ボディガード
「朝練があるので……先に学校にいきます。夕べはすみませんでした。――カヤ」
和幸くんは抑揚のない声で読み上げて、「ふぅん」と鼻にかかった意味ありげな声を出す。
「ふぅん?」とマネして、私はダイニングテーブルに上半身を乗せるように身を乗り出した。「何か言いたそう。なぁに?」
「え?」私が訊ねたのが意外なような声を出し、和幸くんは慌てて持っていたメモ用紙を私に差し出す。「いや……いいんじゃないか」
「もう……相変わらず、嘘が下手」
そこがまた好きだったりもするんだけど――とは言わず、和幸くんから手の平サイズのメモ用紙を受け取る。そこにボールペンで書かれているのは、ついさっき彼が読み上げた文章だ。
寝静まった屋敷。誰もいないダイニング。普段から広いな、とは思っていたけど、こうして二人だけでいると余計にそう感じる。不気味なほどの静寂の中、リビングの時計の針が刻む音がよく響く。声を潜めていても、二階で眠っているおじさまや休んでいるガードマンに聞こえてしまうんじゃないか、と心配になる。
そんな中、電気をつけるわけにもいかなくて、キッチンの窓からこぼれる月明かりを頼りにメモ用紙をながめて、私は小首を傾げた。あきらかに、彼は言いたいことがあるみたいだった。でもなんだろう? 漢字が間違ってるわけでもないし。
メモ用紙とにらめっこをしていると、斜め横で立っている彼が「いやぁ」と頭をかくのが視界のはじで見えた。
「確かに、不良みたいだな、と思ってさ」
「不良みたい? なんのこと?」
やっぱり思うところがあったんだ。つい、笑いそうになるのを堪えた。かわいい、て言ったら、怒るよね。
「ほら」と苦笑して、和幸くんも私と同じように上半身をあずけるようにダイニングテーブルに寄りかかった。「沖野さん……だっけ。あのおばさんが言ってただろ。俺はカヤを非行に走らせる不良だ、て」
確かに、真麻さんはそんなことを言っていた。あれは……そうだ。和幸くんがベッドにもぐって隠れていたとき。おじさまから私を心配する電話がかかってきて、真麻さんが取り次いでくれたんだ。それで、そのあと……そのあと……
「カヤ? 聞いてるか?」
「はい!?」びくっと大げさなほどに反応してしまった。背筋を伸ばし、メモ用紙を今にも破りそうなほど力強く掴んでいた。和幸くんは訝しげな表情で「大丈夫か?」と見上げてきた。
「ダ、ダイジョウブ」
本当は……大丈夫じゃない。どうしよう。顔が熱い。さっきのこと、思い出しちゃった。ベッドの上で彼に抱かれ……て、だめ、だめ。思い出しちゃだめ。二時間かけて、やっと落ち着いたんだから。
身体の奥からじんわりと熱がこみあげてくる。私は和幸くんから顔を隠すように横を向いた。
「こうして逃げるようなマネして、情けないっつーか。それもお前に嘘までつかせて……不倫でもしてる気分だ」
ちらりと横目で見ると、和幸くんは腰を折ってダイニングテーブルに頬杖をつき、悩ましげに眉間に皺をよせていた。疲れたような……ううん、呆れたような表情を浮かべてはいるけど、まるでいつも通り。私だけ、変に意識してるみたいで……恥ずかしいくらい。
じっと見つめていると、その視線に気付いたのか、彼の黒い瞳がこちらに向けられて、ばちりと目があった。
「あ」と間の抜けた声が漏れて、あわてて顔をそむける。「し、しかたないよ。時間かけて、真麻さんにも分かってもらえば――」
ごまかそうと適当に取り繕ったその言葉に、自分ではっとした。思わず、口ごもる。身体にこもっていた熱が一気にひいた。
なに、舞い上がってたんだろう。寂しさと情けなさが襲ってきた。読む気もないのに、メモ用紙に視線を落とす。
時間……なんて、ないじゃない。あと、一ヶ月。それで私の時間は終わり。和幸くんともお別れだ。あと……一ヶ月。
焦燥感と悔しさ。そして、きっと……苛立ち。思わず、唇を噛み締めていた。
「そうだな」
「!」
不意に、囁くような優しい声が背後からした。え、と振り返ろうとしたときには、ぎゅっと後ろから抱きしめられていた。
いつのまに、後ろに……? 全然、気配なんてしなかった。さっきまで、斜め隣で頬杖をついていたのに。
