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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
235/365

アベル -5-

すみません! とんでもなく長くなってしまいました。

「わたしも『カイン』と名乗る連中に借りがあってね」本間は含み笑いを混じらせてそうつぶやいた。「とてもとても、大きな借りだ」


 いやらしいほどにゆっくりと強調させるような言い方だった。

 望は眉を曇らせた。借り? なぜ、国会議員のこの男が? どんな借りだ? 自分と同じく、誰かを殺されたのだろうか。いや、それよりも……


「連中?」

「おや、そうか。知らないか」仰々しく、本間は驚いたような声で言った。自慢げに微笑を浮かべると、試すような視線を向けてくる。「カインは一人じゃない。何人もいる」

「何人も……」幼さの残る顔に似つかわしくない皺が眉間に刻まれる。望は目を薄め、首を捻った。「どういう……意味だ? カインはあの男のことじゃないのか」


 望の頭に浮かぶのは、四年前に突如として現れ、両親を殺し、彼の人生を狂わせた少年だ。『カイン』と名乗った一人の(・・・)少年。あのとき目にした彼の笑みは記憶の中で薄れることはない。四年経った今でも、はっきりと思い出せる。あの、穏やかな笑み。

 心臓が騒ぎ出し、身体の中が熱くなった。くすぶっていた憎悪の炎が燃え上がるのを感じた。


「そうだな」本間は食材でも吟味するかのように唸ってから、「組織名……とでも考えたほうがいいのかもしれない。九年ほど前から、ぽつりぽつりと現れたんだよ。『カイン』と名乗る子供たちがね。最初は暗号かなにかかと思ったが……」


 本間の口ぶりから、まだ彼が『カイン』についてそこまで把握しているわけではないことが分かった。想像の域を出ない――といった曖昧さが感じられる。はっきりしていることは、過去に『カイン』と名乗った子供たちがあの男のほかにもいる、ということくらいなのだろう。


「組織名……」


 もしそうなら、両親の殺害は組織ぐるみの犯行、ということになる。だが、やはり腑に落ちない。なぜだ? なぜ、両親は狙われた? そして……なぜ、あの男は自分を殺そうとしなかった?

 そう。あの夜、自分は逃げ出した。いや、逃げ出せた(・・・)、のだ。

 無我夢中であの男の頭をバットで殴り、すきをついて走り出した。振り返りもせずに部屋から出て、茫然自失で座りこんでいた鼎を抱えて家から飛び出した。後ろから苦しげな声で「待つんだ」と叫ぶのが聞こえた。だから、彼は気を失ってはいなかったのだろう。なのに、彼は何もしなかったのだ。背中を向けて走っていた自分に、銃弾をあびせることはなかった。ただ必死に、「待て」と叫ぶだけだった。

 それが、不思議でならないのだ。


「盗賊団、というのがいいのかもしれない」


 突然、本間がそうこぼした。


「盗賊団?」

「そうだ」と、本間は悦に入った笑みを浮かべて頷く。どうやら、盗賊団、という自分の説明が思いのほかしっくりきたようだ。

 しかし、こちらとしては意味不明だ。望は苛立ったように顔をしかめて、「何を盗むって言うんだよ?」と訊ねた。盗賊団、というからには盗みをはたらく連中、ということなのだろう。果たして、四年前の『カイン』は何かを盗んでいっただろうか。いや……『カイン』が奪ったものといえば、両親の命だけだ。


「命、とか言うなよ」と、望は鼻で笑って忠告した。

「あいにく、わたしはそういうセンスは持ち合わせていなくてね」皮肉そうに答え、本間は声の調子を変えて付け加える。「子供だよ。彼らが盗むもの……それは、子供だ」


 思わず、ぎょっと目をむいた。

 その反応に本間は満足げに笑み、淡々と語りだす。「『カイン』と名乗る連中は人身売買の被害者を助け出している。あるときは闇オークションに現れ、またあるときは買い取った人間の前に現れ、子どもたちを連れ去るんだ。つまり……四年前、君のもとに現れた『カイン』は盗みにきたんだよ――君をね」


