Nanshe 1:1
リスト・マルドゥク・ロウヴァーが、イギリスを旅立って二ヶ月ほど経ったある夜。リチャードの墓石の前で、リストとしばしの別れを告げたナンシェ・アブキールは、ロンドンからの電車に乗っていた。この日は友人のケリーと、ハロッズでちょっと買い物をして帰るつもりだったのが、つい夢中になって予定より遅い電車に乗ることになってしまったのだ。
「こんなに遅くなるなんて……」
自宅近くの駅について、ナンシェはため息混じりにそう言った。外はすでに暗く、腕時計は11時をさしている。
「タクシーで帰ろうかな」
お金は充分持っている。両親を心配させるより、お金の浪費で怒られたほうがましだ、とナンシェは思った。タクシーを捜そうと周りを見渡すと、それを待っていたかのように、一台の車がスイッと彼女の前に停車した。
タクシーじゃない。ナンシェにはすぐに分かった。その車の後部座席のドアに、見慣れた大きなへこみがあったからだ。自分がつけて母にこっぴどく叱られた傷。見間違うはずはない。母の車だ。ナンシェは確信した。あまりにも遅いから迎えに来たのかと思い、彼女が車にかけよると、窓が開いた。
「お母さ……」
とにかく、すぐにでも謝らなければ、と口を開いた彼女だったが、その窓の向こうに母の姿はなかった。
「ナンシェ・アブキール様ですね」
「え……」
窓から顔を出したのは、知らない男だ。
「ナンシェ様ですよね」
男はもう一度、そう尋ねてきた。
「はい。あなたはどちら様ですか?」
戸惑いつつもそう聞くと、男はにこやかにほほえむ。
「マルドゥク家の使用人です」
マルドゥク家の? とナンシェは首を傾げた。マルドゥク家というからには、つまりは本家の使用人ということだ。今まで、リスト以外に本家からわざわざ誰かがこの田舎町にくることなどなかった。なにか重大なことがおこったのか、とナンシェは少し不安になった。
だが、不思議なことがひとつある。なぜ、母の車に乗っているのか。ナンシェは、それが分からないうちは、念のため、車にそれ以上近づかないことにした。
「なぜ、本家の使用人がこんなところに?」
「実は、新しい頭首……リスト・マルドゥク・ロウヴァー様の件で早急にお話したいことがありまして……」
「え!? リストちゃん!?」
リストの名前をだされ、彼女に不安感が波のようにおしよせた。
彼女にとってリストは特別な存在だった。頭首争いで足のひっぱりあいをする一族の中で、リストだけは彼女に優しく、そしていつも味方だった。半年だけ年下のリストは、なぜかナンシェよりもずっと大人っぽくて、何かにつけていつも助けてくれた。ナンシェにとってリストは、小さいときからずっと『白馬の王子』だったのだ。
リストの名前がでた時点で、彼女は冷静さを失っていた。使用人と名乗る男の暗い表情が、さらにナンシェの心配をつのらせる。
「もうお母様にはお話いたしました。お母様は、わたしからでなく、お母様の口からあなたにお伝えしたいとのこと。さ、車に乗ってください」
「……」
* * *
心臓の鼓動が高鳴っている。リストちゃんは……大丈夫だ、て言ってた。
『王位継承は命と引き換え』。だから、リストちゃんは王位を継承しない限り、死ぬことはない、て…そう言ってた。きっと、大丈夫だよね。わたしは胸元に手をおいた。わたしはマルドゥクの女。こんなことで動揺しちゃいけない。冷静にならなきゃだめ。いつも毅然としていなくちゃ。
目をとじ、深呼吸する。
「わかりました」
わたしは目をひらき、運転席に座る男を見つめる。
「家までお願いします」
「お乗りください」
あれ。気のせいかな。なんだか、この男の人が笑った気がした。
後部座席に座り、シートベルトをしめる。
「では、出発しますよ」と男の人がいうと、車が動き出す。
そのときだった。