くびれにまわった彼の腕にぐいっと引き寄せられて、身体が彼に密着した。赤面するのを感じた。何も考えられなくなって、ぼうっと前を向いたまま、固まってしまった。
「時間をかければ、いいんだよな」つぶやく彼の吐息が首にかかる。「俺たちには、これからがあるんだから」
噛み締めるような言い方だった。熱のこもった口調。力強く、言い聞かせるような……
ああ、そうなんだ。私を勇気付けようとしているんだ。大丈夫、俺たちには未来がある。そんな心の声が聞こえてくるみたい。
――『テマエの実』なんて食べさせない。この世界で……ずっと一緒に生きていこう。
彼のまっすぐな愛のこもった言葉が私を苦しめる。泣きそうになるのをこらえてうつむいた。
彼の腕がさらにぎゅっと私の身体を強く引き寄せる。彼との間に空気さえも入る余地はないように思えた。私たちを隔てているのは衣だけ。それが邪魔だと思ってしまう。脱ぎ捨ててしまいたい。そうしたら、また……彼に近づける。――あのときみたいに。
ついさっきなのに、すっかり遠い昔に感じてしまう。夢だったんじゃないかと疑ってしまう。ベッドの上で、彼の肌を、体温を、息遣いを、鼓動を、その全てを全身で感じたあの時間。
どうしてだろう。さっきまで、思い出すだけでも恥ずかしくてたまらなかったのに……こうして、抱きしめてもらっていると――どうでもよくなってしまう。いっそのこと、理性なんて奪いとって欲しくなる。あの感覚が恋しくてたまらない。身体ごと、全てを愛される感覚。彼に支配される感覚。また、味わいたいと思ってしまう。彼が欲しくてたまらない。あのときの自分に嫉妬してしまうほどに。
私はそっと彼の腕に手を這わせた。ふうっと息を吐き、彼に身を任せるように身体の力を抜いた。
そう、ずっとこうしていたいんだ。ずっと、彼の傍にいたい。彼に包まれていたい。また、何度でも彼を肌で感じたい。でも……
「ねぇ、和幸くん」それは叶わない願い。「話さなきゃ、いけないことがあるの」
もう十二時は過ぎた。魔法は解けた。残っているのは現実だけ。私はもう『お姫さま』じゃない。
メモ用紙をきゅっと握り締めた。言おうと思った。いい加減、幻想に酔いしれるのはやめよう。私は『お姫さま』なんかじゃない。私は不死の化け物。世界を壊すしか能がない悪魔。彼には知る権利がある。知らなきゃいけない。
「あのね」と、振り返った。しぼりだした勇気と、無理やり固めた覚悟ともに。しかし――
「やべ……!」
突然、彼はするりと腕をほどいた。「へ」ときょとんとする私に「うまく追い出せ」と残して、彼は脱兎の勢いでダイニングテーブルの中に潜り込んだ。
って、なにしてるの?
「か……和幸くん?」と、身をかがめて覗き込もうとすると、イスとイスの間で小さくなりながら彼はあわてた様子で手を左右に振る。すごく……必死。その様子は、確かに不倫でもしているかのようだ。まるで、浮気相手の夫から逃げているようで――
そっか。私はハッとして身体を起こした。和幸くんは商業用に『創られた』クローン。身体は改造されてて、私なんかよりもずっと優れた身体能力を持っている。五感も例外じゃない。だから、暗闇でも全部見えてるし、どんなに小さな声でも聞こえてるからな――なんて、さっきも言われて……て、やだ。また思い出したら……
顔が熱くなるのを感じて頬をおさえた。胸が苦しくなって、ため息が自然と漏れる。彼と離れた途端、こうなっちゃうの? ずっと抱きしめててもらうわけにはいかないのに。我ながら呆れてしまう。砺波ちゃんがいてくれたら、子どもじゃないんだから、て喝でも入れてくれるんだろうな。
「!」
そのときだった。
リビングのほうで――といっても隔てている壁はないから、つながっているのだけれど――扉が開く音がして、私は弾かれたように振り返った。
そして、目にとびこんできた人物に、私は息を呑む。
やっぱり、そうだったんだ。彼が突然、隠れた理由。それは……近づいてくる人の気配を感じとったから。私には感じ取れない何かを、いち早く察したんだ。足音だったのかもしれないし、息遣いだったのかもしれない。とにかく、彼には分かったんだ。誰かがこの部屋に入ってくることを。果たしてそれが誰か、までは彼にも分からなかったのだろうけど。
