リストの望み
「あのぅ、砺波さん?」
遠慮がちに呼びかけてくる声。馴染みの無い、か弱くも聞こえる少女の声だ。誰だったかしばらく思い出せなかった。寝起きの頭はぼうっとして、つい夕べのことも曖昧としていた。
「そろそろ、出かけませんか?」
今にも「ごめんなさい」と続きそうなほど、自信無げな声色だ。礼儀正しいというよりも、腰が低いというか。まさか、二十四歳だとはとても思えない。
ああ、そうだった。――ようやく砺波は思い出し、瞼を開いた。
「なんですか、鼎姉さん?」
目をこすりながら、砺波は身体を起こす。「うーん」と唸って伸びをすると、ちらりと横に視線をやった。
朝一番に目にしたのは、まばゆい朝の光の中、ちょこんと床に座ってこちらを見ている少女――いや、女性、か。流れるような黒髪は茶色みを帯び、白い肌はまるで新雪のよう。砺波の姿を映し出す二つの硝子玉は、灰色交じりの翠色。小さな顔に華奢な体つき。異国の人形のような容姿は、夕べ貸したジャージが似合わないことこの上ない。
夕べ、突然現れた鼎という名の女性。『フィレンツェ』で売られそうになったところを和幸が独断で『迎え』に行ったらしい。曽良も一枚噛んでいるのか、巻きこまれただけなのか、砺波は曽良に頼まれ、彼女を預かることになったのだ。
「姉さんだなんてやめてください」と鼎は照れたような笑みを浮かべた。「タメ口でいいですし、鼎、で結構ですよ」
「そう言われても……これからウチの一家に仲間入りするんでしょう? なら、私の姉さんになるんだし。タメ口なんか使ってたら、他の姉さんたちに怒鳴られますから。特に、ブチ切れしそうな姉さんが一人いますし。今のうちに慣れとかないと」
「でも、曽良は承諾してくれましたよ?」鼎が小首を傾げると、その細い髪が肩から滑り落ちた。「今後は白雪と呼んでくれる、て言っていましたし」
「白雪?」砺波は顔をしかめて嫌悪感をあらわにした。「また変なあだ名を……」
「そうですか? 私は気に入ってますが」
無理した様子も、嘘をついている風でもない。まさか本当に気に入っているのか。どうも調子が狂う。カヤを相手にしているような気分になった。
彼女から感じる懐かしさは、彼女がカヤに似ているからなのだろうか。だとすれば……ふと、砺波は思った。和幸もそれを感じたから、一人で彼女を助け出したのだろうか、と。
砺波はなんとも言えない腹立たしさを感じて、とにかく、と強い語調で話を切り替えた。
「曽良は例外なんです。あいつのことは別枠で考えといてください」
「ああ」と鼎は目を大きく見開いて、両手をぽんと合わせた。「曽良はリーダー代理ですものね」
「いや……そういう意味じゃないんですけど」
「違うんですか? じゃあ、どうして例外なんです?」
「まあ、そのうち分かりますよ」疲れたようにため息をつき、砺波はベッドから足を下ろす。「さて……軽く朝ごはんつくりましょうか」
すると、鼎は驚いたようにハッとして「いえ」と首を横に振った。「お構いなく!」
構わないわけにはいかないでしょう、と砺波は心の中でぼやいた。
「お腹すいてないんですか?」と訊ねる声に苛立ちがにじんでしまった。「私はかなりすいてるんですけど」
「じゃあ、リーダーのところに行く途中にでも何か買って食べませんか?」
どうもそわそわしている鼎に、「別にいいですけど」と言いつつも、砺波はいぶかしげな表情を浮かべて頭をひねる。
「砺波さんや曽良の育てのお父さんなんですよね。お会いするの楽しみです」
鼎はにこりと満面の笑みを浮かべてそう言った。
***
もともと、『災いの人形』に近づくためのカモフラージュにすぎなかったんだ。いつかどんな形であれ、殺さなくてはならない『災いの人形』――それがどんなものなのか、知っておきたかった。それがオレが背負えるせめてもの責任だと思った。
だから、『災いの人形』の通う高校に潜りこみ、彼女が参加している劇にも加わった。
使命を果たすための寄り道みたいなものだったんだ。
ただ、それだけだったのに……
「きゃー! やっぱり、かぁわいい!」
「思った通りだったわねぇ。リストくんなら、完璧似合うと思ったのよ」
「リストくんがいれば、ウチらのメイド喫茶が売り上げ一位間違いなしっ!」
同じクラスの女子三人組は、オレを囲んでやんややんやとお祭り騒ぎ。その声が被服室に響き渡る。
オレは「そう?」と鼻高々に、目の前に置かれた姿鏡を見つめた。
そこに映っているのは、ナンシェ――いや、違う。ナンシェよりも長いブロンドのウィッグをつけ、ひらひらとしたメイド服を着た、神の騎士。
つまり、女装したオレなわけで。
――なにしてるのさ、リスト?