わたしの携帯がバッグの中で鳴っている。バイブの振動がひざをとおしてつたわってきた。
そういえば、家に無事ついたら電話をちょうだい、てケリーが言っていたから…心配してかけてきたのかも。わたしはそう思い、携帯を取り出した。
「あれ……」
画面に出ている名前に目を疑った。
違う。ケリーじゃない。ナオミ・チャンドラーとでている。でも……と、フロントミラーにうつっている運転席の男を見つめた。このナオミ・チャンドラーという女性はマルドゥク家の使用人だ。すでに、本家からの使用人がこうしてきているというのに、なぜ別の人物からも電話が来るのだろうか。
あ、そうか。わたしは、ふとひらめいた。この人が来るって、伝えるための電話かも。わたしはそう思い、電話にでた。
「ナオミさん? おひさしぶりで……」
わたしが言い終わる前に、ナオミさんの悲鳴のような声がきこえてきた。
「ナオミさん!? どうしたんですか?」
悲鳴じゃない。何かを必死に訴えている。何かをわたしに伝えようとしてる。でも、うまく聞き取れない。
「ナオミさん、落ち着いてください。どうしたんですか?」
「ニヌルタが……!!」
「え? ニヌルタ?」
わたしがようやく聞き取れたその言葉を口にしたとたん、車が止まった。受話器のむこうで、ナオミさんがまだ何かを必死に叫んでいる。
「あの、どうしました?」
運転席の男に尋ねるが、男はなにも返事をしない。道にでも迷ったのかな。わたしはとりあえず、ナオミさんを落ち着かせることにした。
「ナオミさん、落ち着いて。わたしは大丈夫よ。もう本家の使用人がきて…」
「え……」
ナオミさんは急に静かになった。やっと、安心したのかな、と思ったのも束の間、ナオミさんは今度ははっきりとした口調で怒鳴った。
「逃げてください、ナンシェお嬢様! あなたが、最後の一人なのです!!」
カチャッという音がした。前をみると、運転席の男が銃口をわたしに向けている。
「……」
言葉を失った。携帯電話からは、必死に訴えるナオミさんの声がもれている。
「あなた、は……」
「ゆっくり、電話をわたしてください。ナンシェ・アブキール」
わたしはいわれるままに電話をおそるおそる男にわたす。
「すこし、おそかったですね」
男はそう言って、電話をきった。
「この二ヶ月間……イギリス中をいそがしく飛び回りましたよ」
「え……」
「マルドゥク家とニヌルタ家は対立する一族。『災いの人形』をめぐり、邪魔をしあう宿命。
なんだか、まどろっこしくなりましてね」
ナオミさんは『ニヌルタが』と言った。そして、わたしに逃げろ、と告げた。まさか……と、わたしはもう一度、目の前の男をじっと見つめた。
「あなた……タール・ニヌルタ・チェイス?」
男は、不敵に微笑んだ。わたしはゾッとした。
リチャードおじいさまから聞いていた。ルルを嫌う神『エンリル』の僕である、ニヌルタ一族。わたしたち、マルドゥク一族の宿敵。その今度の頭首に選ばれた男は、とても残忍で凶暴だ、と。
アトラハシスの一族を皆殺しにまでした恐ろしい男……タール・ニヌルタ・チェイス。その彼が……目の前にいるなんて。わたしは恐ろしくて声もでなかった。
彼は、そんな様子のわたしをおもしろがっているかのように、口元をにやにやさせて話を続ける。
「考えたんです。もっとシンプルにできる方法はないか、と。
そこで、思いつきました。剣を継承し不死になったリスト・ロウヴァーはおいといて…
まずは、それ以外のマルドゥク一族を根絶やしにしよう、と」
思わず、はっと目を見開く。ナオミさんの、『最後の一人』という言葉が頭に響いた。
「まさか……」
「あなたで最後ですよ。ナンシェお嬢様」
「!」
タールは、引き金に指をおいた。
足が動かない。体が……動かせない。怖い。
「リストちゃん……」
いつもは神さまに助けを求めるのに……いざというときになって、わたしは『王子様』を求めていた。