危険な同情
銃? どこから出した? 持っていたのか? 気付かなかった。いや……確認しなかった。
なにやってんだ、俺は。凡ミスだ。相手が武器を持っているかどうか、確認もしないでつっこむなんて……ガキのケンカじゃねぇか。
まずい。頭が回らない。状況が整理できない。こんなこと……今までなかった。少なくとも、『殺し屋』をしていたときは……こんなミスはしなかった。こんな、短慮な行動はとらなかった。
「だから、君は子どもなんだよ」
ぎくりとした。薄暗いリビングで、かちりと聞き覚えのある音がした。俺を同情するような笑みを浮かべて、男が……椎名望が撃鉄を起こしたのだ。その銃口はしっかりと俺の頭を狙っている。
撃つ気か? いや、まさか……
「嫌いじゃないんだけどね」
冷静な、それでいて落胆したような声色だった。
心臓が脈打つ音が早まる。味わったことのない緊張感が身体を走った。体が動かない。
撃つわけない。こいつに俺を撃つ理由はないはずだ。こいつは、カヤのボディガードだぞ。俺を撃つ理由なんてない。撃つはずがない。そうに決まっている。なのに、なぜ……確信がもてない?
撃たれる、と思っている自分がいる。殺される、と覚悟している自分がいる。こいつは――敵だ。その感覚は、いつもこいつに感じている嫌悪感とはまるで違っていた。苛立ちとか、腹立たしさとか、そんなものはなかった。ただ純粋に、危険だ、と思った。
椎名の指が引き金にかかる。俺は呼吸をするのも忘れて目を見開いた。やばい、撃たれる。そう覚悟した、そのときだった。
「ばん!」
「!」
思わず、びくんと体が震えた。カヤの小さな悲鳴が聞こえた気がした。何が起きたのか、一瞬分からなかった。
「……は」
安堵からなのか、困惑からなのか、すっとんきょうな声が浅い息とともに漏れた。
今のは……椎名の、声?
「あっはは」と、銃声を警戒していた鼓膜に届いたのは、高らかな笑い声。「冗談だよ、冗談!」
俺を睨みつけていた銃口がくいっと天井を向く。そして、
「ごめん、ごめん」と、言葉とは裏腹に、まるで反省している様子のないおどけた声が笑い声に続く。「いやぁ、藤本くん……いい顔してたぁ」
椎名は銃をさっさと腰にしまうと、立ち上がってソファから降りた。あっけに取られる俺の目の前に立ちはだかると、くいっと左手で右腕を――俺が掴んでいる二の腕のあたりを――指差す。
「腕、離してくれるかな」
人を見下すような目つきで見下ろし、口元に笑みを浮かべる。
俺は呆然として、身動き一つとれなかった。まだ心臓が騒いでいる。頭の中がごったがえしている。
「やりすぎちゃったかな」と苦笑して、椎名は俺に顔を近づけてきた。男のくせに、香水の(たぶん)匂いがした。そして、囁くように言う。「ところで……カヤちゃんと仲直りできたみたいだね。おめでと。手伝ったかいがあったよ」
その瞬間――カヤの名前が出た瞬間――俺は目が覚めたかのように我に返って、椎名の右腕を放り投げるように離し、今度は胸倉を掴んだ。
「っざけんなよ!」吐き捨てるようにそう怒鳴りつけ、胸倉をぐいっと引き寄せる。といっても、ボタンが全部しまってないから、大して意味はない。シャツの皺を伸ばしてやったようなものだ。何もかも、にくたらしい奴だ。
俺は肺にたっぷり空気を取り込んで、喉がはりさけんばかりの怒声を放つ。
「カヤを襲おうとしたのも、冗談だったってのか!?」
几帳面に整えられた椎名の眉がぴくりと動いた。
俺はぐっと唇を引き結ぶ。堪えるように鼻から息を吐き出し、椎名の答えを待つ。
そう、俺をからかったのは大目にみるさ。今に始まったことじゃない。どうでもいい。でも……
俺はちらりと横目でカヤを見やった。ソファにへたりと座り込み――俺が撃たれると本気で思っていたに違いない――怯えた表情でこちらを見ている。髪は乱れたまま。ブレザーのジャケットも皺だらけだ。
椎名のシャツを掴む手が震えた。怒りが爆発寸前だ。
ぎりっと奥歯を噛み締めて、眼球に痛みが走るほど、椎名を睨みつける。
俺のことはいい。でも、カヤにしたことは許せない。俺にカヤの悲鳴を聞かせたことだけは絶対に許さねぇ。
「なかなか、トリッキーな質問をしてくるね」
しばらく間をおいてから、悪びれた様子もなく、椎名は鼻で笑った。
「トリッキーだ!?」
「だって」と、わざとらしく困ったような表情を浮かべて椎名は口角を上げた。まるで挑発するような笑みだ。「冗談じゃなかった、て言ったらどうするの?」
「……なに?」
「本気だった、て言ったら、どうするの?」
思わず、言葉を失った。何が言いたいんだ、こいつは?