 いきなり冷水でもぶっかけられたような心境だった。

 じわじわと得体の知れない感情が沸き起こってきた。もやもやとしたそれを言い表すことは難しい。言うなれば、違和感。何かが釈然としない。曇った窓から外を眺めているような、苛立ちにも似ていた。焦燥感さえ感じた。

 望は力なくソファに座り込み、「人身売買の被害者……」とつぶやいた。確かに、そうだ。自分はそれに当てはまる。そもそも、両親が自分を買い取ったのも、裏で当たり前のように行われている『人身売買』というものに心を痛めたからだ。自分を救うために両親は自分を競り落とした。金しかない自分には子どもたちを買い取ることしかできない、と寂しそうにつぶやいていた父の背中が思い出された。

 まさか、カインはそんな自分を助けにきたというのか。人身売買の被害者(・・・)だと思って。


「そして、どうやら……」と、本間が苦々しい声を漏らした。「彼らは連れ去ったクローンを『カイン』にしているようだな。ドラキュラ……いや、ゾンビか?」


 独り言のような本間の言葉に、ぎくりと望の肩が震えた。


「クローン……」


 そうつぶやいて、やっと理解する。切れ長の目が見開かれた。

 頭に浮かんだのは、写真の男。風間颯太(そうた)という男。


――その時間に同じ人間が二人いた、ということだろう。


 先刻の本間の言葉が蘇る。今なら、理解できる。その言葉が意図すること。だからこそ、愕然としてしまった。

 風間颯太はカインじゃない。全く同じ姿をした別人。本間が正当防衛を証明できるはずはなかったのだ。正当防衛などではないのだから。妹が殺したのは無実の男なのだから。


「ようやく、全部飲み込めたみたいだね」一仕事でも終えたかのように鼻から息を噴出し、本間はぎらりと小さな瞳を光らせる。「さて、そこで取引だよ、望くん」


 取引……嫌な予感がした。一気に部屋の温度が下がったような気がした。冷房が強くなったわけではないだろう。この感覚を彼は以前も味わったことがある。

 年端もいかない少女を、ある部屋に連れて行ったときだ。自分よりも年下のあどけない少女だった。彼女は何も知らなかった。その部屋で、見知らぬ男が彼女を待っていること。これから、その部屋で自分が何をさせられるのか。彼女は、娼婦として売られたことを知らなかったのだ。案内した自分に、何も知らずに「ありがとう」と戸惑いがちに微笑んだ。

 あのときと、同じ感覚だ。なぜだろう。なぜか、悟った。自分は罪を犯すのだ、と。この、野心を瞳の奥に閉じ込めた男――本間秀実という男のもとで。


「残念ながら、君の両親を殺した犯人はまだどこかにいる。捕まえたいとは思わないかね? 罪を償わせたいとは思わないか? 君が望むかたちで……」含みを持たせた言い方だった。本間は、分かってるよな、と言いたげに、片方の眉をくいっと上げる。そして望の返答も待たずに続ける。「わたしなら、君の望みを叶えてやれる。欲しいものはなんでも与えてやる。もし、君がわたしのもとで働いてくれるのなら」

「……」


 望み――その言葉を反芻する。そういえば、自分の名前――望――は、そういう意味でつけられたものだった。母の名が(たまえ)、妹が(かなえ)だから、とつけられた名前だ。三人そろえば、「望み、叶え給え」になるんだ、と父が嬉しそうに言っていたのを覚えている。本当は女の子を買い取って、『(ノゾミ)』とつけるつもりだったに違いない。なんで男の自分を競り落としたのか、と訊ねたら、父は「お前が男だったからだ」と答えた。答えになっていない、と文句を言えば、「卵が先か、鶏が先か……てやつだな」と笑っていた。

 

