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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第五章
233/365

アベル -3-

 頭にまで響く耳障りな音に少年は目を覚ました。一つ向こうの通りで道路の拡張工事が行われている。もう半年以上もその騒音と付き合っているのだが、いつまでたっても慣れない。薄い窓でも閉めていれば多少はましなのかもしれなかったが、真夏に冷房も扇風機もない部屋ではそれもかなわない。

 六畳一間の部屋はどこかかび臭い。一応、掃除はしているのだが、築三十年の歴史ある(・・・・)アパートでは、焼け石に水、といったところだろう。雨漏りもひどいから、梅雨は最悪だ。とりあえず一年半も暮らせば、対処のあれこれは身に着く。

 窓からは容赦なく昼下がりの日が差し込んでいる。遮るカーテンがないので遠慮がない。むくりと布団から起き上がり、枕もとの時計に手を伸ばす。――二時半。

 少年は、深いため息をついた。無造作に伸びた栗色の前髪をかきあげ、すぐ隣においてある姿鏡に目をむけた。

 そこに映っているのは、十七の少年――のはずだ。明るい未来に胸はためかせ、色恋沙汰に一喜一憂し、些細なことで不平不満を漏らす、そんな少年のはずだ。だが、鏡の奥でこちらを睨みつけるその少年は、夢や希望なんてものを信じているとは思えなかった。切れ長の目に、若さを象徴するような煌きは無い。未来を望んでいるとは思えない、全てを諦めきったような眼差し。

 目が死んでいる、と彼の同僚(・・)はよく注意する。その通りだ、と彼は思っていた。自分はきっと死んでいる。四年前、自分は死んだのだ。いや、殺された。じゃあ、今の自分はなんだろうか。そうだな、きっと亡霊だ、と少年はほくそ笑む。怨念に縛られ、成仏できずに彷徨う亡霊だ。

 事実、半年前に出会った、中学時代の同級生――確か、名前は裕作だったか――にばったり出くわしたとき、悲鳴をあげられた。真っ青な表情で「生きてたのかよ」とつぶやかれたのを、今でも鮮明に覚えている。

 四年前、ある事件をきっかけに、彼は『失踪』した。名前を変え、家を移り、新しい人生を始めた。当然、学校も変えた。一応、『転校』になっていたのだが、挨拶もせずに消え、携帯もつながらくなったことから、学校の連中は彼が死んだと思い込んだようだった。悲しむよりも呆れてしまった。あっけなく人を殺すものだ。机の上に花瓶でも置かれたかな、と思うと笑えた。

 まあ、どちらにしろ、あのまま学校に通い続けたところで、自分は死んだも同然だったに違いないだろう。久々に出会った友人の反応がそれを物語っていた。怯えた表情で「無事でよかった」ととってつけたように言って、尻尾を巻いて逃げていった。あの事件が原因で、自分の父の出自が公になってしまったのだ。仕方のないことだろう。あんなに仲が良かったのに――そんなことを言うほど自分は幼稚ではない。

 のっそりと起き上がり、伸びをした。閑散とした部屋を見回し、喉元をかく。電話もパソコンも、外に繋がるものは何もない。もっといえば、トイレも風呂もない。トイレは共同トイレ、風呂は仕事場(・・・)のものを借りて暮らしていた。月三万の都内のアパートにこれ以上望むのは世間知らずというものだろう。

 あるものといえば、敷布団と姿鏡だけだ。その二つは、最低限、彼が生きていくために必要なものだった。身体を休める寝床と、身だしなみを確認する鏡。とりあえず、それさえあればこの世界(・・・・)で生きていける。

 ワイシャツと黒のジーンズをはき、姿鏡の前に立つ。誰だか分からないが、自分を創りだした連中にこれだけは感謝しておこう、と思っていた。――この優れた容姿しか、彼には頼れるものは残ってはいなかった。


   *    *    *


「なんで、こんなことしてるの? 十七でしょう」


 シャツのボタンを留めながら、三十代半ばくらいの女はそう尋ねてきた。キングサイズのベッドに腰をおろし、黒のタイトスカートから伸びるしなやか足をストッキングに差し込んでいく。その様子をドレッサーの鏡越しでちらりと見、彼は「え?」と聞き返す。

 女に背を向けるかたちでドレッサーのイスに腰かけ、彼女が今夜稼いだ札束を数えているところだった。滑らかに札をめくっていた指がぴたりと止まる。金勘定に夢中になって、女性との会話をないがしろにすると痛い目をみる。――一年半の経験で学んだ教訓だ。


「だから」と、たらこ唇をとがらせて、女は不機嫌そうに眉――ノーメイクの今、あるかどうか微妙なのだが――をひそめる。「なんで、こんなとこで働いてるのよ? 高校とか行かないの? もっと他に有意義なことあるでしょう」


 そこまで言って口ごもると、彼女は「あたしも人のこと言えないけどさ」とばつが悪そうに目を側めた。彼はくすくすと笑うと、「ありがと、帰蝶(きちょう)さん」と振り返る。「知り合いの紹介なんだ。他に当てもなかったし……」