「想像してごらんよ。僕が本気だったら……カヤちゃんはいまごろ、僕の下で――」
何かが切れた。
考える前に、体が動いていた。
* * *
それは本能的なもの。無意識だった。感情に突き動かされるまま、和幸は身体を動かしたのだ。その結果が、禁じたはずの『暴力』につながることなど、考えている余裕もなかった。
左手で望の胸倉を掴んで、右腕をふりかぶる。脇をしめ、左足を前に出す。あごをひいて、腰の回転をつかって、勢いのままに右拳を繰り出した。
その一連の動きは流れるように、滑らかかつ迅速に行われた。望は防御の姿勢を取る暇もない――はずだった。
「和幸くん!」
悲鳴に近いカヤの静止の声。たった一瞬のことだった。ほんの一瞬、和幸の拳は失速した。
その隙を望は見逃さなかった。
カヤに気を取られてひるんだ和幸の拳を左手ですばやく払いのけ、胸倉を掴んでいる和幸の左手首を右手で掴む。ぐいっとそれを外側に捻りつつ、和幸が次の動きに入る前に、即座に左手で和幸の首を掴んだ。がっしりと、その手の甲に血管が浮き上がるほどに力強く。
「ぐっ……!」
望の胸倉をつかんでいた和幸の手が離れた。当然だ。人の胸倉をつかんでいる場合ではない。自分の喉が今にもつぶされようとしているのだから。だが、その手首も望に拘束されていて、首の救出へは向かえない。
あいている左手で、首を締め付けるそれを必死につかむ。片手で掴まれているだけだというのに、息苦しさは尋常ではない。そもそも、和幸は商業用のクローン。その肉体は改造強化されている。手が伸びてきたときに、瞬間的に首に意識を集中させた。首の筋肉は全力で抵抗しているはず。左手もそうだ。さっきから望の左手首をつぶす気で力をこめている。手加減はしていない。
だというのに、まるで効果がない。それどころか、圧迫感はじわじわと増している。大蛇が巻きついてくるようだ。
足元がふらつき、宙にでも浮いているような気分になった。今にも意識を失ってしまいそうだ。血がめぐっていない。顔が熱くなっていく。このまま血液が溜まって、頭のどこかで血管が破裂するんじゃないか、と思った。みしみしと軋む音が聞こえてくる。眼球が飛び出しそうになって、瞼をかたく閉じた。
力が入らない。抵抗する力が……
気が遠のく。
ぼんやりとする意識の中で、誰かが叫んでいるのが聞こえてきた。ずっと遠くで……いや、違う。香りがする。甘い香り。心地よくて、愛しい……彼女の香り。すぐ、そこに――
「望さん、やめて!」
悲鳴に近いその声が鼓膜を貫き、和幸はハッと目を見開いた。
その瞬間、首に巻きついていた大蛇がするりと逃げて、一気に酸素が戻ってきた。これでもかというほどに大きく息を吸い、そのままその場に崩れ落ちる。全身に力が入らず、立っていることもままならなかった。
「あッ……ぐ」
喉が圧迫されていたせいで、声もまともに出せない。四つんばいになって咳き込みながら、横隔膜に痛みが走るほど大きく空気を吸いこんだ。それでもまだ酸素が足りない気がして、咳きの合間に荒い呼吸を繰り返す。
「和幸くん!」
