祭りの前に -4-
「私が消えてから……和幸くんのこと、お願いしたいの」
は? 突然、なんだ?
わけが分からず、きょとんとしていると、本間先輩はちらりと視線で背後を示した。
「夕べね、ユリィが言ってくれたんだ。無いものは創ればいい。パンドラの使命とは違う、新しい選択肢を創ればいい。そう言ってくれたの」
「新しい選択肢……?」
ああ、そういえば、夕べユリィはそんなことを言っていたような気がする。パンドラに愛する人と生きる希望を与えた、とかなんとか……
そのとき、本間先輩を見つめるオレの眼差しはきっと憐れみに満ちていたと思う。ユリィの狙いは分からないが、これだけは言える。まず、そんな選択肢はない。偽りの希望なんだ。本間先輩に残されているのは――
「でもね、そんな選択肢は存在しない」
「へ?」
思わず、間の抜けた声をもらしていた。
本間先輩はそんなオレに、どこか寂しげな笑みを向けた。
「なんだか、分かっちゃった」
分かっちゃったって……そんな愛らしく言われても、こっちが分からない。訝しげに見つめる中、本間先輩は自分の身体を見下ろした。
「きっと、私が『災いの人形』だからなんだろうね。なんとなくね、悟ってたんだ。知ってたんだ。私の選択肢は二つだけ。それは絶対。変えることなんてできない。だから……気づけば、選んでたんだよ。もう覚悟していたの」
唇をぎゅっと引き結び、本間先輩は顔を上げた。その表情は真剣で凛々しくて、心底美しいと思った。神の人形なんだ――今さらながら、思い知る。
しばらくオレを見据えてから、本間先輩は大きく息を吸った。そして、
「私は『テマエの実』を食べない」彼女ははっきりとそう言った。「『裁き』はそれで終わり。――だから、リストくんはもう私を殺さなくていい」
「!」
その瞬間、時間が止まったようだった。転地がひっくりかえったような、目が回るような、滝つぼの渦に飲まれたような……動揺と混乱がうずまく、そんな混沌に飲みこまれた。
冷たい静寂の中、蛇口から漏れる雫の落ちる音が響いた。
――世界を滅ぼす存在になるかどうか、自分で選んでもらうんだ。
ユリィの言葉がよみがえる。本間先輩に全てを話そう、とあいつが持ちかけてきたときだ。
――彼女が決めるべきだ。彼女が人間であるうちに。彼女に自由意志があるうちに。
あのとき、ユリィはそう言っていた。今になって、その意味に気づく。
彼女が『テマエの実』を食べない、と決めたのなら、もう終わりなんだ。オレとニヌルタの決闘も意味を成さない。勝ち負けなんて関係ない。彼女が『テマエの実』を食べなければ、そこまで。世界は滅びない。
神の仕組んだ『裁き』が崩れたんだ。今や、全ては彼女の自由意志。彼女の選択次第。オレやニヌルタの使命は意味を失った。
でも……と、オレは拳を握りしめる。
――『パンドラの箱』が開かれ、エンリルの『裁き』が始まった。お前がここにいる理由は、マルドゥクの王となり、一族の使命を果たすこと。そして、ナンシェを守ること。分かってるな、リスト。
それは、記憶にこびりついた呪詛。幼いころ、あいつは何度と無くオレに言い聞かせた。気に食わないけど、懐かしいと思ってしまった。オレを創った男、先代マルドゥクの王、リチャード・ハノーヴァーの声。
忘れたことなんてない。思いあがったことなんてない。
オレが創られた理由。それは『災いの人形』を殺すため。『災いの人形』が『テマエの実』を食べ、世界を滅ぼすことを防ぐ。そのために、彼女を殺める罪を神の剣とともに背負う。――それがオレの人生。この世に存在したその瞬間から、そう運命づけられた。
構わない、と思った。ナンシェを知って、彼女のためなら、と思えるようになったんだ。納得させたんだ。
それが……もう、『災いの人形』を殺さなくていい? そんな未来を、考えたこともなかった。
いきなり見知らぬ土地に放り出されたような不安が押し寄せた。
「『テマエの実』を拒絶すれば、この身は滅んで土に還る。私は消える。和幸くんを残して」苦しげにつぶやき、本間先輩は胸元を握り締めた。「心配なの。彼のことが。彼にはもう支えてくれる家族はいないから。今の彼には私だけ」
だから、と彼女は力強い口調で続けた。懇願するような表情をオレに向けて。
「だから、知っておきたいの。『収穫の日』のあと、私が消えたあと……彼を助けてくれる人がちゃんといること。私のこと、『裁き』のこと、全てを知った上で、彼を支えてくれる人がいること」
