密告
「九時半……か。一時間もかかったな」
しゃがれた声でそうぼやき、静流は「ちっ」と舌打ちする。背後から潮風がふきつけ、彼女のカールがかった髪を散らした。
「まあまあ」と細い目をさらに薄めて、そんな彼女に歩み寄るのは鉤鼻の香港人。カインノイエが雇っている武器商人、レオン・リャンだ。「無事にこうして積荷は全て運びこめたわけだし。いいじゃないか、シズル」
「よかねぇよ。あいつら、もたもたしやがて。これが初めてじゃねぇのも居たっつーのに……何のために人選したと思ってやがんだ」
「厳しいね、相変わらず」リャンはくつくつ笑って、まるで孫でも見るかのような優しい眼差しで静流を見つめる。「だからこそ、フジモトさんは君を頼りにしているのだろうけど」
「あたしを頼りにしてるんなら、あたし一人に任せてほしかったがな」
「ミヅキがいるとやりにくいか?」リャンは思い出したように吹きだした。「ミヅキにからかわれる君を見るのは、こちらとしてはとても楽しいんだがね。さすがの君にも天敵がいるとは」
「黙らねぇと契約ぶちきるぞ、リャン!」
かっと静流は目を吊り上げて、リャンに怒鳴り散らす。が、リャンはものともせずに肩を竦める。
リャンはカインノイエとは長い付き合いだ。静流のことも幼いころから知っている。彼女の恐ろしさも重々承知しているが、彼女が『正当な理由』もなく、人を殺すような女ではないとも知っている。――殺しに『正当な理由』があるというのも妙な話なのだが、彼女たちカインにはそれがある。
カインに殺されるに値すること――『人身売買』。
しかし、その禁忌さえおかさなければカインは無害ということでもある。リャンにとってはただの子ども。カインノイエとの取引に危険など微塵もない。
「そうだ」と、静流はじろりとリャンに睨みつけるような視線を向けた。「搬入んときに頼むはずだったんだが、うちの馬鹿どもがもたもたしてっから後回しにしてた。実は、あんたに銃器や弾薬のチェックに立ち会ってほしいんだよ。悪いんだけど、これから付き合ってくれねぇか?」
「そんなことか。お安い御用だよ。やけに低姿勢じゃないか。気味が悪いよ」
「うるせぇな」
静流の悪態に毒気はなかった。
リャンはにこりと微笑んで「そうだなぁ」とつぶやき、背後に振り返る。
「結構、あの中、ごった返していたからねぇ。整理しとかないと、いざというとき困るよね」
リャンの視線の先で重苦しく立ち並ぶのは、マンションの二階分ほどの高さの古びた倉庫。リャンの密輸船が寄航したお台場の港に面した倉庫郡だ。ここが貿易港として使われていたころは活気に溢れていたのだろうが、今やその物陰はない。密輸業者やスラムの住人が有効活用してはいるのだが。
その中の一つの倉庫に、一台のトラックがバックで入っていく。周りでは、まるでお台場スラムに似つかわしくない健全そうな若い少年少女たちが駆け回っている。何も知らない者が見れば、異様な光景だと思うことだろう。
「いざというとき、か」ふいに、静流がぽつりともらす。「そんなの無いのが一番なんだがな」
「裏世界に生きる人間の言葉じゃないねぇ」
「確かに」
静流は皮肉そうな笑みを浮かべた。
リャンはそんな静流をちらりと見、「シズル」と神妙な面持ちで問いかける。
「表で生きてみたいと思ったことはないのか?」
静流はぎょっと目を丸くした。思わぬ問いに言葉もでないようだ。
「オーライ、オーライ」という弾けた声があたりに響く。やがて、静流は「くっ」と失笑し、やがて豪快に笑いだした。
「なにふざけたことぬかしてんだ? あたしらが表で幸せになれるなら、はなっから裏世界にゃ来てねぇだろうが」
「……」
「あたしらが何なのか、忘れたわけじゃねぇだろが」