今にも泣きそうな少女の声。カヤだ、と分かっても、その名を口にすることも今はつらい。声を出す余裕さえない。
すぐ隣でしゃがみこむカヤの脚が視界の隅で見えた。
「和幸くん、大丈夫!?」
背中が暖かくなる。カヤがさすってくれているようだ。
大丈夫、と言いたいが、それも叶わない。とにかく、酸素が欲しい。
「殴りかかってくるから、つい」と、背後からのんきな声が聞こえてきた。「年上にそんな態度はいけないよ、藤本くん」
和幸はうずくまりながら、拳を握り締めた。
死ぬか、死なないか、そのぎりぎりで望は楽しんでいたようだった。和幸はそれをはっきりと感じ取っていた。
殴ってやりたい、と思うのが普通だろう。振り返って、全く同じことをしてやろう、といきりたっても不思議じゃない。
だが……和幸に先刻までの勢いはなくなっていた。怒りに我を忘れてしまいたいくらいだが、そうもいかなかった。食いとどめているものがある。理性ではない。それは『同情』だ。
段々と呼吸が落ち着いてくるにつれ、頭も冷静になってくる。それにつれて、ある予想が現実味を帯びてうかびあがってきたのだ。まさか、と思っても、それしか考えられない。否定しようにも、文字通り、痛いほど味わってしまった。
「まったく……最後まで聞いてほしいなぁ」と望はソファに腰かけ、ため息混じりに切り出した。「僕が言いたかったのは……男が本気で襲おうと思ったら、カヤちゃんみたいなか弱い女の子、簡単だってこと。だからこそ、こうして僕がボディガードをしているんだ。感謝される覚えはあっても、殴られるのは心外だよ」
何事もなかったかのように、望は飄々と語った。
和幸はもはや反論する素振りもみせなかった。それを見かねてか、カヤはすっくと立ち上がり、「望さん!」としかりつけるように怒鳴った。だが、それ以上、カヤの叱責が続くことはなかった。その代わり――
「いったい、何事だね!?」
憤慨した低い声がリビングに響き渡った。
* * *
混沌としていた空気を秩序の刃が切り裂いたかのようだった。あたりにぴりっと緊張感が走る。
リビングに姿を現したのは、寝巻き姿のおじさまだった。眉間に深く皺を刻み、鋭い眼差しで辺りを見回している。
さすがにこれだけ騒いでいたら、二階で寝てても起きちゃうよね。私は「ごめんなさい、おじさま」と努めて落ち着いた声色でおじさまに言って、それから望さんに視線を戻した。
望さんは左手をポケットに突っ込んでソファに座っている。あわてる様子もない。余裕の笑みで私を凝視している。私が何も言わない、と思っているのだろうか。
私はごくりと生唾を飲み込んで、すっと息を吸い込む。
「今夜のことはもう冗談じゃすみません」
望さんにだけ聞こえるように、そうつぶやいた。本気だ、と分かってもらえるように、声も低くし、睨みつけるような視線を浴びせた。それでも、望さんは特に顔色を変えることもなく、肩を竦めるだけだった。
脅しているだけだ、と思っているのだろうか。それとも、和幸くんをあんな目にあわせておいて、何も感じていない? 冗談ですむ、と思っているの?