「妹……鼎が欲しい」気付けば、そうつぶやいていた。覚悟を瞳に宿らせて、望みを叶えると言い出した男を睨みつける。「それから、『椎名望』を返してほしい」


 本間はしばらく押し黙ってから、「いいだろう」とほくそ笑んだ。「叶えてやろうじゃないか」

 無茶を言ったつもりだったのに、あっさりと承諾した。望は柳眉を寄せた。騙されているんじゃないか、と心配にさえなった。『椎名望』という名前はまだしも、殺人罪で拘束されている妹をどうやって自分に渡すというのか。欲しい、とは言ったものの、自分でもそれがどういった意味を指しているのか分かっていなかった。会いたい、という意味なのかもしれないし、兄妹に戻りたい、という意味なのかもしれなかった。

 果たして、本間はどう受け取ったのか。もしかしたら、単に『横井サエコ』から『椎名鼎』に名前を戻せばいいだけだと思っているのかもしれない。

 本間はちらりと蟹江に目をやると、「一週間でできるね?」と確認する。隣で蟹江が立ち上がる気配がした。


「では、さっそく」


 それだけ言って、蟹江は一礼すると去って行った。どうやら、望を家まで送るつもりはないらしい。


「というわけだ」と、蟹江が部屋から出るのを見送って、本間が急に切り出した。さっきまでの重い雰囲気はなく、すがすがしくも思える明るい口調だ。「一週間、待ってくれるかな」


 望は躊躇いがちに頷いた。いや、それしかできないだろう。


「ああ、そうそう」と本間が思い出したような声をあげたのは、望が部屋を出ようとしたときだった。


 扉に手をかけたまま振り返ると、本間の睨みつけるような鋭い眼差しがあった。厳しい顔つきに、口元だけ笑みを浮かべている。


「わたしのもとで働くなら……」言って、人差し指の先を望の頭に向けた。「髪は黒に戻しなさい。地毛じゃないんだろう?」


 まるで父親のような口ぶりに、望はさすがに苛立った。望はへらっと笑うと肩を竦め、本間の頭に視線をやる。


「じゃ、貸してくれよ。白髪染め」


 すると、本間はしたり顔を浮かべて、今度は望の口元を指差す。


「その言葉遣いも直しなさい。命取りだぞ、この世界では」


 顔を赤くして怒り出すかと思いきや、そんなことを言い出した。望は「は?」と眉根を寄せた。


「人間なんてものは、見た目と言動で決まる。逆に言えば、それだけでいくらでも自分を偽れるということだ。君の過去だって、薄っぺらい紙一枚で終わる。人の価値なんてそんなものだよ」

「何が言いたいんだよ?」

「この世界で生き残るコツを教えてあげよう」馬鹿にしたように鼻で笑って、本間は目を眇めた。「誰に頭を下げ、誰を見下せばいいのか。それをよく見極めなさい」


 望は何も言葉が返せなかった。唖然としていると、本間は「そのうち分かる」とにこやかに微笑んだ。


「車を出させよう。門の前で待っていなさい」


   *    *    *


 迎えに来たのは、一週間前と同じ車、同じ運転手だった。木造の趣深い(・・・)アパートから出てきた望を見るなり、運転手は頭を深々と下げた。


「お久しぶりです。お変わりないですね。特に、その髪」と定年間近の運転手は苦笑した。その視線は望の頭へと向けられている。さらりとした長めの茶髪だ。


 望は気まずそうに首を竦め、「よく似合ってるよ、おじさんのほうは」と人懐っこく微笑んだ。


「そうですかな」と照れたように運転手は頭に手をのせた。薄い黒髪だ。一週間前まではまばらに白髪が混じっていたのだが、今では満遍なく黒く染まっている。


「望くんが薦めてくれた白髪染めを使ったんですよ。助かりました」


 一週間前。本間邸からの帰路、望は本間に「髪を染めろ」と言われたことを運転手に漏らしたのだ。それから、本間の白髪に話題は移り、やがて運転手のそれへと変わった。

 最終的に望がオススメの白髪染めを紹介し、また来週、と別れたのだった。


「しかし、よく白髪染めのことなんて……」


 車に乗り込みながら、運転手はそうぼやいた。すると、後部座席でシートベルトを締めていた望はくつくつと笑う。


「年上の娼婦と付き合いがあるとね、いろいろ詳しくなるんだよ」

「は……娼婦?」


 ぎょっとする運転手の反応に、望はいたずらっぽく笑んだ。バックミラー越しに目があうやいなや、運転手はあわてて目を逸らす。「それじゃ、出発します」と落ち着かない様子で車を発進させる。その後、会話はなかった。どうやら、本間秀実は娼婦遊びはしていないらしい、と望は結論付けた。

