朝の会 -上-
「和幸と砺波、前、付き合ってたんじゃないの?」
「まさか。少なくとも、曽良兄さんからはそのような話は伺っておりません」
「ええ? だって、しょっちゅう、砺波は和幸の部屋に泊まってたじゃない。絶対、できてるのかと思ってた。やだ。じゃあ、和幸の誕生日に避妊道具をごっそり送ったの、無意味だったわね」
「アリサ姉さんらしい、卑猥なギフトセットですね」
「あら。かわいい弟たちの健全な性生活を守るのも姉の務めよ? 茶々」
「アリサ姉さんにだけは、わたしの性生活にぜひとも関わらないでいただきたいです」
「やだ! あんた、留王といつのまに、そんな関係に!?」
「そ……そういう意味ではありません! なぜ留王がでてくるのですか」
ごほん、とわざとらしい咳払いが響いた。
夢中で話しこんでいた二人――赤いカチューシャをした美女と、前髪を頭のてっぺんで留めている幼顔の少女――は、弾かれたように振り返る。
「お前たち……父親の前で、なんて話をしているんだ」
太陽が顔を出し始めたトーキョー。その朝日が差し込む小さな病室で、一人の初老の男がベッドに腰を下ろしていた。その頬がほんのりと赤いのは、傍らにある窓から注ぎこむ陽の光によるものか、はたまた……。
そんな男の背後で、くすくすと笑う声がした。ベッドに膝立ちして男の肩をマッサージしていた、おっとりとした顔つきの女だ。ベージュのシュシュで一つにまとめた黒髪を揺らしつつ、楽しげに笑っている。
「そうだ、いい機会です。報告させていただきます」ぴしっと姿勢を正して、お団子髪の少女――曽良の右腕、藤本茶々――は緑色のフレームに手をかけ、眼鏡をくいっとあげた。「アリサ姉さんの卑猥な発言は、他の兄弟たちに悪影響を与えています。この際、お父さんからきっちりと言ってください」
「悪影響?」茶々の隣で、ロングヘアーの女はあっと驚く。「いやぁねぇ、お父さまの行き届かない教育をわたしがしているだけじゃないの。実技まできっちり面倒みてあげてるんだから」
「ふ……不潔ですっ!」茶々は眼鏡の奥で、くりっとした大きな瞳をめいっぱい見開いた。振り返った勢いで、ズレ落ちそうになった眼鏡をかけなおしつつ、言葉を続ける。「そのような調子で、医師がつとまるとお思いですか? すぐにセクハラで訴えらるのがオチです」
「こんな美しい女医にセクハラされて、嫌がる男がどこにいるっていうの?」
漆黒に染まった長い黒髪を指先に絡めつつ、女は高らかに笑った。
無茶苦茶なことを言っているようだが、的を射ていた。彼女にはそれを堂々と言えるだけの美しさがある。
トーキョー中の才媛が集まる白亜女子医科大学のマドンナにして、カインの美姫――藤本アリサだ。
艶やかなロングの黒髪に映える、赤いカチューシャ。知性を漂わせる切れ長の目には、夕陽のようなオレンジ色のアイシャドウ。朝日をはねかえして輝く白い肌。薄桃色の瑞々しい唇。目鼻立ちの整った、まさに理想的な顔立ちに、ばっちりと完璧なメイクが乗せられている。
さらに視線をずらせば、ほっそりとしなやかな肢体。柔らかな曲線を描く、女性らしいくびれ。通り過ぎる男は皆振り返るだろう、とその様が安易に想像できる。
男のカインなら、一度は彼女に恋をする――そう言われているのも納得だ。しかし、そんな彼女も完璧ではない。
カインは彼女に恋をするが、それは『一目ぼれ』に限定される。なぜなら――
「てゆうか、そんなにマジになるってことはぁ……やっぱり、留王とデキてるのね」
にんまりと笑んで、アリサは声高らかに言い放った。
「違います! いい加減にしてください、アリサ姉さん」
「もぉ、照れなくていいのにぃ。姉妹じゃない。アドバイスしてあげるわよ」
「いりません」
「意外とツンツンしてる奴が、夜に赤ちゃん言葉で甘えてきたりするのよね。留王はどうなのかしらぁ?」
