祭りの前に -3-
「さて。じゃ、オレはそろそろ……」
そう言って立ち上がったリストを和幸は驚いた顔で見上げた。
「朝飯食べてくんじゃないのか?」
「だから、言ったじゃないですか。それは建前。本当は……」
「ユリィ・チェイスを預けに来ただけ――だったな」そうだった、と言いたげに和幸は頭をかく。「それにしても、だ。朝飯くらい食べる時間もないのか?」
食べていけ、ということだろうか。いつも自分を煙たがる和幸にしては珍しいホスピタリティだ。リストは気味悪く思いつつも、ちらりと時計に目をやった。
壁にかけられている時計の針は、まもなく八時三十分を指そうとしている。
「八時半。はい、ないです。じゃ!」
「じゃ、てな……」
「積もる話は劇の後にでも聞きますから」
どちらかというと、積もり積もった愚痴だろうけど。リストは、ユリィに振り回される和幸を想像してクスリと笑った。
「ラピスラズリ」
ふいに、落ち着き払った幼い声が部屋に響いた。
リストの足元に座っていた天使、ケットだ。ちょこんと正座をしたまま、ローテーブルの上で休んでいる鳩を真剣な表情でねめつけている。
「あとは頼んだよ」
「かしこまりました、ケットさま」
鳩がぺこりと丁寧に頭を下げるのを満足げに見届けて、ケットは金粉となって消えた。瞬間、リストはざわりと全身が粟立つのを感じた。背中に冷たい息を吹きかけられたような寒気。そして、緊張となってのしかかる重圧。
戻ってきた、と直感する。するとそれに応えるようにして、どこからともなく聞こえてくる天使の声。
――のんびりしている場合なの? 待ち合わせに遅れるよ?
ああ、そうだった。幼い叱責の声にリストは苦笑をもらす。
思い出したように「それじゃ、またあとで」と和幸に言い残すと、部屋から勢いよく飛び出した。
そこまではよかった。
あとは台所(といっても廊下だが)でカヤに軽く挨拶し、ユリィに余計なことをしないように釘を刺して出て行くだけ。そう思っていたのだが……
「って、えっ!?」
扉を開けてすぐ、リストは目を見開いた。思わぬ光景に出くわしたのだ。
張り詰めた空気の中、見詰め合う男女。それがカヤとユリィだとすぐに理解して――和幸が気づく前に、と――あわてて後ろ手に扉を閉める。
ユリィがカヤの婚約者のふりをして和幸の前に現れたのが、つい夕べのことだ。こんなシーンを見て、和幸が妙な誤解をしないとも限らない。
これ以上、余計な気苦労をかけるのは可哀そうだからね。そう心の中でひとりごちたリストだったが、それはしっかりと天使に聞かれていた。
――どの口が言ってるんだろうねぇ。
にやにやと勝ち誇ったような笑みを浮かべる幼い少年の顔が思い浮かんだ。どうやら天使に嫌味を言われてしまったようだ。口に出しては言ってないさ、とリストは鼻で笑って反論した。
「……えぇっと、お取り込み中でした?」
気を取り直し、リストが苦笑して訊ねると、カヤは「なんでもないの!」と叫んでユリィの腕から手を離した。しかし、なんでもない、という雰囲気ではない。
「リストくん、もう帰っちゃうの?」
そう訊ねるカヤの笑顔はひきつっている。
また、ユリィが何かいらないことをしゃべったのだろうか。ジト目で睨むと、ユリィは相変わらずぼうっとしてそ知らぬ顔だ。何を考えているんだか。ラピスラズリがいれば、ずいぶん話がスムーズに進むのだが……。
まあ、ここでユリィにかまっていても仕方ない、とリストは同居歴一週間の経験から結論づける。何か言おうにも、話を聞いているのかさえ定かではないのだから。
「和幸さんには言ったんですけど」ころりとリストは愛想笑いを浮かべてカヤに切り出す。「ちょっと約束がありまして。早い話が、ユリィのお守りを和幸さんに押しつけにきただけなんですよね」
「朝ごはんくらい食べていけばいいのに」