「……分かりません」本音がこぼれた。思考回路が混線している。視線が泳いでしまう。「すみません。オレは……」
「『テマエの実』のこと? あの嘘のことを気にしてる?」
『テマエの実』の嘘――ぎくりとした。ハッとして本間先輩を見ると、黒曜石のような瞳がオレの姿を映し出していた。曇りも迷いも、そこにはない。あるのは、確固たる覚悟。
本当に、この人は決めたんだ。漠然とそう悟った。
「大丈夫」と本間先輩はやんわりと頬をゆるめる。「今夜、私が全部話すから。和幸くんは分かってくれる。怒ったりしない。私が消えて、彼がリストくんを恨むようなことはないから」
「全部、話す?」
思わず、眉をひそめた。
視界の隅で、ユリィが動いたのが見えた。ちらりと一瞥すると、ユリィは驚いたような表情でこちらを見つめていた。何か言いたそうだ。
今度ばかりは、あいつの考えも分かる。オレはユリィの代わりに問う。
「本当に、全部言うつもりなんですか? 今夜」
本間先輩はにこりと微笑んだ。その笑みはぎこちなくて、今にも泣きだすんじゃないかと思った。
「だから、お願い。パンドラとか、使命とか、そういうんじゃない。友達として、リストくんに頼みたいの」
友達として……『災いの人形』がそう言った。
「和幸くんをお願い」
* * *
「遅いな。なにしてんだろう」
リストが出て行き、しばらく経っても、カヤとユリィがリビングに来る気配はなかった。話し声が聞こえてくるから、廊下にいることはいるんだろうが。
様子を見に行こう、と立ち上がりかけた俺を鳩――いや、ラピスラズリが「和幸さま!」と引き止めた。
「なんだよ?」
それにしても、鳩に名前を呼ばれるって……妙な気分だ。どうでもいいが、焼き鳥屋でバイトしている、と言ったらどんな反応をするんだろう。やっぱ、嫌な顔をするんだろうか。
「今は、行かないほうがよろしいか、と」
行かないほうがいい? 嫌な響きのセリフだな。俺は鳩を試すような視線で睨みつける。
「なんでだ?」
「いえ」鳩はぎょっとして俺から目をそらした。「今は、深刻なお話をされているようですから」
そういや、天使とその主はテレパシーみたいなものができるんだったな。ユリィが何をしているのか、離れていてもラピスラズリには分かるのか。
俺は廊下のほうをちらりと見やった。深刻な話、ね。やろうと思えば、聴力を引き上げ、会話を盗み聞きすることもできるが……
「またどうせ、神サマがどうの、『裁き』がどうの、て話なんだよな」
「はあ」とラピスラズリは生返事をする。「そのようなお話のようですが」
「なら、いい。興味ない」
ため息をもらし、俺は天井を振り仰ぐ。
「興味がない……ですか」
「当たり前だろ。俺はパンピーなんだ」
「ぱんぴー?」
「あ、いや、なんでもない」と俺はラピスラズリに苦笑する。「とにかく、『裁き』に関する説明会はもうたくさんなんだよ。俺はカヤを守るだけだ。それだけ分かってれば十分だ」
「そうですか」
鳩は感慨深げに目を細めた。
まるで子どもを見守る母親の視線。落ち着かなくて、俺は「そういえば」と話を変えた。
「お前の主人、ニヌルタとかいう一族の一人なんだよな? リストの実家と敵対する一族って聞いたが、なんでその二人が仲良く同居してるんだ?」
「仲良く、というのは肯定しかねますが」ラピスラズリは苦々しくそう前置きし、「おっしゃる通り、ユリィはニヌルタの出です。人類を嫌う神、エンリルの血を引く者。人類を創り出した神、エンキの血を引くマルドゥクとは相容れない存在。ですが、ユリィは言うなれば、異端児。彼の意思は一族のそれとは異なるのです。ユリィは……」
急にラピスラズリは言葉を切った。逡巡してから、決意したかのように深刻そうな面持ちで――いや、鳩にそんな表情はないか。
「ユリィはただ、兄君を救いたいのです」
「救う?」
はい、とラピスラズリは頷いた。
「ユリィの兄君はニヌルタの王、タール・チェイス。ユリィはタールさまを追ってここまで来ました。残念ながら、まだタールさまの所在はつかめておりませんが、代わりにマルドゥクの王とお会いすることが出来ました。マルドゥクの王は、ユリィの主張をお聞き届けくださり、快く――とはいきませんでしたが、寝床を提供してくださることになったのです」
「……なるほど」
そういう経緯で同居が始まったわけか。詳しいところはまだ曖昧としているが、とりあえず流れは把握した。
しかし……それよりも、だ。
