祭りの前に -1-
朝っぱらから……いえ、しょっぱなから、大人な表現があります。苦手な方はご注意ください。(ストーリーに支障はないので、その部分だけ読み飛ばしていただいても構いません)
どこからか、朝を知らせる鳥の声が聞こえてくる。いつにも増してうるさい。ベランダに巣でもつくってるんだろうか。
「んー……」
眠い。頭がぼうっとする。
寝たの明け方だったもんな。部屋に帰ってきて、とりあえず風呂はいって制服に着替えて……で、さすがに疲れがピークに達して仮眠をとることに。それが五時くらいだったか。どれくらい眠ったんだろう。今、何時だ?
文化祭は九時からだが、遅刻したって問題はないだろう。出席はとらないし、それぞれ自由行動だ。とりあえず、劇が十時からだから、その三十分前には学校に行っとくか。
てことは、何時に家を出ればいいんだ? ええっと……ああ、だめだ。そんな単純な計算ももはやままならないほどに――眠い。
だるさがまるで金縛りのように身体をしばりつけている。
この感じ……懐かしいな。カインだったころを思い出す。
カインだったときは、『おつかい』で明け方まで命の綱渡りをしていた。睡眠時間をけずって、神経すりへらすようなことをしていたんだ。毎朝眠くてしかたなかった。それでも、「カインといえど、学業はおろそかにするな」という親父の教えがあるもんだから、学校を休むわけにもいかず、無理して登校していた。結局、授業中は眠気のせいで上の空。意味がなかったような気もするが。
とにかく、睡魔との闘いには慣れてはいるんだ。だから――
怨霊でもおいはらうかのように眉間に力をいれ、ぐっと重い瞼を持ち上げる。すると、目の前に真っ白な光の世界が広がった。
朝日は遠慮ってものを知らないようだ。ようしゃなく寝起きの眼に光線をそそぎこんできた。思わず目をつぶり、光を避けるように顔を横に倒した。
そのときだった。
「おはよう」
遠慮がちな、かすれた声が聞こえた。すぐそば。耳元で。
はっと目を見開いて、とびこんできた画に息を呑む。心臓がつかまれたような――たとえるなら、そんな衝撃が走った。
光に順応した視界に浮かび上がったのは、やわらかな輪郭。どこか、照れたような笑みを浮かべる少女の顔だった。俺の右肩――右腕の付け根あたりに頭を乗せて、上目遣いで俺を見つめている。
カヤだ。
艶やかな浅黒い肌。ほんのりと熱を帯びた頬。月を待つ宵闇のような深みのある黒い瞳。夜の女神はきっとこんな瞳をしているのだろう、と思った。
密着して横になっているせいで、彼女の感触が右半身に生々しく伝わってくる。身体の芯から熱がこみあげてくる――やばい、と直感的に思った。
俺のそんな非常事態に気づくわけもなく、
「前も、こんなことあったよね」カヤは瞼を閉じて唇にうっすらと笑みを浮かべた。今にも眠りに落ちてしまいそうな、穏やかな表情だ。「初めて、泊めてもらったとき。覚えてる?」
もちろん、覚えてる。俺は苦笑をこぼしていた。
二週間ほど前になるだろうか。寝ぼけたまま、誤ってカヤが寝ていたベッドにもぐりこみ……彼女の顔を見るなり、文字通りベッドから飛び出したんだ。
あの朝のテンパり具合といったら、笑いものだよな。微笑ましいなんてもんじゃない。思い出したくないくらい恥ずかしいんだが……
「あのとき……」そっと瞼を開き、カヤはぽつりとつぶやいた。「あのときにはね、もう和幸くんのこと、好きだったと思うの。だから、嬉しいんだ。こうして……今、和幸くんの腕の中にいられること」
思わぬ、告白だった。
胸がきしんだ。心臓に爪を立てられたような痺れにも似た痛みがかけぬけた。
一瞬にして睡魔が消え去り、だるさが抜けた。激しい電流が神経を走りぬけ、全ての感覚を覚醒させる。
ただ、頭だけはぼんやりとしたまま。のぼせたような、熱でもあるかのような、そんな感じだ。脳だけ寝ぼけているのだろうか。もはや冷静に感情や思考なんてものを処理する機能を忘れている。理性が薄れる。
体が勝手に動いていた。
「か……和幸くん?」
か細い声が下からした。
気づけば、俺は彼女に覆いかぶさっていた。朝日を遮り、カヤを影の中に閉じこめていた。
じっと見下ろしていると、カヤの頬が一段と赤く染まっていくのが分かった。さざ波立つ水面のように、戸惑いに揺れる潤み色の瞳。あきらかに動揺している。
だが、それでも、抵抗する気配はない。
俺も本能に抵抗する気はなかった。心臓が低い音を鳴り響かせている。緊張感からなのか、神経は研ぎ澄まされて、高揚感からなのか、息が上がっていた。激しい感情がみぞおちの奥で燃え盛っているのを感じた。
