インターミッション:孤独な怪物 -下-
子どもは残酷なほどに敏感だ。特に、異質なものを探知する能力にかけては超一流。その拒絶反応といったら……恐ろしいほどに正直だ。
だから、すぐに分かる。いつのまにか開いた他人との距離。自分は何かが違う、と。
オークションから連れ出され、初めて『外』にでたのが五歳 (ということにしている)。それから一年、『おけいこ』を受けた。『おけいこ』……誰がつけた暗号なのか、なんとも気の抜ける呼び方だが、カインノイエに連れてこられた子どもたちが最初にすることで、重要な行い――そうだな、通過儀礼のようなものだった。表のルールや常識を一から学び、そして俺のような商業用のクローンは『手加減』を学ぶんだ。
この『手加減』が一番難しい。教えるほうも、覚えるほうも。
俺のような特殊なクローンは、生まれたときから人並みはずれた筋力と五感を持っている。だから、それが当然だと思い込んでしまう。研究所なんていう外と隔離された場所に閉じ込められていれば、なおさらだ。なにが『普通』かさえ、学ぶ機会はないんだからな。
そんな状態でいきなり外に引っ張り出されても、すぐに適応できるわけがない。どこまで力を出したらいいのか、そのサジ加減が全く分からなかった。そのつもりはなくても、握手しただけで相手の指を折ってしまう。よくあることだった。
それだけじゃない。
なぜ、ベランダから飛び降りてはいけないのか。なぜ、わざわざ階段で降りなきゃいけないのか。なぜ、ドアをこじあけてはいけないのか。なぜ、鍵を開けなきゃいけないのか。
出来ることを我慢しなきゃならない。――それが理解できなかった。
なぜ、なぜ、なぜ……頭の中はその言葉でいっぱいだった。研究所での生活しか知らなかった俺にとって、世界は未知数で、そして厳しすぎたんだ。
数ヶ月経って、なんとなくだが、『手加減』はできるようになった。どう例えればいいんだろう。生卵を割らない、ぎりぎりの握力を覚えたような感覚……だと思う。うまく説明できねぇや。
でも、完璧ではなかった。ふとした瞬間に、力が漏れた。コップも皿も、何枚割ったか分からない。うまくいかなくて腹が立って、さらに物を壊して迷惑をかけた。
それでも、一年間。辛抱強く、『おけいこ』をしてくれたんだ。俺を『迎え』に来たカイン、俺を育ててくれた人――広幸さんは。
そのおかげで、『おけいこ』を終えてすぐ、学校に通えるようになった。カインの子どもが必ず通うことになる小学校だ。親父の知り合いが校長をしているらしい。どういうつながりなのかは誰も知らない。親父も話そうとしないから、聞かないほうがいいのだろう、と皆思っていた。
最初はうまくいっていた。『普通』の子どもたちと接するのは初めてで、ひどく緊張していたが……転校生に、クラスの連中は優しかった。
とはいえ、質問攻めには苦労した。広幸さんに叩き込まれた『嘘』を、ごく自然に答えなきゃいけなかったからだ。
俺は世田谷のバプティスト教会で育った孤児で、孤児の援助をしているボランティア団体の助けでこうして学校に通えるようになった――その『嘘』は、すぐに『事実』に変わった。広幸さん仕込みの俺の『演技』がそれを『事実』にしたんだ。
しかし、うまくいった、と安堵したのもつかの間、やがてそれは重荷になっていった。
その『事実』をこれからずっと背負っていかなきゃならない。一生、『演技』を続けなきゃならない。なんのためにそこまでしなきゃいけないんだ――という漠然とした不満がつのっていった。
たぶん、そのストレスもあったのだろう。ある日、つい……『手加減』を間違った。体育の時間、フォークダンスの練習中のことだった。なにがきっかけだったのか分からない。つい、力が漏れたんだ。相手役のクラスメイトの手首を折ってしまった。
その場は大騒ぎになったが、事情を知る校長がうまく丸め込んでくれたらしく、教師や保護者が騒ぎ立てるようなことはなかった。俺が足をすべらせて転びそうになった拍子に……確か、そんなシナリオだったような気がする。もちろん、でっちあげだ。だが、手をつないだ拍子に手首を折った――というよりも、信憑性があるだろう。
当然、怪我をした本人はそうはいかない。元々大人しい性格だったせいか、何も言おうとはしなかったが、その事故以後、俺と距離をおくようになった。そして、他のクラスメイトも徐々に離れていった。なんとなく感じ取ったのだろう、俺が異質な存在だ、と。
そのうち、俺は学校に行かなくなった。『世界』がうっとうしくなった。
「また、学校に行かなかったのか?」
責めるわけでもなく、からかうわけでもなく、広幸さんは明るい声でいつもそう訊ねてきた。
学校に行かなくなって、一ヶ月ほど経ったころだったか。冬の寒い夜だった。