脅すような鋭い眼光がリャンを射抜く。
リャンは居心地悪そうに鼻をかき、再び倉庫へと目を向けた。単に、静流から目をそらしたかったからなのだが、元気に『おつかい』をしている子どもたちが視界に飛び込んできて、顔をゆがませた。
彼らがクローンだということは、藤本マサルと契約を結んだときに彼から聞かされていた。
静流の言う通りだ。彼ら、クローンの子どもたちが、表で暮らしたとしても幸せになれるわけはない。
興味本位で、彼女の傷をえぐるようなことを訊ねたことを、リャンはひどく後悔してため息をもらした――ときだった。
「でも、もしかしたら……」
「?」
らしくない切なげな声に、リャンはハッとして振り返る。
「もしかしたら、あの子は『希望』になるかもしれない。――情けねぇけど、そう思い始めてる自分がいるのも確かだよ」
初めて見るしおらしい彼女の姿に、リャンは唖然としてしまった。戸惑いつつも「あの子?」と聞き返すと、静流はからかうような笑みを浮かべて顔を上げた。
「表に義理の妹ができるってのも悪くねぇ、て話だ」
リャンは「は」と頭を捻る。
静流は「なんでもねぇよ」と髪をかきあげ、倉庫のほうへと顎をしゃくった。
「倉庫のチェック頼むわ。アリサ姉さんが立ち会う」
「アリサか……」
リャンは頬をひきつらせ、怯えた表情で倉庫を見やる。
「代わりに君が立ち会うってのは、無理なのかな?」
「悪いな」静流は肩を竦め、ちらりと視線を横にやる。「用ができたみてぇでよ」
静流の視線を追うと、『虹の橋』の方角からこちらに歩いてくる一人の少年が。リャンは「あれは……」とつぶやき、思い出したように咳払い。
「用が終わったらでいい。君も立ち会ってくれよ。わたし一人でアリサは無理だ」
いくら親しくなろうとも、いくら子どもだろうと、彼女たちが取引相手なのに代わりはない。「用ができた」と言われたなら、大人しく引き下がるのみ。詮索はしない。首をつっこめば、切り落とされるだけ。裏世界はそういう場所なのだ。
静流の返事も待たず、リャンはさっさとその場をあとにした。
***
「カヤ」
遠慮がちな声が背後からして、私は「はい?」と微笑んで振り返る。
「よう」と照れくさそうな笑みをもらして、彼は後ろ手に戸を閉めた。あたりが再び暗くなる。「アンリに聞いたら、ここだって言うから……」
いぶかしげな表情で辺りを見回し、彼は「埃っぽいな」と愚痴をもらした。ぱたぱたと彼が手を振ると、埃がゆらゆら揺れた。小さな窓から差し込む光がそれを照らして、ダイアモンドの欠片が舞っているよう。
「ってか、体育倉庫が衣裳部屋ってどうなんだよ?」
彼は無造作に転がるフラフープやポールに足を取られながらも、「お前も文句の一つくらい言えばいいのに」とぶつくさ言って私のほうへ歩み寄る。
体育館のステージに一番近い小部屋といえば、この体育倉庫。だから、アンリちゃんはここを更衣室として使うことにしたのだ。私はいい案……だと思ったんだけど。確かに、マットやら跳び箱に囲まれて着替えるのは変な感じではあったかな。
「そう言う和幸くんは、さっきから文句ばっかり」
わざとらしくジト目で睨んで、腰に手をあてがう。
私の前で立ち止まった彼は……今さらだけど、たくましくて頼もしい。「似合ってるよ」と恥ずかしそうにぎこちなく笑うその仕草も、愛おしい。
「ありがと」と照れくさくなって私はうつむいた。真っ白のワンピースが視界に映る。
私が言わせたみたいだけど……和幸くんにそう言ってもらえると、やっぱり嬉しい。
彼なら、私が何を着ていても、きっと褒めてくれるんだろうな。たとえ、どんな変な格好をしていても。――たとえ……私がもう人間でないとしても?