 本間邸に到着し、車を降りるときも、運転手は目を合わせなかった。よほど、「娼婦」がインパクトが強かったらしい。

 望はガレージへと向かう車を見送りつつ、喉もとをかいた。娼婦が世間一般でいいイメージがないのは分かっていた。が、まさかここまでとは。彼にとっては娼婦たちは今や姉のような存在。かつて持っていたはずの悪いイメージも、すっかり払拭されていたのだ。その辺でへらへらしている女よりもずっとたくましく美しく感じるようになっていた。


――人間なんてものは、見た目と言動で決まる。


 一週間前に本間に言われた言葉がよぎった。そうなのかもしれない、とぼんやりと思う。娼婦にどんな事情があるかなんて、誰も考慮しようとは思わないのだろう。事実、自分がなぜ娼婦と付き合いがあるのか、運転手は気になる素振りも見せなかった。気を遣ったわけではないことは、態度からもあきらかだ。望は表情を曇らせる。やるせない気分になった。視界の中でゆらゆらと風に揺れる茶色い髪をつまんでため息を漏らす。

 屋敷にはいると、一週間前と同じく、行平という家政婦が出迎えた。


「お待ちしておりました」と頭を下げて、微妙な間を空けてから、「椎名望さま」


 外国人か。そう言いたくなるような、おかしな発音だった。なんで先週と名前が違うのよ、と言いたげな雰囲気が漂っている。顔を上げた行平の表情は、案の定、怪訝そうだった。

 先週と違い、今度は一階のリビングへと案内され、そこで待つように指示された。二十畳ほどのリビングは、奥のダイニングとひとつなぎになっている。さらに向こうのキッチンまでしっかり見える。その間にドアや壁はない。段差もないから、これはバリアフリーの一貫なのか、と望は小首を傾げた。

 待っていろ、と言われても、確かにリビングのソファは座り心地が良さそうで、そそられるが……ゆっくりくつろげるほど、気持ちに余裕はない。

 あの本間という男がどう自分の望みを叶えたのか。想像もつかない。いや、それよりも……本当に、叶えてくれたのだろうか。

 果たして、妹に会えるのだろうか。それを考えると、期待と不安で狂いそうだ。留置所だろうが、刑務所だろうが、構わない。せめて、一目会いたい。たった一人だろうが、家族がいる事実、それがこの四年間、彼を支えてくれていたのだから。


「久しぶりだね」


 いきなり、背後からのんびりとした声が聞こえ、望ははっとして振り返った。

 リビングに入ってきたのは、フレームレス眼鏡をかけた初老の男、本間秀実だ。そのぎらりと輝く眼光が自分の頭に――茶色のままの髪に――向けられているのに気付いて、望はそ知らぬ顔でそっぽを向いた。「まあ、いい」と鼻で笑うのが聞こえた。


