに……。


「……」


 そう言われてしまうと……

 俺はなんとも言いがたい気持ちになって、再び、リストを見やった。ニコニコ微笑み、アンリたちと話している。どこにも、そんな『陰』なんて見えない。まるで、劇から降りることを気にもしていない様子なのに。

 最初で最後の学校生活、か。

 まさか、こんな当然なものがあいつにとって特別だったとは。

 リストも、本当は『普通』になりたいのかもな。『神の子』とか、『使命』とか、そんなもの全部捨てて。俺が『カイン』を辞めたように。

 俺を散々おちょくってたのも、甘えてただけなのかもしれない。きっと、はしゃいでいたんだ。

 にこにこ振りまくあの笑みも、ああやって隠してるだけなのかもしれない。『神の子』として抱いてはいけない、自分の望みを。

 『使命』に苦しんでるのは、カヤだけじゃない、か。


「そうだ、和幸さんがいいんじゃないかな。オレの代役」


 俺を指し、大きな声でそんなバカげたことを言い放つのも、全て、重い『使命』を背負う苦痛から――って、え? 


「ちょっと、待て!」と、慌てて声を張り上げる。「なんつった、今!?」

「冗談よしてよ、ロウヴァーくん。和幸には無理無理」

「そんなことないですよ、近江先輩」ブロンドの髪をさらりとなびかせ、アンリに振り返ると、ここ一番の笑顔を向ける。「オレが推薦します。和幸さんに代役を――」


 アンリはぼうっとリストを見つめている。どこか、心ここにあらず、な遠い目。

 その瞬間、ハッと気づいた。

 まさか、あいつ……神の力を――!?


「そうね」とアンリは寝ぼけたような声でつぶやいた。「和幸に頼もっか。あいつ、記憶力いいし。セリフも大体覚えてるわよね」

「リスト、お前、反則――!」


 取り乱しかけた俺の腕を、誰かがつかんで止めた。


「いいじゃない、和幸くん」俺と違って、落ち着き払った穏やかな声がした。「私も和幸くんが相手なら、やりやすいよ」

「……カヤ」


 俺の勢いは一気にしぼむ。カヤに言われると、俺も弱い。しかも、そんな懇願するような目で見られると、余計に……。

 その隙をつくかのように、「決まりだっ!」とリストが意気揚々と声をあげた。


「これで安心して、大使館に行けますよ~」


 ひらひら手を振り、さっさとステージをあとにするリスト。名残惜しそうな黄色い悲鳴があがる。

 

「あれのどこが『神の子』なんだ」


 怒りにわななきつつも、俺は押し殺した声で悪態づいた。

 やっぱ、俺をからかって楽しんでるだけだだろ、あいつ。


   *   *   *


 外に出ると、体育館へと流れていく人の波ができていた。結構、観客いるんだな。近江先輩、相当告知したんだろう。たぶん、本間先輩とオレの名前を使って……。「リストくぅん、楽しみにしてるからね」と手を振ってくる同級生たちに事情を説明する時間もなく、罪悪感を押し殺して手を振り返す。


――そんなにのんびりされていて、よろしいのでしょうか。


 不安と焦りに満ちた声が頭に響いた。ケットじゃない。別の天使だ。


「大丈夫だよ」と声に出して答える。「向こうから近づいてきてくれてるんだから。急ぐ必要はないでしょ」


 人だかりに混じって、ユリィ・チェイスが珍しく真剣な表情を浮かべて立っていた。オレは口許だけ笑って、睨みつける。


「何か、罠でもあるなら別だけど?」

「まだ、オレを信じてないんだね」ユリィ・チェイスは責めるような口調でつぶやいた。「兄さんの天使・レッキの気配がある、て伝えたのはオレなのに」

「お前が来たときには、ケットも気づいてたよ」

「じゃあケットは、レッキに近づいているもう一つの気配には気づいてるの?」


 もう一つの気配? そんな話、聞いてないけど……どうなんだ、ケット?


――ちょっと待って。気配を探ってみる。


 待つ必要はなかった。すぐにケットは「あ!」と、頭痛でも引き起こしそうな甲高い声を鳴らした。


――バール!


 そう一言だけ、ケットはオレに告げた。それで充分だった。


「アトラハシスか」


 嫌な予感がして、ぞっとした。同時に、そりゃそうだ、とうっかりしていた自分に腹が立った。


「ニヌルタの王に一番会いたいのは、アトラハシスに決まってる」

「仇討ち」


 ぽつりとユリィ・チェイスが漏らした言葉に、オレは「無謀だよ」とすぐさま返す。


「ニヌルタの王もオレと同じ。不死だ。たとえバールでも、あいつを殺すことはできない。アトラハシスだって、それくらい分かっているはずだ。会っても、殺されるだけ」

「それでもいい、と思っているのかもしれない」ユリィは重い口調で唱えた。「彼にはもう、失うものはないんだから」

「!」


 先代リチャード・マルドゥクの姿が脳裏をよぎった。「わたしのせいだ」と罪悪感に打ちひしがれ、苦渋に満ちた表情で祈りを捧げていたあいつの姿が。

 『パンドラの箱』が開かれたあの日、アトラハシスの神殿に駆けつけたリチャードは思わぬ惨状を目にした。――横たわる、息絶えたアトラハシスの末裔たち。

 身体には傷一つなく、全員、眠ったように死んでいたという。それであいつは確信したんだ。ニヌルタの王が『冥府の剣』でアトラハシスの一族を皆殺しにしたのだ、と。

 だが、神託を受け、王を継いだはずの少年だけは見当たらず、リチャードはその身をひどく案じていた。『箱』とともに逃げ延び、どこかで身を潜めていてくれるといいのだが――いつもそう言っていた。


