記憶に残る忠告
「これが文化祭……」
物珍しそうに目を瞬かせ、ぼんやりとつぶやいたユリィ。その茶色の瞳に映りこむのは、すっかりお祭りムードの校庭だ。屋台が並び、騒がしいBGMが響き、食欲をそそる香ばしい匂いや甘い香りが充満している。制服姿の高校生が歩いていなければ、到底学校とは思わないだろう。
ユリィは鼻をくんくん動かすと、
「お腹すいた」
「朝飯、人一倍食ったのは誰だ!?」
苛立ちもあわらに怒号をあげたのは、隣で不機嫌そうな表情で立っていた和幸だ。「それも人一倍遅いペースで」と憎らしそうに付け加えると頭をかく。
「あ」とユリィはぼんやりと口を開くと、和幸に振り向く。「怒ってる? オレのせいでパンドラと二人きりになれなかったから」
「……別に、そういうわけじゃ」
口ではそう言ってはいるものの、赤らんだ顔が図星だということを物語っている。
朝のカヤとのひと時を邪魔された上、ユリィの『マイペース』な朝食のせいで、予定よりだいぶ遅れて学校に着くはめになり、カヤをすぐにアンリに誘拐されてしまった。おかげで、和幸はこうしてユリィと二人きり(と一匹)で文化祭を回ることに。
『一般人』としての初めての文化祭。椎名もいない、曽良の盗聴もない、初めてのカヤとの二人きりのデート。……だったはずなのだが。
自然とため息が漏れるのも仕方ない。
――すみません、和幸さま。
心底申し訳無さそうな声が頭に響き、和幸はハッとして視線を落とす。足元にちょこんと座るシャム猫と目があった。
――どうかわたくしたちには構わず、パンドラさまのもとへ。ユリィはわたくしが面倒みますので。
面倒みるって……と、和幸は苦笑する。主人に対して使う言葉とは到底思えない。天使の苦労が垣間見えた気がした。
「いや、気にするな。衣装合わせをする、て言ってたし、どうせ、カヤを見つけたところでアンリに邪魔者扱いされて終わりだ」
猫に小声でそう答え、和幸はちらりとユリィを一瞥する。
興味津々に辺りを見回している少年。確かに、リストと同じく、目を見張る美しい容姿をしているが、そのぼうっとした表情からは想像もつかない。まさか彼こそ、人間を嫌う神、エンリルの子孫だとは。
――だから、朝ごはんは建前ですって。ユリィ・チェイスを預けに来たんですよ。
今朝のリストの言葉が和幸の脳裏をよぎった。
預けに来た――その真意を和幸は悟っていた。リストは自分にこの男を 監視してほしいのだ。『朝ごはん』という嘘も、和幸ではなく、ユリィやラピスラズリをごまかすためだったに違いない。それが分かっていて、むざむざユリィを野放しにするわけにはいかない。
ユリィがニヌルタの子孫である以上、そう簡単に気を許すわけにはいかない。和幸にもそれくらい分かる。
そもそも、こうして彼が自分たちと――特に、敵対する相手であるはずのリストと――行動を共にしている理由がはっきりとしていないのだ。信用しろ、というほうが難しいだろう。
――ユリィも天使に隠し事をすることもあるのです。
天使にさえ隠す理由とはいったい何なのか。それを知る方法が無いわけではない。ダメもとだが……
和幸は表情を強張らせた。緊張が走る。あたりの『お祭り騒ぎ』が嘘のように聞こえなくなった。
「なぁ、ユリィ」ごくりと生唾を飲み込んでから、ふと問いかける。「お前の兄貴に何があった?」
ぴくりとユリィの眉が動いた。表情が一瞬だけ変わった。それは間違いなく『動揺』だった。和幸の拳に力がこもる。足元で暴れる猫に一言謝罪する気にもならなかった。
「お前の目的は兄貴を使命から救うこと。そうなんだよな? 使命から救うって、どういうことだ?」
――和幸さま!