「正当防衛にしたよ」ソファへと歩み寄りながら、本間はそうつぶやいた。「今朝、蟹江が迎えに行った。もうすぐ、帰ってくるだろう」


 本間がソファに腰を下ろす。望はぼうっと呆けていた。本間が何を言っているのか理解できていなかった。


「は?」


 やっとのことで出てきた声は、なんともまぬけだった。

 本間はそんな望を訝しげに見つめてきた。「君がわたしに頼んだんだろう。忘れたのかね」と不服そうに言って、眼鏡をくいっと上げた。


「『椎名』の戸籍も新しく創っておいたよ。妹くんもそこに入れておいた。それでよかったかな?」


 話に全くついていけていなかった。「ちょっと待てよ」と、望は必死に頭の中を整理する。動揺もあらわに、「正当……防衛?」とつぶやいた。

 そう、この男はさっき「正当防衛にした」と口にした。そして、蟹江が妹を迎えに行っている、と。


「どういうことだ? だって、カナは……」


 正当防衛ではない。そう言おうとした望を、本間がすかさず遮った。


「正当防衛を証明することはできない。でも……正当防衛にすることはできるんだよ」


 望は硬直した。本間の意図することを、理解したくはなかった。

 厚い雲が太陽をさえぎったのだろうか。窓から差し込んでいた日の光が一気に陰った。

 望はごくりと生唾を飲み込んで、本間に射るような視線を向ける。


「……でっちあげた、てことか?」


 そう訊ねると、「好きじゃない言い方だが」と前置きして、本間は「そういうことだ」と頷いた。


「事件の前、彼女はさんざん周りに『殺される』と訴えていた。おかげで、助かったよ。四年前の事件との関連性を創るのはさすがにできなかったが……とりあえず、横井サエコは教育実習生に暴行を受け、身を守るために包丁を手に取った、と。その後、精神的ショックで失踪、今もまだ見つからず……といったところだったかな。まあ、詳しい筋書きは蟹江くんに確認しておきなさい」


 望は唖然とした。確かに、妹が欲しい、とは言ったが……


「望くん」と低い声が聞こえて、望はびくんと身体を震わせた。我に返ると、本間が恐ろしいほど冷静にこちらをじっと見据えていた。ややあって、口元がゆるみ、怪しげな笑みが浮かび上がる。「この世界は、君が思っているよりもずっと素晴らしいんだよ」


 全身が粟立った。この男は、いったい何者なんだ? その疑問をとうとう無視できないところまできてしまったことを悟った。だが、聞くのが恐ろしくてたまらない。勘のいい彼は、その答えにうすうす気付きつつあったのだ。そして、もう後戻りはできないことも……。

 そのときだった。不意に、背後であわただしく扉が開く音がして――


「お兄ちゃん!」


 背中から心臓を一突きされたようだった。心臓が大きく跳んで、一瞬止まった気がした。


「お兄ちゃん」


 再び聞こえた。高い天井を突き抜けていくような、高らかな声。泣いているのだろうか、震えているその声を、懐かしいと思った。記憶がぐるぐると引き戻されていく。自分のいる空間だけ時をさかのぼっているように思えた。

 素足がフローリングにすれる音が近づいてくる。

 振り返ることが恐ろしかった。幻聴なんじゃないか、と疑った。

 四年だ。四年、待ち焦がれていたんだ。期待が膨らんで当然だ。怖気づいて当然だ。

 すぐ後ろで、フローリングの床がみしっと鳴いた。鼻をすする音が聞こえる。

 深く息を吸い、ゆっくりと振り返る。景色が流れ、やがて――


「カナ……」


 頬がゆるんだ。

 確かに、立っていたのだ。簡素なワンピースを着た少女。相変わらずの白い肌。夏の日差しの中に立っていては溶けてしまうんじゃないか、と心配になるほどの、雪を思わせる美しい肌。その頬はほんのりと赤らんでいる。灰色混じりの翠の瞳からは、次から次へと雫が落ちている。

 開け放たれた窓から一筋の風が吹きこんで、細い髪をふわりと揺らした。顔にかかった髪を慣れた手つきでよけて、耳にかける。その仕草は、すっかり女性らしくなっていた。背もだいぶ伸びた。だが、あの太い眉はそのままだ。よく学校でからかわれて、泣いて帰ってきたな、と思い出す。本人はそのせいで気に入らないようだったが、彼にとっては幼い彼女の名残――愛しいくらいだ。しかし、相変わらず華奢な体つきは、心配だ。もう少し、肉付きがよくなってもいい歳なのだが。

 そうだ。いくつになった? 十五か。きっと、子ども扱いをすれば怒る年頃だろう。

 そんなことを考えていると、手を伸ばしてその頭を撫でるのも、どうも躊躇われる。なんと声をかければいいのか。硬直したままじっと見つめていると、やがて、少女はくすりと照れたように笑んだ。