広幸さんは高校から帰ってくるなり、学ランを脱ぎ捨て、「今日はなにしてたんだ?」と続ける。それも、いつものことだった。
くっきりとした二重に、やや垂れた目。下がり眉に特徴的な大きな耳。それらを全く隠さない短い黒髪。見た目も中身も、さわやかで優しさに溢れた人だった。どうやら、学校では『癒し系のお猿さん』と呼ばれていたようだったが……。
「本、読んでた」
ベッドによりかかり、カーペットに座りこんでいた俺はそう答えた。――嘘だった。本当は、一日中、考えこんでいたんだ。幼いなりに、悩んでいた。自分の存在。なぜ、ここにいるのか。それを見失いそうになっていた。
でも、広幸さんにだけはそれを言っちゃいけない。なんとなく、そんな気がして、一言もその胸のうちを明かしてはいなかった。
ただ、今思えば……あの人のことだ。気付いていたんだろうな。俺が言わなくても、全てお見通しだったに違いない。だからこそ――
「会わせたい子がいるんだ。外に出るぞ」
そう言って、広幸さんは俺にコートを差し出してきた。
連れてこられたのは、古いアパートの前だった。二階建てで、今にも崩れてしまいそうな長屋型の木造アパートだ。
カインが住んでいるにしては、粗末過ぎるな、と思った。だが、広幸さんが俺を連れてくるとしたら、カインの部屋しか考えられない。
「ここ、誰の家?」
じっと目の前のアパートを見つめて、ぽつりと訊ねた。すると、広幸さんは思わぬ名前を口にしたんだ。
「坂本みゆちゃんのおうちだよ」
坂本みゆ――俺が手首を折ってしまったクラスメイトの名前だった。
ぎくりとしてとっさに振り仰ぐと、広幸さんと目が合った。広幸さんは白い息を漏らす口許にやんわりと笑みを浮かべて、「そう」とつぶやいた。「謝らなきゃ」
俺の第一声は「なんで!?」だった。広幸さんから逃げるように後じさり、「なんで謝らなきゃいけないんだよ」とガキみたいなこと……いや、ガキらしいことをわめいた。
それでも、広幸さんは嫌な顔一つしなかった。俺を無理やり引き寄せるようなこともせず、その場にしゃがみこんだ。俺と目線を合わせるように。
「やっぱり、まだ謝ってないんだな」呆れたような口調だったが、それでもその眼差しは暖かみのあるものだった。「悪いことをしたら、謝らなきゃいけないんだよ」
「悪いこと……しようとしたんじゃない。わざとじゃ……」
口ごもって俺はうつむいた。
罪を逃れよう、とか、弁解しよう、とか……そういう気はなかった。ただ、悔しかったんだと思う。無性に悔しかった。そんな俺の気持ちを量ったかのように、
「手をつなごうとしただけだよな」
慰めるような、柔らかい声だった。ハッとして顔を上げると、広幸さんは「分かってるよ」とだけつぶやいた。
こみ上げてくるものがあって、俺は両手を固く握り締めた。やはり力が漏れて、血がにじむほど手の平に爪が食いこんだ。
「表の世界は」と、広幸さんはおもむろに語りだした。目を側め、どこか憂いに満ちた表情で。「表の世界は、俺たちには暮らしづらいところだ。たくさん嘘をついて、たくさん我慢しなきゃならない。理不尽なことばかりだ」
聞いたことのない広幸さんの声だった。苦しげで、怒りすら感じられた。それでいて、今にも消えてしまいそうな儚さまであった。不安になって、俺は引き寄せられるように広幸さんに歩み寄ろうとした。
そのときだった。
「でも」と、いつもの広幸さんの明るい声がして、足が止まった。優しげなとろんとした目で俺を見つめ、広幸さんは晴れやかな笑みを浮かべて言った。「でも、いいところなんだ」
説得するような、力強い一言だった。
俺はぎょっと目を丸くした。いいところ? どこが? そんなの嘘だ、と思った。
首を横に振ると、広幸さんは苦笑して、
「そのうち、そう思える日がくる。じゃなきゃ、俺は……」
口ごもって広幸さんは視線を落とした。
何かを言いかけたようだったが……何を言おうとしたのか、俺は今でも分からない。ひどく不安そうな表情だったのをよく覚えている。
だからこそ……あのとき、なにを言おうとしたのか――ずっと訊ねられなかった。
「それに」と、弾けた声で切り出したときには、広幸さんの表情にもう影はなかった。「お前には俺がいる。他の兄さんや姉さんもいる。表で我慢したぶん、俺たちにぶちまければいい。どうしても我慢できなくなったら、俺が『迎え』に行ってやる」
広幸さん――広幸兄さんはそこまで言って、俺に手を差し伸べた。
「な」と兄さんは掠れた声で言った。「そのための兄貴だろ」
頼む、と言いたげな熱のこもった口調だった。懇願するような眼差しだった。
「一緒に謝ろう」
納得したわけではなかった。答えがでたわけではなかった。でも……いいところだ、という兄さんの言葉を信じたいと思った。