だって、誰が姿を現すかを分かっていたら、彼はもっと不機嫌そうにしていたに違いないもの。舌打ちでもしていたはず。
「あれ、カヤちゃん? こんな時間になにしてるんですか?」
間延びした、明るい声だった。
切れ長の目はぼんやりと半開き。しかも、夕べのままの服装だ。といっても、シャツのボタンは全部はずれていて、もはや袖を通しているだけ。鍛えられた肉体があらわになっている。そんな格好のせいなのか、だらしなく乱れた黒髪まで色っぽく見えてしまう。ううん、色気が漂っているのはいつものことかも。
あきらかに、寝起き。てっきり、見回りでもしているのかと思ったけど……
「望さんこそ、どうされたんですか?」
ダイニングテーブルに近づけないように、と私はリビングのほうへ歩き出した。ひきつらないように気をつけつつ、なんとか笑顔を顔に貼り付けて。
よりにもよって、現れたのは、和幸くんが嫌う私のボディガードだった。
* * *
「どうもこうも……調べものしてたら、寝てしまって。居眠りはするもんじゃないですね。嫌な夢をみちゃいましたよ。で、コーヒーでも飲もうかな……って、まあ……僕のことはいいですから」へらっと微笑んで、端整な顔立ちの青年、カヤの護衛人――椎名望は腰に手をあてがった。「カヤちゃんは、なにしてたんです? 制服なんか着ちゃって……」
さっきまで眠そうだったのが嘘のように、その眼差しにはいつもの鋭さが戻っている。ちらりと壁の時計を一瞥すると、「夜中の三時ですよぉ」と白々しく不思議そうにつぶやいた。
カヤの笑顔は自然とひきつる。夜中の三時に制服を着て、真っ暗なダイニングに一人。確かに、怪しまれるのも当然だ。まあ、不審に思われるだけなら問題ない。ここに実はもう一人いることさえ、バレなければ。
ダイニングテーブルの下に潜んでいる彼。その存在にもし気付かれたら、家政婦の沖野真麻が怒り狂うだけではない。おそらく、養父である本間秀実もさすがに気を悪くすることだろう。先週の『誘拐』騒ぎや、先週末(卒業パーティーの夜)の『夜遊び』の件もある。これで、夜中に男を――それも、別れた、と言い張った男を――部屋に連れ込んでいたことが知れたら、最後通牒でもつきつけられて、今後一切信用してもらえなくなるかもしれない。高潔な本間の性格を考えれば、充分あり得るシナリオである。
カヤは望に気付かれないように、メモ用紙を右手の中でぎゅっと丸めた。こんなんだったら、和幸の言うとおり、置手紙なんて残さずに、また屋根の上から飛び降りるべきだったかもしれない、と後悔し始めていた。
いや、今さら後悔してもしかたがない。カヤは気を取り直し、
「今日の文化祭のことを考えたら、緊張して眠れなくなっちゃって……」
望に歩み寄り、滑らかな口調でそうごまかした。しかし、その言い訳は「なぜ制服を着ているのか」という疑問まではカバーしていない。望もそれに気付いているのだろう。「へえ」と不敵に笑んで、目を眇めた。
リビングにはコの字にローテーブルを囲んだ大きなソファが置いてある。カヤは望の前で立ち止まると、そのソファのはじ、背もたれの角に左手をかけた。
うまく追い出せ、と彼に言われたものの、どうやって追い出せばいいのやら。いい策が思いつかず、カヤは目を側めて黙り込んだ。
妙なことに、望も何も言わない。居心地の悪い沈黙がしばらく続き、カヤはちらりと望を見やる。すると、すました表情でこちらを見ている彼と目があった。やはり何も言わず、望はにこりと微笑む。――どうやら、ずっとこちらを見つめていたようだ。それを悟って、カヤは恥ずかしさにうつむいた。
そもそも、シャツは着てはいるものの、ボタンをしめていないせいで、まるで半裸状態。そんな男性と、真っ暗な部屋で向かい合っているこの状況。ついさっき男の体というものを知った カヤには、刺激が強すぎる。目のやり場に困るし……落ちつかない。さらに、動揺している自分が、まるで望を意識しているかのようで、後ろめたささえ感じた。
「あのぅ」と遠慮がちに望を見上げた。おずおずと割れた腹筋のあたりを指差すと、申し訳無さそうに苦笑する。「よかったら……しめてもらえます?」