「チャラ男になってる」


 こちらを指差しそう言って、少女はくすくす笑った。「チョー似合ってるし」と付け加えて、目じりの涙をぬぐう。

 どっと力が抜けた。けたけた笑う様子は、四年前と変わっていない。ああ、鼎だ、と思った。

 薄い唇に笑みが浮かぶ。安堵のため息を漏らし、望は鼎の頭に手を伸ばした。


「お前もギャルじゃないか。何が『チョー』だ」


 言って、ぐしゃぐしゃに髪をかき乱すように撫でた。「ああっ、チョーむかつくぅ」と鼎は嬉しそうに憎まれ口を叩く。

 そんなはしゃぐ鼎を愛しそうに見つめ、今度はその細い髪の感触を味わうように指に絡ませて、優しく撫でた。すると鼎は俯いて、いきなり望に抱きついた。薄いシャツに顔をうずめ、「ごめんなさい」とくぐもった声を漏らす。「あたし、間違っちゃった……」

 望は目を見開き、そして痛みをこらえるように顔をしかめた。喉に詰まった息をゆっくりと吐き出すと、震える華奢な肩をさする。


「無事でよかったよ」


 それしか、言えなかった。

 望は鼎を抱きしめたまま、ふと顔を上げた。扉の前でスーツを着た骸骨のような男がこちらを見守っている。怪しげな微笑を浮かべてじっと立っているその様は、まるで死神のようだ。蟹江、とかいう刑事。おそらく、『正当防衛』をでっちあげるのに右往左往した男。

 再び、しがみつくように抱きついている妹を見下ろす。

 認めたくはないが、彼女は殺人罪の被疑者……いや、犯人だ。『正当防衛』をでっちあげて、釈放するなんて、どうやったというのだ。魔法を目の当たりにしたような気分だ。


「同じ顔だったんだ」


 ふと、ぎゅっと背中にまわされた手に力がはいるのを感じた。望は何も言わずに、水玉のワンピースの上から彼女の背中をさすってやる。

 ああ、そうだ。彼女は有罪だ。人殺しだ。罰せられるべき人間だ。

 しかし――かつて両親を殺した犯人と同じ顔の人間が現れたら、怯えるに決まっている。殺される、と不安になるのは当然だ。そして、何より……警察が助けてくれないことを彼女は知っていた。誰も頼れない。だから、自分で身を守ろうとしただけだ。だから、極端な手段に出てしまっただけだ。

 自分だけは理解してやろうと思った。赦してやろう、と思った。その恐怖を、彼女の気持ちを理解してやれるのは自分だけなのだから。


「だからね」と、か細い声が聞こえてきた。「少し、すっきりしたの」

「!」


 望は思わぬ言葉に目をむいた。聞き間違いだと思って、「え?」と聞き返す。すると、鼎はおもむろに望から体を離して、少しだけ涙が残る瞳でこちらを見上げてきた。


「別人だって分かってちょっと残念だったけど……でも、同じ顔だったから、すっとしたの」

「……」

「苦しんでるところを見られたから」


 穏やかな表情だった。無実の男を殺した人間が見せる表情とは思えなかった。罪に怯える様子はなかった。

 ぞっと背筋に悪寒が走った。その表情に、見覚えがあったからだ。四年前の、イブの夜。同じような表情を浮かべていた男がいた。


「ねえ、お兄ちゃん」言って、鼎は望の手を取り、指を絡めた。「家に、帰ろう?」


 寂しげで、懇願するような声だった。

 望は果てしない喪失感と闘いながらも、鼎の小さな手を握り返す。まだ彼女が幼かったころ、無垢だったころ、そうしてやったように。

 そして、「帰ろう」と微笑んだ。本当はもうあそこに帰ることなどできないことを、身が引き裂かれるほどに実感しながら。


    *    *    *


「ここで暮らしなさい」玄関先で、本間は望に鍵を差し出した。「佐藤さんに……ああ、君を迎えに行った運転手だよ。彼に住所は教えておいた。車に乗れば連れて行ってくれる」