きゅん、と胸が痛んだ。私はそうっと胸元に手を置く。指がひんやりと冷たい十字架に触れた。それをそっと握りしめ、私は唇を噛み締める。
「ねえ、和幸くん。今夜……」
「あ!」
いきなり和幸君は、体育倉庫に――ううん、体育館中に響くような大声をあげた。私はびくっとして顔をあげる。と、幽霊でも見たかのような表情の彼と目があった。
「どうか……したの? 和幸くん」
「やべ、忘れてた」
「忘れてた? 何を?」
「いや」と彼は声を裏返し、咳払い。明らかに動揺している。私が疑るような視線を送っていると、彼は無理した笑みを浮かべた。「それ……それ、無いほうがいいんじゃないかって思ってよ」
「え?」意味が分からず、私は目を瞬かせる。「それって……」
和幸くんの視線を辿る。それはまっすぐに私の胸元へと注がれていた。そこにあるのは……
「このネックレス?」
小首を傾げつつ、銀色のロザリオをくいっとつまむ。きらりと反射した光が彼の目元を横切った。
「そう、それ」と、和幸くんは違和感のある笑みで頷く。やっぱり、様子が変。「はずして、その辺に置いとけよ」
「どうして?」
「だから……服にあってないからだよ」
「は?」
思わず、呆けた声が漏れてしまった。このワンピースとロザリオがあってない? 少なくとも、私はそうは思わない。それに、失礼かもしれないけど、和幸くんはファッションを気にするような人とは思えない。
きょとんとしていると、和幸くんは頬を赤らめ「とにかく」とごまかすように切り出した。
「それ、渡せって。なんつーか……ほら、不吉っつーか」
「不吉!?」何を言っているんだろう。正反対だよ。「これはカインのお守り。和幸くんのことも守ってくれたじゃない」
そう。これは、曽良くんからもらった大切なお守り。カインから……和幸くんの家族からもらった贈り物。
『フィレンツェ』で、あの女の人をたった一人で『迎え』に行った和幸くんを守ってくれた。和幸くんをこうして私のもとに返してくれた。
だから……
私はぎゅっと胸元で抱きしめるようにロザリオを握りしめる。
「片時も離したくないの」
「じゃ、劇の間だけ、俺が預かっとくってのは……」
「曽良くんとも約束したの。肌身離さず持ってる、て」
「いや、でも……ほら、劇の邪魔になるんじゃないか、と思って」
「そんなことないよ。これがあったほうが安心するもの。アンリちゃんもいいって言ってたから」
にこりと微笑みそう告げると、和幸くんはあんぐり口を開け、「いや」と頭をかいた。困り果てたような表情。
あきらかに妙だ。
さっきから主張が二転三転してるし、挙動不審だし。嘘ついているとしか思えない。どうにか、私にこのネックレスをはずさせたいみたいだけど……どうして?