残念そうに、和幸と似たようなセリフをつぶやくカヤ。夫婦は似る、とはこのことか。見せつけられた気分になって、リストはにやついた。
「また今度ってことで」
肩を竦めてけろっとそう言い、リストはさっさとカヤとユリィの間をすりぬける。
「いってらっしゃい」
今にもあくびでもしそうな、ぼんやりとした声が背後からした。ユリィだ。
やれやれ、とリストは玄関に向かいながらため息をつく。振り返る気にもならなかった。
ユリィ・チェイス。その名を、心の中で唱える。
何らかのスイッチが入ると熱く語りだすようだが、スイッチがはいらなければ、いつもぼうっとして眠そうにしている。警戒するのもアホらしくなるくらいだ。しかし、それでも、ニヌルタの末裔。しかも、王の実弟だという。天使は『沈黙』はするが、嘘はつかない。ラピスラズリがはっきりと『ニヌルタの王が弟君』と口にしたのだから事実だろう。
リストはまだ完全にユリィを信用したわけではなかった。いや、そもそも、マルドゥクの王として、ニヌルタの血筋の者を信用するなどあってはならないことか。
今朝も、ユリィの子守、というよりも、ユリィの監視を和幸に押し付けにきた――というのが正直なところだった。ユリィをカヤに近づけておくのは落ち着かないが、和幸が近くにいれば大丈夫だろう。ここにユリィを置いていくほうが、ユリィを一人で放っておくよりははるかに安全だ。安心できる。そう思ったのだ。
漠然とした根拠――和幸がいるから、という理由だけで。
――頼れる友達がいるのはいいことだね。
玄関で靴を履こうかというとき、クスクスと面白がるような笑い声とともに嬉しそうな声が響いた。
リストはきょとんとして、思わず「友達?」と口に出して訊ねていた。身に覚えのない単語だったからだ。
――かずゆきのことだよ。
なにとぼけているのさ、とでも言いたげな口調だ。
リストはしばらく呆けて、「まさか」と吐き捨てるようにつぶやいた。革靴にかかとを押しこんで、つま先で地面をたたく。
「オレは和幸さんを利用してるだけ。『友達』とは言わないでしょう」
「そうなの?」
「!」
なんの前触れもなく、突然、背後からやんわりとした声がした。リストはぎょっと驚き、とっさに振り返る。
「残念だな。私、リストくんを頼りにしてるのに」
どこか哀しそうな、無理した笑顔。この地球でもっとも美しいとされる創造物は、今にも崩れ去ってしまいそうな儚さを纏ってそこに立っていた。
「頼り?」とリストは戸惑いつつも聞き返す。彼女が近づいてくる気配はおろか、ケットへの交信を口に出していたことも気づいていなかったのだ。動揺するのも当然だ。しかも――
「えっと……何の話ですか?」
頼りにしてる――よりにもよって、『災いの人形』に言われる日が来るとは思ってもいなかった。彼女は自分たちの立場をまだ理解していないのだろうか、とリストは疑問に思った。
彼女は『災いの人形』で、自分はそれを滅する立場にあるマルドゥクの王だ。彼女は自分にとっての脅威で、自分もまた彼女にとっての脅威だ。本来ならば、和気藹々と高校生活を共有する間柄などではない。まして、頼るなど……。
居心地の悪い沈黙があってから、カヤは困ったような、照れたような、複雑な笑みを浮かべた。
あきらかに様子が変だ。ふと気になって、彼女の背後に目をやる。流しの前でこちらを見守っているユリィの姿があった。らしくもない神妙な面持ちだ。
ついさっきの光景が――ただならぬ雰囲気で見つめあう二人の様子が、脳裏によぎる。悪い知らせでもあるのか。嫌な予感がして、リストは緊張に顔をこわばらせた。
しかし、リストの不安は裏切られることとなる。思わぬ形で。
それは悪い知らせではなかった。少なくとも、マルドゥクの王である彼にとっては。
カヤはすっと浅く息を吸い、覚悟をその表情に滲ませて口を開く。
「私が消えてから……和幸くんのこと、お願いしたいの」