 望は何も言わずに鍵を受け取った。本間は眉をひそめ、望の顔色を伺う。


「どうした? せっかく、妹と暮らせるのに……嬉しそうじゃないな。これが君の望みだったんだろう?」


 望は何も言わずに門のほうへと視線を向ける。その先で、ワンピースを着た一人の少女がくるくると踊ってはしゃいでいる。

 諦めたような表情でしばらくその様子を眺め、「カインの首」と望はつぶやいた。消え入りそうな小さな声だった。本間は「なんだって?」と聞き返す。

 望は顔を向きなおすと、親の仇でも見るような鋭い視線を本間にあびせ、迷いのないはっきりとした口調で言った。


「四年前の……あのカインの首がほしい」


 本間は一瞬ぽかんとしたが、弾かれたように笑い声をあげた。「まるで、サロメみたいだな」とひとりごちてから、「もちろん、そのつもりだよ」と力強く答えた。


「さて……そうだな」咳払いをしてから、本間は天を振り仰いで切り出した。「手始めに……君にある噂を流して欲しい」

「ある噂……?」


 いきなり、噂とはどういうことか。カインと関係あることなのか。望が目を瞬かせていると、本間は内緒話でもするかのように低い声で言ってきた。


「『カイン』という殺し屋がいる、と……それだけでいい。あとは、ほら……若者の君に任せるよ。皆が興味を持つように、好きに脚色してくれていい」

「なんで、そんなこと……」


 本間はウインクでもしそうな具合で片目を薄め、「真実(・・)が広まるほうが都合が悪いからだよ」と囁いた。「わたしにとってはね」と言い添えると、唇の片端を上げた。

 

 真実――本間が漏らしたその単語が頭に繰り返される。

 本間の言う真実とは何か。考えるまでもない。カインが人身売買の被害者を助け出していることだ。そして……この男は、それが知れたらまずい立場にいる。


――わたしも『カイン』と名乗る連中に借りがあってね。とてもとても、大きな借りだ。


 頭痛のようなものがした。自分の予想が――違っていてほしい、とずっと願っていた嫌な予感が――当たっていたことを確信した。

 やっぱ、そういうことか、と心の中で吐き捨てるようにつぶやく。


「ああ、そうだ。ところで……」本間はわざとらしく思いだしたように口火をきった。「鼎ちゃんなんだが……心のケアが必要だろう? カウンセリングを受けさせるべきじゃないかな。どうかね? わたしの知り合いなら、事情(・・)も分かってくれる。紹介できるよ。わたしの名前をだせば、金もとらんだろう」


 望はぐっと拳を握り締めた。右手の中の鍵が食い込む。本間の顔をまっすぐに見ることはできなかった。浅く息を吸い、


「お願い……します」搾り出したような声で言う。本間の顔はもう見えない。見えるのは、格子状のタイルだった。そして、自分の薄汚れた靴。「本間サン(・・)


 そう付け加え、かたく瞼を閉じた。どれほど、そうしていただろうか。やがて、満足そうなため息が聞こえ、水平になった背中をぽんと叩かれた。


「本間先生(・・)、にしなさい。望」


 ああ、自分も死んだ。とうとう、死んだ。その瞬間、望はそう思った。すると、思いのほかすっきりした。瞼を開くとうすら笑みを浮かべ、「はい、先生」と軽い口調で言って背筋を伸ばす。今度は真っ直ぐに視線を交わすと、本間は愛でるように目を細めた。


「君には期待できそうだ」


 満面の笑みを浮かべて、本間はそう言った。

 望は何も答えず、不敵に笑って首を竦めた。

 卵が先か、鶏が先か――どっちが先かなんて考えてもしかたない……そういうことだよな、父さん。望はそう心の中で語りかけた。もう後戻りはできないのだから、やるしかないのだ。この復讐を終えない限り、自分は成仏できないのだから。そして……父の望みも叶えよう。それはきっと、自分たち兄妹に託された使命なのだから。

『卵が先か、鶏が先か』。ラストの望の解釈は間違ってます。彼なりのユーモアです。念のため(^^;)


アベル、これにて完結でございます。すみません、すごく長くなってしまって! 次話から主人公が戻ってきますので~。いつも応援していただいて、まことにありがとうございますーっ!!

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