「何か、隠してる?」
観察するようにじいっと顔を覗き込むと、和幸くんは「隠してない!」と大仰に両手を振った。
うーん、怪しい。
「……何かあるの、このネックレス?」
すると和幸くんは腹痛でもするかのような険しい表情を浮かべ、しばらく逡巡してから、
「爆弾……」
「ばく……なに?」
「な、なんでもねぇよ」いいから、と乱暴に言い捨て、和幸くんは私の胸元に手を伸ばしてきた。「それ、渡してくれ」
「や、待っ……」
反射的に、彼の手を逃れるように身を退いていた。もちろん、足元に注意している余裕があるはずもなく――
「きゃっ!」
一歩さがった右足が何かに乗っかった。そのまま、ぐらりと視界が回り、「カヤ!」と和幸くんの叫ぶ声がした。
それから……大きな物音がして、目の前が真っ暗に。
「ん……」
何が起こったのか、一瞬、分からなくて――それから、ざわりと胸騒ぎがした。まさか、と思って目を見開く。
私……気を失ったんじゃ――
「和幸く――!」
あわてて叫んで身を起こそうとした、そのとき。
「カヤ!」
切羽詰ったような低い声が降ってきた。くぐもっていて、はっきりとは聞こえない。でも……
「大丈夫か?」
いつもの、その言葉。心配そうな声。間違いなく、彼。
全身から力が抜ける。ほっと肩を撫で下ろす。
冷静さを取り戻した頭が、状況を把握する。私は倒れていて……かび臭い何かが私を覆っている。暗いのはそのせいだ。柔らかくて大きくて……なんだろう、と思っていると、
「大丈夫か、カヤ!?」
私にかぶさっていた『何か』はどこかへ吹き飛んで、代わりに別の影が私を覆った。
「和幸くん……」
切羽詰った不安そうな表情……見覚えがある。長谷川さんに誘拐されたときを思い出した。
「頭、打っただろ。頭痛は? 眩暈は? 吐き気とか……」
放っといたら、このまま質問攻めにされそう。
「本当に平気だから」
って、いつまでも横たわっていては、彼を心配させるだけだよね。私はむくりと上半身を起こす。
ちらりと傍らに視線を向けると、二つ折りで倒れている体操マットが目にはいった。私に覆いかぶさっていたの、これかな。壁にいくつも並べてあったから……その一枚が倒れてきたんだろう。
「あー……俺、なにやってんだか」
どっかりとあぐらをかくと、重苦しいため息を漏らして和幸くんは頭を抱えた。
「私が勝手に転んだだけだよ」
「きっかけをつくったのは俺だ」
「そんな……」
そんなことない――て言っても、きっと無駄だろうな。私は喉まで来た言葉を押しこんだ。
しんと静まる体育倉庫。慌しい足音が体育館のほうから――扉一枚挟んだ向こう側から――流れこんでくる。アンリちゃんの怒鳴り声も聞こえてきた。そういえば、もうすぐリハだっけ。
ふと、傍に転がるボールに気づく。茶色く変色した野球のボール。
我ながら呆れる。きっと、これにつまづいたんだ。私も不注意というか……
不注意……
――君の中には化け物がいる。
「!」
いつかの、ユリィの言葉が蘇った。
ぞくりと悪寒が走って、生唾を飲みこんだ。
化け物。ムシュフシュ――私の中に宿る化け物。私が気を失えば姿を現し、その場にいる者全てを喰らうというおそろしい化け物。
ただ……それは、私が自分の正体を知る前までの話だ。
今や、私は不死の身体。もう命を落とす危険はない。だから、私を守る存在も必要ないはず。今の私が、気を失うことがあるのかどうかも分からないのだし。もしかしたら、ムシュフシュももう消えたのかもしれない。
でも、確証はない。まだムシュフシュは私の中にいるのかもしれない。私に何かあったら、飛び出して、周りの人を傷つけてしまうのかもしれない。――和幸くんを襲うのかもしれない。
祈るようにかたく瞼を閉じる。
不注意だった、では済まされない。
もし、和幸くんに何かあったら……。
よかった――と、心の底から思う。和幸くんが無事で本当によかった……彼に何かあったら、私は――
「カヤッち、準備いい!?」
ガラリと扉が開く音とともに、天井を突き抜けるような甲高い声が飛びこんできた。私は思わず「きゃっ」と声をあげていた。
彼の背後、扉に手をかけ、はつらつとした表情で立っているのは……
「アンリ」と、和幸くんは呆れた表情で立ち上がる。「ノックくらいしろよ」
「ノックしなきゃいけないようなことしてたの?」
「な……バカかっ、お前は」
「で、カヤっち」真っ赤になる和幸くんはすんなり無視し、アンリちゃんは爛々と輝く瞳をこちらに向けた。「リハ、始めたいんだけど」
「あ、ごめん」
あわてて腰を上げると、アンリちゃんは私を――それも、全身くまなく――まじまじと眺め、満足げににんまりと笑んだ。
「褐色の肌に白いワンピース。純粋さの中にも妖艶な魅力をかもしだしてて……んふふ、狙い通り!」
「はい?」
狙いって?