俺はある単語が気にかかって仕方なかった。当たり前のようにさっきからラピスラズリは違和感のある単語を繰り返している。
「兄貴って……」と俺は目を眇めて切り出す。「血は繋がってるのか?」
「もちろんですよ?」
なぜそんなことを聞くのだ? と言いたげな調子でラピスラズリは答えた。その反応に調子が狂った。
今のご時世、血の繋がった兄弟がいるのはおかしな話なんだが……天使が俺たちの事情に疎くても仕方ない、か。
「一人っ子政策、ていうのがあるんだが……」
「ああ、そのことですね」ラピスラズリはあっと目を丸くした。「ニヌルタは特別なのです」
「特別?」
神の子孫だから、免除ってことか? まさか、な。神の血をひいてるだなんだ、と言って誰が信じるんだ。
「ニヌルタはルルを毛嫌いしています。ルルは下等な種族――それが、ニヌルタの考え方なのです。ルルに従うことなど、彼らにとっては恥ずべきこと。それも、懐胎は、彼らにとって神からの恩恵です。全ての命はエンリルの意思によってこのエリドーに授けられるのだ、と信じています。ですから、それをルルに制限されるなど、屈辱以外のなにものでもないのです」
パンフレットでも読み上げるようにスラスラと言いきって、どうやら、とラピスラズリは低い声で付け加える。
「ユリィの話によれば、ニヌルタの血に宿りし偉大なる神の力、『メ』を使い、その規制をかいくぐってきたようです」
神の力って、リストと同じやつか? 人を従える力……だよな。それで役人をごまかしてきた――そんなとこか。
じゃあ、タールとかいう奴とユリィは本当に血が繋がっている?
「よく分からないな」
頭をかいてぼそりと言うと、ラピスラズリは小首をかしげた。
「なにがでしょうか?」
「俺はあいつのことをよく知らないが……カヤは『いい人だ』と言っていた。リストも一応、居候を認めたわけだし……とりあえず、世界を滅ぼそうとはしてないんだろ」
「もちろんです」と間髪いれずにラピスラズリは肯定する。「ユリィはルルの世界を守るためにここまで来たのです」
話を聞く限り、そういうことだろうな。――だからこそ、腑に落ちない。
「それは実の兄貴を裏切ることになるんじゃないのか?」
俺が指摘すると、ラピスラズリはしゅんとし、身を縮ませた。
「裏切る……そういう表現の仕方もあるのでしょうね。しかし、あくまでユリィの目的は、兄君を救うことなのです」
「救うって、何から?」
「使命からです」
余計、意味が分からない。
「もっと具体的に事情を教えてくれないか?」
すると、ラピスラズリは目を逸らし、「できません」とつぶやいた。
「わたしにも分からないのです」
「は?」おかしな答えが返ってきて、俺は目を瞬かせる。「分からないって……お前はあいつの天使だろ? 心が読めるんじゃないのか?」
「全てが読めるわけではありません。和幸さまがパンドラさまに隠し事をするように、ユリィも天使に隠し事をすることもあるのです」
「俺は、カヤに隠し事なんて……」言いかけ、口ごもる。――脳裏をよぎったのは、銀色に輝く十字架のネックレス。「いや、そうだな。してるわ」
一気に疲労感が押し寄せ、ため息が零れた。
「心は底なしのように深く、その奥底まで天使でも潜ることはできません。特に、ユリィの心には、どす黒いもやがかかった部分があるのです。強い拒絶の匂いが漂う暗く冷たい深淵。そこには、わたしは決して立ち入ることはできません。おそらく、兄君に関することは、その奥に隠されているのだと思います」
「つまり……天使にも言えないような理由で、あいつは兄貴を救おうとしているってことか?」
「そういうことになります」
ラピスラズリは真っ白な羽毛に覆われた首をもたげた。どこか寂しげだ。たとえ一部だけでも、主に心を閉ざされるというのは天使にとっては哀しいことなんだろう。
「兄貴を救う……か」
その言葉を反芻し、俺は視線を落とす。
兄貴、か――。
喉元が締め付けられるような息苦しさを感じ、俺は首筋を押さえた。自然と眉間に力がこもる。
「和幸さま、どこに行かれるんです?」
俺が腰を上げたときだった。ラピスラズリはあわてた様子で訊ねてきた。
「安心しろ。『深刻なお話』を邪魔しないよ」言って、ベランダを指差す。「俺も兄弟に用があるのを思い出したんだ」
「はい?」
ラピスラズリは不思議そうに目をぱちくりとさせた。その様子はまさに『豆鉄砲を食らった鳩』。俺はつい失笑してしまった。