アリサは人差し指を頬にあて、妖しげな含み笑いを漏らした。
一気に、茶々のふっくらとした頬が紅潮する。
「品がない冗談はやめてください! 想像したくもありません」
悲鳴にも似た茶々の怒号が病室に響いた。しかし、アリサはひるまない。
「そうだ、どうせなら録音してよぉ。ばらまいてやろうかなぁ」
しなやかな指先で笑みがこぼれる口許を隠し、アリサはしとやかに笑った。――そう。カインの男たちがアリサに一目ぼれしかしない理由は、この中身と外見の不一致だ。
やがて、アリサと茶々の言い合いが始まった。といっても、一方的にアリサが茶々をからかっている具合なのだが。
もはや、彼女たちの父親――藤本マサルは止める力もわかず、ぐったりとして頭を垂らしていた。しかし、このまま時間が流れるのをのんびり待っていることもできないだろう。大事な『待ち合わせ』があるのだから。
藤本は困った表情を浮かべつつ、ちらりと窓際に佇む女に目をやる。
「なんとかしてくれ、静流。そろそろ、本題に入りたい」
藤本が助けを求めたのは、Tシャツにジーンズというラフな格好をした女だった。しかし、モデルのように様になっているのは、そのスレンダーなスタイルのせいだろう。
肩にふれる、きついウェーブがかった黒髪。背にした窓から差しこむ光が、彫りの深い顔立ちに濃い陰影を落としている。不機嫌そうではあるが、その落ち着きはらった表情には、十九とは思えない貫禄がある。
カインの裏番長とおそれられる、藤本静流だ。
低レベルな口論を繰り広げる姉妹を冷めた眼差しで見つめ、
「了解」
そうつぶやいて、面倒そうにため息をついた。
そんな静流の (カインなら震えあがるべき)様子も、ムキになって言い合いを続ける二人に届くわけは無く――
「アリサ姉さんは女としての自覚がないのですか。もうすこし、品性を磨くべきです」
「茶々にしてはやたらとつっかかるじゃないの。やっぱり、デキてるんだ」
「何度言えばいいのですか。いい加減にしてください!」
「だから、なにムキになってるのよぉ。あ……もしかして、他に意中の殿方がいるの?」
「ちがっ――」
ぎょっと茶々が目を見開いて、否定の声をあげようとした、そのときだった。――いきなり、耳をつんざく破裂音が衝撃とともにかけぬけた。
「!」
騒いでいた二人は目を点にして見つめ合い、硬直した。
ようやく静けさが戻った病室に、ぱらぱらと石ころのような欠片がどこからともなく落ちてくる。
「……」
長い沈黙。誰も声を出そうとはしなかった。
やがて藤本が、嫌な予感に胸の痛みを感じつつ、おずおずと振り返る。その瞳に映ったのは、朝日を背にした自由の女神像……いや、違う。天へと突き出した右手に抱かれているのは、たいまつではない。硝煙の匂いを撒き散らし、熱い息を立ち昇らせているそれは、鈍い光を放つ鉄の塊。――銃だ。
「冗談でしょ、静流」
呆れ果てたようなアリサの声がした。
自由の女神――否、カインの女帝は「さて」としゃがれた声を鳴らし、高々と掲げていた銃をゆっくりと下ろす。集まる視線の中、くるりと右手でそれを回して、ベッドテーブルの上に置いた。
「銃と言えば……」低い声でそう切り出して、静流は鋭い眼光を藤本へと向ける。「今日のレオン・リャンとの取引だな、親父」
藤本は言葉がでてこなかった。呆然として、それからがっくりと肩を落とす。
「ありがとう、静流」
もはや諦めたような声だった。
その背後では、この場でたった一人、始終にこにこと暢気な笑みを浮かべていた女が。
「相変わらず、がさつなんだからぁ。しずるんは」
弾むような声で言って、静流の幼馴染、藤本美月は満面の笑みで肩をすくめた。真ん中で分けた前髪をふわりと揺らし、両手をぱんと合わせる。
「さ、朝の会を始めましょう」