とうとう、叱責の声が和幸の頭に響く。が、ほぼそれと同時に、
「パンドラと兄さんは似てるんだ」
ユリィがぽつりとそう言った。
***
「似てる?」
思わぬ言葉に、俺は呆けた声で聞き返していた。ニヌルタの王とカヤが似てるって……どういうことだよ? 確かに、使命は同じなんだろうけど……。
「パンドラも兄さんも、愛してはいけないものを愛してしまった」
ユリィは喜怒哀楽のどれともつかない声でそうつぶやき、ゆっくりと視線を俺に向けた。その眼差しは、同情するような、責めるような、居心地悪いもので、俺は思わずたじろいだ。同時に感じる絶対的な何か。背筋がぞっとする――畏怖。
その瞬間、どこかで風船が割れる音がした。それをきっかけに、どっとあたりの喧騒が俺の意識の中に流れこんできた。そしてようやく思い出す。ここが校庭であること。文化祭の真っ只中であること。
いつのまにか止めていた息を吐き出し、俺は我に返って「どういう意味だ?」と訊ねる。
するとユリィは俺から目を逸らし、どこか遠くへ視線を戻した。
「兄さんも一度は人を愛した。だから、使命に歯向かおうとしたんだ」そこまで言って、ユリィは視線を落とす。「パンドラも同じ。パンドラも君を愛したからこそ、使命を捨てる覚悟を……」
急にユリィは口ごもった。なぜか、それ以上何も言わずに黙り込んでしまった。まるで凍ってしまったかのようにぴたりと動かない。
ちらりと足元の天使の様子を伺うが、猫も不思議そうに主人を見上げているだけだ。
俺はそっとユリィに歩み寄り、
「ユリィ、どうした?」
そう声をかけたときだった。急にユリィは顔を上げ、俺を食い入るように見つめてきた。驚いて俺はあとずさる。が、そんな俺の肩をユリィはがっしりとつかんだ。
「君なんだ」とユリィは急に声を上げた。「君が鍵」
「……は?」
「アナマリアが死んで、兄さんは……だから、きっとパンドラも……」
「何の話だよ!? アナマリアって……」
「この世界は君を失うわけにはいかない。君は死んじゃいけない」
何を言い出してるんだ、こいつは? 言っている意味も分からないし、さすがに……これは周りの目が気になる。
もともと、ユリィは目立つ容姿だ、ここに来たときから注目を浴びてた。それがこんな熱い演説を――しかも、妙な誤解を招きそうなシチュエーションで――始めてしまったら……。
俺は頬をひきつらせ、「とりあえず、場所を変えて話さないか?」と小声で促す。
が、そのときだった。
そんな俺の声をかきけす、悲鳴にも似た声が「ユリィ!」とあたりに響いた。
それは聞き覚えのある……しかし、こんな場所で聞こえてはいけない声で、俺はぎょっとして声の主を見下ろす。
「おい、ラピスラズリ! 声に出てるぞ」
「申し訳ありません、和幸さま。急用ができました。説明はあとで」
ぴしゃりと猫は俺にそう言い、ユリィに目配せすると雑踏の中へと走り出した。
幸運にもあたりが騒がしいせいで、誰も『猫がしゃべった』ことには気づいていないようだ。
「おい、どこに行く……」
「マルドゥクを捜す!」と声を張り上げたユリィの雰囲気もがらりと変わっていた。「君はパンドラのところにいて」
戸惑う俺にユリィはそれだけ言って、ラピスラズリのあとを追う。って、ちょっと待て。
「ユリィ! 勝手に動くな」
あわてて追おうとするも、どこからともなく現れた女子高生の軍団に阻まれ、地団駄を踏むことになった。ユリィの姿はあっという間に雑踏の中へ消え、俺は「くそっ」と舌打ちする。
「もうリハーサルだってのに……」
ひとりごちて校舎の時計を見上げた。九時半……そろそろ、アンリが騒ぎ出すな。
しかし、あの様子、なんだってんだ? ラピスラズリまで取り乱していた。
――マルドゥクを捜す! 君はパンドラのところにいて。
あいつが本当にリストを捜しに行ったのかは分からない。もしかしたら、俺を捲くためのでまかせかもしれない。何か企んでいるのかも……。
でも……なんだろうか、この感じは。あいつを追う気がしない。カヤのところに行かなくちゃ、という……あいつの言うことをきかなきゃならない、という……使命感。
ああ、そうだ。この感覚、身に覚えがある。
俺は鼻で笑って頭を抱えた。
リストと同じだ。あいつがこの世界の『真実』を俺に打ち明けたときと同じ。
「逆らえない」
参ったな。あいつも、本当に……神の血をひいてるのか。今さらながらに思い知る。
まあ、いい。どちらにしろ、俺にできることは、カヤの傍にいることだけ。あいつがたとえ何か企んでいるとしても、俺がカヤの傍にいれさえすれば大丈夫だ。
神の一族のごたごたは、もともとリストの管轄なんだし。
それよりも……と、俺は頭痛のようなものを覚えてこめかみをおさえた。
――君は死んじゃいけない。
あの言葉……記憶のどこかにひっかかる。前にもどこかで聞いたような気がする。
死ぬな、と以前も誰かに言われた。カインの誰かか? 親父? リスト? 違う。そうじゃない。もっと、違う何か。だが、思い出そうとするともやがかかる。眠気のような霞が意識を覆う。その奥に行けない。自分の記憶なのに、掘り出せない。引き出そうとすると……思い出そうとすると、誰かがそれを阻んで――
――お前は、絶対に死んではならない。
パチリと眩暈のようなものがした。俺はハッとして目を見開く。
――世界のためにも、パンドラのためにも、生きなければならない。お前がいなければ、全て終わりだ。
閃光のように一瞬通り過ぎたその声。懐かしい声。それは――カヤによく似た声だった。
更新、長らくお待たせいたしました。ようやく、活動再開となりました。今後ともよろしくお願いいたします!