おもむろに身体をかがめ、手を彼女のスカートの下に潜りこませる。太ももに指を滑らせると、びくんと彼女の脚が反応した。とたんにカヤは耳まで赤くして、堪えるように目を瞑った。
そういえば、夕べもこんな反応だったな。つい、頬がゆるんだ。
さらに手を奥へと忍ばせていくと、「や……」と甘い悲鳴のようなものが彼女の唇からこぼれた。
引き寄せられるようにその唇を塞ぎ、激しく重ね合わせる。隙間からときおり漏れる弱々しい吐息のようなものが聴覚を刺激し、高まる衝動をさらにあおった。
やがてカヤの身体から緊張が抜けていくのを感じた。
もう無理だ、と思った。
うるさく騒いでいた鳥の声も、すっかり聞こえなくなっていた。
スカートから手を取り出して、服の上からその柔らかな感触を味わうように彼女の身体に手を這わせる。みぞおちまできたところでシャツをスカートから荒々しく引き抜き、そのまま、隙の出来た真っ白なシャツの下に手を――
「おはよ、かずゆき――て、わあっ!」
いきなり、あどけない悲鳴が真横から突き刺さった。ぎょっとして、反射的にカヤのシャツから手を引いて、振り返る。そして、仰天して目を瞠った。
「け……」と喉の奥から乾いた声が漏れでる。「ケット!?」
ベッドの横に突っ立っていたのは、八歳くらいの子ども。
黄金に輝く長い髪。琥珀をはめこんだような瞳。大理石で創られた彫刻ではないか、と思ってしまうほどの白い肌。しかし、ふっくらとした柔らかそうな頬が、彼が彫刻ではないことを物語っている。
袖も裾も有り余るほどのだぼっとした白いワンピース(みたいなもの)の上に、黒い布を左肩から身体にまきつけている。古代ギリシャを思わせる衣装だ。仮装パーティーにでも行くのだろうか、と思ってしまう。さらに、彼のまわりに舞う金粉のような光の粒子。
ただの子どもではないことは、一目瞭然。
そう、お取り込み中の人様のベッドルーム(といってもワンルームなんだが)に勝手に舞い降りてきたのは――天使。リストの守護天使、ケットだ。
ったく、どういうタイミングなんだよ。普通、天使って困ったときに現れてくれるものじゃないのか。こんなにありがたくない天使、他にいるだろうか。
もはやあきれ返っていた。
「なんの用だよ、ケット?」
俺はのっそりと体を起こし、カヤの上から退いた。カヤもあわてた様子で体を起こして、乱れた服を直す。ちらりとケットを一瞥するその表情には申し訳なさそうな色が浮かんでいた。
放っといたら「ごめんね」と言い出しそうだ。あきらかに向こうに非がある気がするんだが。
ケットはしばらく固まっていたが――それこそ、彫刻のように――突然、我に返ったように「ごめんなさい」と叫んだ。両目を小さな手で覆い、あたふたと後退さる。
いや、遅いだろ。
「ケットはなにも見てないよ! ごめんね、だってまさか朝からそういうことになってるとは思わなくて。ルルのそういった本能についてはよく分かってるつもりだったんだけど、まさか朝からそれが目覚めるなんて思ってなくて。責めてるわけじゃないんだよ。ルルは性的な誘惑には屈服しやすいんだよね。分かってるんだよ、だから、いいんだ。でも、まさか朝から屈服してるなんて……」
はいはい。悪かったな、朝から人間の本能を丸出しにして。
てか、誰か、神サマと天使にこの世のルールを教えてやってくれよ。人の家には勝手に上がらない、とか。なあ、出来るだろ、それくらい。
「いいから。なんの用なんだ?」
自然とため息がもれる。めんどうそうに頭をかき、ケットをジト目で睨んだ。
するとケットはおずおずと視界を遮っている指をひらき、その間から二つの黄玉をのぞかせた。
怯えた子犬のような目がじっと俺を見据えている。その純真でまっすぐな眼差しが、鋭い刃となって胸につきささった。
なんだろう。この落ち着かない気持ちは。
年齢制限に気づかずに、卑猥なシーンがもりだくさんの映画を茶々に観せてしまったときと同じ罪悪感が……
ええい、くそ。調子が狂う。気を取り直すように咳払いをし、「リストから伝言か?」と強い語調で訊ねた。
「うん、そうなんだ」
ケットはようやく手をおろし、遠慮がちに頷いた。言いづらそうな表情を浮かべ、黄金色の瞳を落ち着かない様子で泳がせている。
「えっと……あのね、リストとニヌルタ弟が、今から……」
今から?
その不吉な言葉にぴくりと眉を動かした――そのときだった。
ピンポーン、と間抜けにも思えるほど空気を読まない呼び鈴の音がして、
「今から、朝ごはんを食べに来る、て」
開き直ったのか、ケットはイタズラが見つかったような笑顔を浮かべて言った。