「止めなきゃ」

 

 オレはぐっと拳を握りしめ、つぶやいた。


「今度は……手遅れになる前に」


 リチャードの過ちは繰り返さない。アトラハシスの生き残りを、なんとしても守らなきゃ。

 『使命』とは違う。オレにはその義務がある。

 踵を返し、走り出そうとした――そのとき。


「パンドラは!?」


 ユリィの鋭い声が背中に刺さってオレは足を止めた。振り返り、「和幸さんに任せた」と簡潔に答える。

 アトラハシスがニヌルタの王に接触しようとしている今、ラピスラズリの指摘通り、のんびりしている場合じゃないんだ。

 だが、ユリィはすっきりしない様子で動こうとしない。ちらりと体育館に一瞥すると、


「パンドラの恋人、大丈夫なの?」

「何を、いまさら」しゃべっている場合じゃないってのに。「和幸さんは信用できるよ」

「そういうことじゃない。彼は普通の人。こんなときにパンドラと二人きりにして、彼が危険な目にあったら……」

「そっちの心配か」


 そういえば、ユリィは和幸さんのあっちの顔を知らないんだったな。『殺し屋』だ、て言ったら驚くかな。いや……『殺し屋』だった(・・・)、か。

 今は、そこまで説明する暇もないけど。


「和幸さんは『普通の人』じゃあないから大丈夫」

「『普通の人』じゃない?」

「そ。あの人()クローンだしね」


 へらっと笑って――そして、ハッとした。やばい、と全身に電流が走ったような衝撃がかけぬける。


――リスト! 何、考えてるの!?


 天使の叱責が飛んだ。

 ええっと……いや、たぶん、何も考えてなかった。

 ユリィは訝しそうに顔をしかめて小首をかしげた。オレはごまかそうと満面の笑み。


「さ、早く行こ――」

「君()クローン、てこと?」

「!」


 やっぱ、聞き逃してくれるわけないか。オレは目を側め、逡巡してから「まあ、そうなるかなぁ」と曖昧に返す。

 神の一族がクローンに手を出すなんて、最大の禁忌だ。マルドゥク家の中でも、オレの正体を知ってたのはリチャードだけ。

 まさか、ニヌルタの奴に知られるなんて。


――というか、リストがバラしたんでしょう。


 ジト目で睨むケットの顔が思い浮かんだ。

 う……言い返せない。その通りだ。和幸さんと関わってから、どうも『クローンは秘密』って意識が薄らいじゃって。


「誰のクローンなの?」

「誰でもいいでしょ」

「……」


 ユリィは黙りこんでしまった。感情が伺えない、何も考えていないかのような顔に戻ってる。

 視線が痛い。軽蔑の眼差し……ではないみたいだけど。観察されてる昆虫ってこんな気分なのかな。


「どうして」と、やっとユリィは口を開いた。じっとオレを見据えたまま、「どうして、君が『聖域の剣』を持ってるの?」

「!」


 痛いところを……。見た目に反して、鋭い奴。

 マルドゥク、ニヌルタ、アトラハシス――それぞれの王は、神託によって選ばれる。神がそれぞれの天使の口を借りて継承者を名指しし、その人物に王が『贈り物(ドラ)』(マルドゥクは『聖域の剣』、ニヌルタは『冥府の剣』、アトラハシスは『守護者の鏡』)とともに王位を譲る。それがしきたり。

 当然、神がクローンであるオレを選ぶわけはない。『マルドゥクの王がクローン』なんておかしな話ってわけ。

 オレは何も言えずに、目を逸らした。

 そんなオレの反応にユリィは悟ったらしく、「そっか」と憐れむような声を漏らした。


本当の(・・・)継承者は、そのことを知ってるの?」


 はっきり、言ってくれちゃうな。一番、触れられたくないところを張り手でもされたかのようだ。

 喉につまっていた息がどっと流れ出て、大きなため息となった。

 ここまで躊躇なく言われちゃうと、隠すのもくだらなくなっちゃうよ。


「知らないよ」と、半分やけくそであっさり答える。「オレが選ばれたんだと思ってる」

「そう」


 ユリィは目を細め、息をついた。そして――


「マルドゥクもとんでもないことをやってのけたものだね」


 嫌味でも皮肉でもないようだった。ユリィは、誇らしげにさえ見える笑顔を浮かべてそう言った。褒められたような錯覚にさえ陥った。

 それ以上の詮索はなく、ユリィは「さあ、行こうか」と普段の眠そうな声で促した。

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