「これで観客の邪な心を鷲掴みよーっ!」
「どういう狙いだ、アンリ」
アンリちゃんは、よっしゃー、とガッツポーズ。意気揚々とくるりと身を翻して体育館の中へと戻っていった。
アンリちゃん、気合入ってる。はしゃぐ彼女の姿に、顔が自然とほころんだ。
「てか……マジであの劇やるんだなぁ」
体育倉庫から足を踏み出し、開口一番、和幸くんはそうぼやいた。
体育館にはずらりとパイプイスがしきつめられ、その間をぬうように平岡くんや町田さんたちが駆け回っている。ステージの上には出演者。リストくんの姿が見当たらないけど……それ以外は準備万端。
和幸くんのテンションも下がるわけだ。
「今さら、中止になるとでも思ったの?」
「中止になるよう祈ってたんだけどな、もう叶わぬ夢みたいだ」
冗談っぽく言ってはいるけど、本心だろう。彼はこの劇にはずっと後ろ向きだったもの。きっと、気恥ずかしいんだ。彼は本物のカインだったんだもんね。
「本番はあと三十分後。手遅れ。そろそろ観念しなさい」
「そうだ」と、彼は不敵な笑みで振り返る。「ヒロインを『誘拐』したら中止になるかな?」
「え!? やだ、もう……なに言ってるの? だーめっ」
不意打ちだ。きゅん、としちゃった。
赤らんだ頬を隠すように、私はふいっと顔を背けた。
「この劇は成功させるの」
必ず――と、心の中で付け加える。
だって、この劇はアンリちゃんにとって、とても大事な……特別な劇だもの。
――この劇、実話なの!
劇への出演を断り続けていた私。そんなある日、神崎の屋敷に突然現れた彼女は、いきなりそう言った。
――私、会いたいの。私を『迎え』に来てくれたあの人に……私の王子様に。だから、協力して! この劇がもし注目を浴びたら、きっと、また私を『迎え』に来てくれる。また会える。そんな気がするの。だから、お願い!
突拍子もない話だった。カインが実在することについてさえ懐疑的だった私にとっては特に。でも、疑おうとも思わなかった。土下座でもするかのような勢いで私に訴えかけてきた彼女の目は真剣で、その表情は――恋をしていたから。
だから、協力させてほしい、と答えた。
この劇は、アンリちゃんにとっての『恩返し』。彼女を『迎え』に来てくれた王子様への贈り物。
私はきゅっと十字架を握りしめた。
カインに恋する少女の物語。もしかしたら、演技なんて必要ないのかも。――だって私には、少女Aの気持ち、よく分かるから。
* * *
「お前を呼んだ覚えはねぇんだけどな。何しに来たんだ、留王?」
腕を組み、蛇のように鋭い目つきで睨みつける静流。カインだったら顔面蒼白で震え上がっているはずだが、今回の獲物は違った。確かに顔色は悪いが、それは静流と会う前から。もはや、静流を見ようともしていない。思いつめた表情で足元を見つめている。
「曽良には、黙っていろ、と言われたが……我慢できない」
独り言のようにもごもごと言っている留王に、静流は苛立った様子で「ああ?」と聞き返す。
「んだよ? 言いたいことがあるなら、はっきり言え! 客が来てるんだ、あたしの時間を無駄に――」
「あの女、言ったんだ!」留王はつった目をかっと見開き、とうとう静流と真っ向から視線を交わした。「『あなたたち皆を殺す』って」
「……」
夢にも思っていなかった言葉だったことだろう。静流は硬直した。頬がひくつき、左目の下にある泣きぼくろがぴくぴくと動く。ようやくでてきたのは、「あの女って……」という――彼女自身も驚いただろう――弱々しい声だった。