やるせない気持ちになった。ぎゅっと拳を握り締め、キッとおじさまに振り返った。
「ボディガードはもういりません」
はっきりとそう言いきる。すると、おじさまは眼鏡の奥で小さな瞳を目いっぱい開けた。
「なにを……急に!?」
「詳しい事情は、望さんから聞いてください」
それだけ言って、私はしゃがんだ。喉をおさえてうずくまっている和幸くんの腕をとると、「行こう」と無理やり起こす。
もう少し、休ませてあげたいけど……彼をこれ以上、望さんの近くにいさせたくはない。
「悪い」と、和幸くんはふらつきながら立ち上がる。その声は……彼らしくなかった。掠れていて、苦しそうで……胸がしめつけられる。
「おい、カヤ? どこに行くんだね?」
和幸くんを支えつつリビングを出て行こうかというとき、おじさまが立ちはだかった。困惑の表情が浮かんでいる。
それはそうだよね。突然、こんな光景を見たら驚くに決まっている。第一、和幸くんがここにいること自体、おじさまにとっては不可解なことなのだろうから。
「彼の部屋です」私は正直にそう言い切った。もう嘘をつくのも、くだらなくなってしまった。「文化祭には、彼の部屋から真っ直ぐ行きます」
「和幸くんの部屋から? いや、待ちなさい。ウチで休んで、それから二人で行けばいいじゃないか。なにも、一度和幸くんの部屋に行かなくても」
「和幸くんにも用意がありますから。制服に着替えなきゃいけないですし。一度帰らないと」
おじさまは何も知らない。親切心で言ってくれているとは分かっていても、つい言葉に棘が……。八つ当たりをしているみたいで申し訳ない。おじさまは何も悪くないのに。
でも、今はとにかく彼をこの家から出さなきゃ。ううん、早く、あの人から引き離さないと。
「それに」と私は背後に振り返り、ソファに座ってこちらの様子を伺っているボディガード……いえ、元ボディガードに一瞥をくれた。「ウチの中は危ないみたいですから」
望さんはやはり焦る様子もなく、微笑を浮かべただけだった。
普段から、人を軽視するような言動が多かったけど……ここまで危ない人だとは思っていなかった。冗談で人に銃口を向けて、おまけに首を絞めるなんて……。ちょっといじわるなだけで、本当は優しい人に違いない、て思ってたのに。
――もう少し、人を疑わなきゃだめだ。
いつかの、曽良くんの厳しい言葉がよみがえる。
こういうこと……だったのかな。
「勝手にあがりこんで、すみませんでした」
一晩、歌いあかしたようなつぶれた声が聞こえた。ハッとして振り返ると、和幸くんが神妙な面持ちでおじさまを見つめていた。その顔色には赤みが戻ってきていて、少しほっとした。おじさまを見つめる目は充血したままだけど……。
「いや……それはいいんだが」と、おじさまは顔をしかめた。「いったい、何があったんだね」
おじさまは本当に心配そうだ。まじまじと和幸くんの顔を見つめ、「まさか、望が何かしたのか?」と不安げな声で訊ねてきた。
私はぎゅっと和幸くんの腕をつかむ。望さんが自分で説明するべきかとも思ったけど……もういっそのこと、和幸くんが全て話したほうがいいのかも。もし、しゃべれるのなら。
私はちらりと和幸くんの顔色を上目遣いで伺った。そして、「え」と眉をひそめる。
なぜか、その横顔に浮かんでいたのは、寂しげな色だった。
「何でもありません」和幸くんは一度咳払いをして、さらりとそう答えた。「お騒がせしました」
「!?」
何でもない?
「和幸くん、何を言って……!?」
思わぬ言葉に驚愕する私を、和幸くんは視線で制した。首を横に振り、青ざめた唇に穏やかな笑みを浮かべる。
どうして……笑顔?
「行くぞ」と短く促し、彼は唖然としている私の腕を引っ張って歩きだした。
「え、あ……」
「和幸くん、待ちなさい」
私と同じくらい……ううん、私以上におじさまは困惑している様子だった。状況が把握できていないだけに、無理やり引き止める気にもなれないのだろう。「待ちなさい」とは言っているものの、声は弱々しく、何か行動しようという動きはない。呆然と立ち尽くして、通り過ぎる私たちを困り果てた表情で見つめているだけ。
「藤本くん」
リビングから一歩出たときだった。背後から、級友にでも呼びかけるような親しげな声が聞こえてきた。
ぞくっと背筋に悪寒が走る。――望さんだ。
その声に、謝ろうという気配はない。いつも通りの、軽い調子だ。何を言い出すつもりなのか、不安が襲って私はとっさに振り返る。
「望さん、もうこれ以上は――」
「今、幸せかい?」
「!」
急に何を聞くの? それも……何事もなかったかのような、笑顔で。もう望さんのこと、全く分からない。相手にするべきじゃないのかも。この人、危険だ。
私は和幸くんに振り返り、「行こう」と言おうと口を開けた。でも、その言葉が出てくることはなかった。振り返って目にした和幸くんの表情に気を取られたのだ。
ついさっき、首を絞められたっていうのに……不思議なくらい、落ち着き払った表情だった。冷静に、望さんをじっと見つめている。まっすぐに……憎しみも怒りもなく、ただまっすぐに望さんを見つめている。こんなときに、その深みのある瞳に私は見とれてしまった。
「あなたはどうなんです?」
和幸くんは感情の伺えない声でそう答えた。
リビングは不気味な静寂に包まれて、やがて望さんが鼻で笑うのが聞こえた。