言われて、望はしばらくぽかんとした。なぜか、すぐにはしめようとはしなかった。何を考えているのか、自分の身体を見下ろし――ややあってから、「いやですねぇ」とカヤに呆れたような笑みを向けた。「そんな態度とられたら、そそられちゃうじゃないですか」
しめよう、という気配はない。いや、その前に、そそられる? カヤは「はい?」と目を瞬かせる。
すると望はくつくつと笑い、ゆっくりとカヤに近寄ってきた。
不穏な雰囲気を感じ取り、本能的にカヤはあとじさろうとした。が、カヤのその手首を掴み、望はぐいっと引き寄せる。
「え……っ!」
悲鳴をあげる暇もなく、景色が激しく流れる。ダンスで一回転でもしたかのようだった。ワケも分からないまま、気付けばソファに仰向けに押し倒されていた。その状況を理解したときには、大きな影が自分を覆っていた。誰かが自分に馬乗りになっている。
「!」
あまりの出来事に、頭が真っ白になっていた。抵抗することもできなかった。目を大きく見開き、呆然としてしまう。
そういえば、さっきもこんなことがあった。こうして、衣服の乱れた男が自分に覆いかぶさって……
「あ」
身体に緊張が走った。
違う。さっきとは最も重要なところが異なっている。――この男じゃない。
「望さん、変な冗談は……っ!」
思い出したかのように身をよじり、逃げ出そうとするが、その肩をがっしりと押さえつけられ、カヤはぞっとした。身体がぴくりとも動かない。自分の護衛人の力強さに恐ろしくなるなんておかしな話だ。だが、確かに自分は怯えていた。自分のボディガードに。
望はそんなカヤの反応を悦んでいるかのようにうすら笑みを浮かべると、身をかがめて顔を近づけてきた。
「やっ……」
思わず目を瞑り、顔をそむけた。
今起きていることが現実とは、とても信じられなかった。ただ、これが現実なら……今、自分が何をされようとしているのかは理解できる。自分が何をすべきかも明白だ。――逃げなくては。しかし、肩を押さえられて上半身は動かないし、足をじたばたと動かしても、虚しく空気を蹴っているだけだ。
「任せてくれればいいから」
そっと囁く声が、すぐ耳元でした。
「いやっ!」
怯えきった震えた声が飛び出した。
望は確かに、軽い印象のある人間だった。女遊びをしている姿が容易に思い浮かんでしまうほどに。だが、まさか、自分がその対象になるとは……彼が自分を襲おうとするとは思ってもいなかったのだ。そういった意味では、信頼していた。だからこそ、余計に取り乱していた。――彼の存在を忘れてしまうほどに。
「椎名!!」
その怒鳴り声に、カヤはハッと固く閉じていた瞼を開く。急に、身体にのしかかっていた重圧が消えた。金縛りがいきなり解けたかのように、身体に自由がもどった。緊張の糸がゆるやかにほどけていく。そうだった、と思い出す。まだ自分には『王子さま』がいたんだ、と。それも、ダイニングテーブルの下に。
あわてて身を起こし――だが、目にした光景に愕然とした。
さっきとは違う緊張が身体を締め付ける。
思ったとおり、そこには彼がいた。二週間ほど前まで、裏世界で『殺し屋』をしていた少年。自分のボディガードだった恋人。和幸だ。
どうやら背後から望の右腕を引っ張りあげて、彼の身体をカヤから引き離したようだ。望はカヤを跨いだまま、ソファに膝立ちした状態で和幸に右腕をつりあげられている。
和幸のことだ。自分の悲鳴を聞いて、いてもたってもいられず出てきたのだろう。
冷静さを取り戻したカヤには、そこまでは理解できた。しかし、いくら落ち着いて考えようとしても、一つだけ理解できないことがある。
なぜ……と、カヤは緊張で乾いた喉をごくりと鳴らした。――どうして、彼は望に拳銃をつきつけられているのだ?
「やあ、藤本くん。かくれんぼは僕の勝ちでいいのかな」
まるで朝の挨拶でもするかのように、望は穏やかにくすりと笑んだ。どこから引っ張り出したのか、左手に回転式拳銃を握り締めて。その銃口はまっすぐに和幸の頭へ向けられている。
「だから、君は子どもなんだよ」
カヤのボディガードは憫笑のようなものを浮かべ、そっと撃鉄を起こす。
和幸は言葉がでないようだった。望の腕を拘束したまま、じっと銃口を見つめて硬直している。その表情にははっきりと緊張の色が浮かんでいた。
「嫌いじゃないんだけどね」
残念そうに言って、望は引き金に指をかけた。