呆れた声が頭の中に響いた。主のミニスカート姿にショックを受けている天使だ。
でもさ、ケット。スコットランドの紳士たちだって、スカートをはいているじゃないか。
――あれは伝統衣装! ぜんぜん、ちがうよっ!
短い両脚をだんだんと地面に打ち付けて、泣きわめく幼い子どもの姿が思い浮かんだ。
やっぱ、マルドゥク的にこの姿はアウト?
――男としてアウトでしょっ。
ずばりと言ったな。オレはくすりと笑った。
いやぁ、でも似合っちゃってるから。――腰に手をあてがって、心の中で言い放つ。もはや、ケットのため息すら聞こえなくなった。
先週だったかな。教室でのんびり午後のひと時を過ごしていると、いきなり彼女たちが突進してきて、「後生だから!」となんだか難しい言葉を叫んで頼みごとをしてきたのだ。
ニホン文化の一貫だ、とか言われてまるめこまれ――もちろん、嘘だとは分かっていたけど――こうして、メイド服を着ることに。
この学校の文化祭は、学年ごとに二、三個、大きな出し物を決めるようだ。どれに参加するかは個人の自由。参加しなくてもオーケー。あと、小規模なら部活やクラブ別に好きなことをしていいらしい。
結構、ゆるい文化祭だよね。オレなんて、一学年上の劇に参加するんだし。
「ねぇねぇ、こっちも着てもらおうよ」
「あ、いい、いい!」
なにやら、怪しい会話が聞こえてくるんだけど。
いつのまにやら三人組は、スポーツバッグを囲んでこそこそ話し始めていた。
皆、黒髪ロングの純和風の三人組だ。どうやら、茶道部らしい。部員不足に困っていて、この機会にイメチェンをはかって新入部員を募ろう、という計画だとか。で、なんだか知らないけど、オレに助っ人の白羽の矢が立ったようだ。
文化祭では劇以外に特にやることもないし、慈悲深い神の心で、快く引き受けた、てわけ。
しかし、メイド喫茶でどんなイメチェンになるんだろう。
「ね、リストくん! こっちも着てみて」
三人組の一人がくるりとこちらに振り返り、眼鏡の奥で瞳を爛々と輝かせて見つめてきた。その手には、紺のセーラー服が。
「メイド喫茶じゃないの?」
にこりと微笑んで訊ねると、眼鏡少女は頬を真っ赤に染めた。
「……私の個人的な趣味です」
もじもじとする眼鏡少女の後ろで、他の二人がそれぞれユニークな衣装を携えているが――まあ、いっか。
「じゃあ、着替えるねぇ」
わあ、と盛り上がる三人組。そこまで喜ばれちゃうと、こっちも一肌脱ぎたくなっちゃう、てもんだ。
――そういうの、お調子者、ていうんだよ。
お人好し、て言ってほしいな。
「廊下で待ってるからー」
オレにセーラー服を手渡すと、三人組は、きゃっきゃきゃっきゃ、と騒ぎながら教室を出て行った。
誰もいなくなった被服室はやけに静かで、文化祭の朝だというのが嘘のようだ。
じっと姿鏡を見つめていると、やがて、そこに映る自分が、遠い故郷に残した彼女の姿とダブって見えた。
真っ白な肌に透き通るような青い瞳。その藍玉は見ているだけで癒される不思議な魔力を持っている。煌くブロンドの髪は、収穫を前に祝福の黄金に染まる麦のよう。それが撫でる細い肩。微笑みはバラの花のように気高く可憐。それでいて、聖女のような神々しさがある。全てを許し、包みこむ――オレの罪をも浄化してくれるような、そんな圧倒的なオーラがある。
似ているんだ。オレたちは兄妹のように、そっくりなんだ。
でも、別人だ。決定的な違いがある。
彼女は神の子で、オレは……人の罪。
姿鏡からはナンシェの幻影は消えていた。
映っているのは、虚しく苦笑を浮かべる女装した少年。その手には、セーラー服。
なにをやってるんだろうな、オレは。笑えてしまった。
ナンシェを守るため、使命を背負い、それを全うするためだけに生きてきた。そのためだけに創られた。そのためだけに許された存在。
オレはなんとしても『災いの人形』を斬らなきゃいけないと思っていた。いつかどんな形であれ、殺さなくてはならない。だから、知っておこう、と思った。自分が滅ぼそうとしているものを。
だから、こうして普通の高校生のふりを始めた。だから、文化祭にも参加しようと思った。
全て、使命を果たすための寄り道だった。
ただ、それだけだった。それだけだったのに……
――リストくんはもう私を殺さなくていい。
彼女の言葉が脳裏をよぎる。あの覚悟に満ちた声が耳に残って離れない。
本当に、そんな未来があるのか。本当に、オレは使命を失うのか。――気づけば、そんなことばかり考えている。
おかしいな。もう覚悟は決めていたはずなのに。ナンシェのためなら、喜んで使命を受け入れる、と心に決めていたはずなのに。
どうして……そうだといい、と願っている自分がいるんだろう。いつから、ただのルルとして過ごす日々を楽しんでいたんだろう。
次話から、文化祭も始まり、そして物語は急展開を迎える......予定です!