「『虹の橋』で偶然会ったんだ」留王はこれまでのうっぷんでも晴らすかのように、早口でまくし立てる。「なぜここにいるのか、て聞いたら、あいつはそう言った。はっきりと言ったんだ。あなたたち皆を殺すためだ、と」
「あの女って……」
「曽良に、黙っていろと言われたんだ。俺に任せろ、手は打つ、皆には黙ってろ――そう言われてから、ずっと黙ってきた。だが……限界だ」
「あの女って誰のことだ……」
「曽良だってもう信用できない。手は打った、と何度も言うが、そんな気配なんてないじゃないか」
「――あの女って誰のことだ、留王っ!?」
雷でも落ちたかのような怒号があたりに木霊した。パニック状態でしゃべり続けていた留王も、はたりと押し黙った。
船の汽笛だけが虚しく響く。
「あの女ってのは……誰のことだ?」
わなわなと震えつつ、静流は押し殺したような声で再び問う。
「か……」留王は一つ深呼吸をしてから、ごくりと生唾を飲みこんだ。「神崎カヤだ」
その瞬間、静流の目は血走り、拳にははちきれんばかりに血管が浮き出た。ぎりっと噛んだ唇からは赤い鮮血が流れ出る。
留王はその様子に息を呑み、無意識にあとずさった。
「確かなんだね?」いつも以上に低いしゃがれた声が、留王の内臓にまで響くようだった。「確かに、神崎カヤがそう言ったんだな? あたしらを殺す、と?」
留王は緊張の面持ちで、だが、しっかりと頷く。
くそ、と静流は舌打ち混じりに悪態づいた。
「曽良のバカ野郎が」牙でも剥き出しそうな鬼の形相で、静流は憤怒のにじむ声を吐き出した。「何考えてやがる。なんで隠した?」
「あいつも、あの女に惚れてるようだった。もしかしたら……」
「惚れてる!? そんな理由であの子が女をかばうか」
「和幸だって、それが理由でカインを辞めた!」
静流は言葉を失ったようだった。開いた口がふさがらない――まさに、その様。
時が止まったかのように辺りが静まり返る。
静流は青白い顔で口許をおさえた。「和幸……」と消え入りそうな声をもらす。留王にさえ聞こえないほどの小さな声だった。
「和幸も曽良もあの女に騙されてるんだ。姉さん、早く何とかしないと、手遅れに――!」
「まずは曽良に話を聞きにいく。本当に何かしら手を打っている可能性もある。てめぇは余計なことはすんな、大人しくここで待ってろ」
先刻までの取り乱した様子は嘘のように消え、静流は落ち着いた様子でぴしゃりと言って留王の言葉を遮った。
「曽良の答えようによっては、あの女の『お片づけ』はあたしがやる。――美月にあとは頼む、て伝えておけ」
感情の伺えない平坦なトーンで留王に告げると、静流はくるりと踵を返す。ジャラリと音を鳴らしてポケットから鍵を取り出し――ふと動きを止めた。
怪訝そうに留王が見つめる中、静流はくるりと振り返る。穏やかな――しかし、厳しさをも漂わせた表情を浮かべて。
「よく言ってくれた。あとは任せな」
「……!」
留王はしばらくぽかんとしてから、緊張の糸でも解けたのか、泣き出しそうに顔をゆがめた。悔しそうに奥歯を噛み締め、うつむくと、
「恐いんだ、姉さん」搾り出したような声で留王はつぶやく。「あの女がたまらなく恐ろしいんだ」
「恐ろしい? おい、こら。情けねぇこと言ってんじゃ……」
「あの女……死なないんだ」
静流はぎょっとした。
「死なねぇ?」鼻で笑って、呆れたように顔を横に振る。「なに言ってやがる」
「本当なんだ、姉さん!」
そう怒鳴り、静流を睨みつける留王の表情は真剣そのもの。嘘じゃないんだ、と眼差しがそう必死に訴えている。静流がぞっとするほどに――。
「あの女は死なないんだ、姉さん」
血でも吐きそうな力んだ声で、留王はつぶやいた。