俺は差し出された手をしっかりと取った。外に出よう、と誘われたあの夜のように。『手加減』せずに握っても、兄さんの手が壊れることはない。受け止めてくれる。顔をしかめることもない。握り返してくれる力が嬉しかった。
兄さんには我慢しなくてよかった。そんな存在があったから、表の世界で演じ続けていられたんだと思う。
広幸兄さんがいる。その事実がずっと支えていてくれたんだ。
まあ、そのあと、曽良と砺波が現れて……もはや自分のことで悩んでいる場合じゃなくなったこともあるんだが。あいつらのおかげで、ずいぶん精神的に鍛えられた。良くも悪くも……。
* * *
「曽良くんと砺波ちゃん……うん、分かる気がする」と私はくすりと笑って、彼の背中に問いかける。「それで……その子に謝ったの?」
「ああ。なにをいまさら、て顔されたけどな」
振り返る様子はない。二歩先を歩きながら、彼は感慨深げに答えた。
「そっか」
丁度、短い橋にさしかかったところだった。街灯もない、真っ暗な闇にかかった橋。彼と私の足音だけが辺りに響いていた。
彼がどうしていきなりこんな話を始めたのか、正直さっぱり分からない。
本間の屋敷を出てから、彼はずっと黙り通しだった。あんなことがあったあとだもの。動揺していて当然。無理に話しかけてもよくないだろう、と私も黙っていた。
すると、突然、彼は思い出話を始めたのだ。それも、彼が小学生のときの話。
意図は分からなかったけど……彼が自分の過去を語ることは珍しかったから、嬉しかった。特に、自分から広幸さんの話をしてくれたことは初めて。
育ててくれたお兄さんだもの。彼にとって特別な存在のはずなのに、広幸さんの話をしてくれたのはたった一度だけだった。料理を誰に教わったのか――私がそう訊ねたときだけ。それも、ほんのちょっと。
聞いちゃいけないことなのか、と思ってたんだ。私は首をつっこんじゃいけないのかな、て。だから、嬉しい。なんだか、やっとお兄さんに紹介してもらえたような気分。つい笑みがこぼれてしまう。
「和幸くんが優しいの、広幸さんに似たんだね」
できれば、会ってみたかったな。さすがにそれを口にすることは憚られて、心の中で言い添えた。広幸さんに一番会いたいのは、和幸くんに違いないもの。
遠くでバイクの轟音が木霊していた。暴走族……かな。もう四時前。夜明けまで走り続けるつもりだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていると、
「俺は運がよかっただけだ」
急に彼は立ち止まり、深刻そうな低い声でつぶやいた。「え」ときょとんとする私の前で、彼は鉄製の手すりに手をかけた。
「どうか……した?」
私も立ち止まり、遠慮がちに訊ねた。
彼は手すりによりかかって遠くを見つめている。暗くて彼の表情は伺えない。もう少し近づこうかとも思ったけど……彼の雰囲気がそれを阻んだ。なぜだろう、今の彼は近づきがたい。縮められない距離を感じる。
「この世界にクローンの居場所はない。クローンとして生まれて、この世界で生きようとすれば……必ず壁にぶちあたる。どこにいっても必ず、阻まれる。必ず、だ」
私を見ようともせず、彼は淡々と語った。私は口を挟むことも出来ずにそばで立っていることしか出来なかった。
「あいつもきっと、そうだったんだ。世界との溝に苦しんで生きてきたはずだ」
悔しそうな口調だった。
「あいつ……?」
一台のバイクが近づいてくる音が聞こえてきた。足元に影が落ちて、それは徐々に長く伸びていった。やがて耳をつんざく音が通り過ぎ、一瞬だけ、つらそうな彼の横顔がはっきりと見えた。
見覚えがあると思った。どこか影のあるその表情……カインだった彼のものだ。
不安にかられて、焦ったように訊ねていた。
「誰の話をしているの?」
まるで責めるような口調になっていた。しまった、と思ってももう遅い。言い直すのも変だし……。
彼はすぐには答えなかった。
表情が伺えないのがもどかしい。
「和幸くん?」辛抱強く待つことができずに、つい呼びかけてしまった――そのときだった。
「兄貴……だったかもしれない」
和幸くんは消え入りそうな声でつぶやいた。
「あにき?」
思わぬ言葉に目を瞬かせ、私はそう聞き返す。
「誰かが『迎え』に行っていれば……」と息苦しそうに言って、和幸くんは首をひっかくようにつかんだ。「あいつも俺の兄貴だった」
悔しさを噛み締めるような言い方だった。胸が張り裂けそうなほど、痛々しい声。
「足りないんだ」と彼は搾り出したような声で続ける。「俺たちだけじゃ足りないんだ。三神さんの言っていた通り。カインだけじゃ、どうにもできない。兄弟を救いきれない」
私は何も声をかけられなかった。ただ黙って、立ちつくした。
なぜかは分からない。でも……できれば、彼が口にした今の言葉を全て、聞きたくなかったと思った。