「知り合い? こんなとこを勧めるなんて、嫌な友達持ってるわね」


 言われて彼は表情を曇らせた。札束を握る手に力がこもる。


「友達じゃなくて、親だよ」皮肉そうに笑んで、彼はため息を漏らす。「ま、名ばかりの親だけど」


 苦悩に満ちたその表情は、十七とは思えないほどの大人びている。まだ幼さが残る顔立ちと、たまに感じさせる妖しげな色気。そのギャップこそ、ここで働く女性たちを虜にするのだった。

 帰蝶はしばらく彼に見惚れていたが、やがて心配そうな表情で「そう、だったの」と慰めるような声色でつぶやいた。こうみえても一児の母だと主張していたが、やっと信じる気になった。初めて彼女から母性というものを感じた瞬間だった。だからだろうか、自分の事情を話したくなってしまったのは。


「本当の両親が死んで引き取られたんだ」気付いたら、口が勝手に動いていた。「父親の実家と関係のある夫婦なんだけど……ま、子育てができるようなタイプじゃなかったんだよ、元から」


 だからこそ、こうして中学を卒業した途端、無理やりひとり立ちさせられたのだ。――とはいえ、追い出されずとも、自ら出ていくつもりではあったが。いつまでも処分に困る粗大ごみのような扱いを受けては、よく二年半もあの家で耐えたものだ、と自分を誉めたくなる。

 卒業と同時に紹介された働き口。それは、江戸時代でいう遊郭――一言で言えばそれだ。ホストクラブが立ち並ぶ夜の街、歌舞伎町にそびえる、一見地味なホテル。その中には、年齢も見た目も様々な娼婦たちが控えている。元々はラブホテルだったらしいのだが、改装して、内部は高級ホテルに見間違うほどになった。改装といっても、もともと、一室ずつ形は違えど、広さは充分ある上に、ランプやベッド、ドレッサーなどの家具は上品なデザインで、壁一面に張り巡らされていた鏡を取り払って落ち着いた色の壁紙を貼るだけで充分だったらしいが。


「じゃ、これが今夜のお給料」帰る支度が済んだ帰蝶に、さっきの札束がつまった封筒を手渡す。「お疲れさま」

「何枚、抜いたの?」


 帰蝶は封筒を受け取り、中をちらりと覗いてから彼を睨んだ。口元には笑みが浮かんでいて、彼女がただ冗談を言っていることはあきらかだった。


「オーナーに聞いてよ。俺は言われた分を抜いてるだけなんだから」


 肩を竦めてそう返すと、帰蝶は「少しはくすねてポケットに入れるくらい、やりなさいよ」と助言でもするかのように言ってきた。そして、いつものように(・・・・・・・)、封筒から三枚ほど万札を取り出して彼の手に握らせる。


「お小遣いよ」と、耳元で囁いて帰蝶は部屋から出て行った。


 彼はため息混じりに笑むだけで、何も言わなかった。ありがとう、と言うのも情けないし、かといって、遠慮するほど生活に余裕もない。事実、こうして娼婦たちからもらうお小遣いに頼っている部分もあった。

 生きるためには金が必要で、だから働く。媚も売る。何のため、とか、誰のため、とかではない。ただ生きるため。彼の人生はそれだけだった。

 帰蝶が出て行った部屋で、彼はぼうっと突っ立っていた。

 一体、何のために――そう考え出すと、止まらなくなってしまう。娼婦たちから、夢はないのか、とよく聞かれるが、答えられたことはない。強いてあげるならば、引き離された義妹との再会。そして……あの事件の真相をつきとめること。しかし、どう叶えろ、というのか。金もコネもない彼は、このトーキョーで生き延びることで精一杯だった。

 急に疲労感が襲ってきて、彼はドレッサーのイスに腰を下ろす。

 いつまで、こんな生活を――ノックする音が聞こえたのは、そう心の中でぼやいたときだった。


「野沢直人くんだね?」


 扉を開くなり名前を呼ばれて、あっけにとれらた。そこに立っていた人物に柳眉を寄せる。てっきり、清掃係のおばさんが掃除に来たのかと思っていた。「ご苦労さま」と言いかけた口は開いたままだ。


「こういうものなんだけど」と、骸骨のようなやせこけた顔をした男は、胸ポケットから取り出したそれ(・・)をちらりと彼に見せた。「聞きたいことがあるんだ」


 もったいぶって、男はさっさとそれをしまった。一瞬しか確認できなかったが、彼にはそれで充分だった。きらりと光ったバッジ。しっかりと見覚えがあった。四年前に見たあれだ。忘れたことなどない。初めてあれを見たときの、頼もしさと希望に満ちた気持ち。そして……それが裏切られたときの絶望感と憎悪。どこからかふつふつと怒りがこみ上げてくるのを感じた。自分の中で、ここまで感情がはっきりと顔をだすのは久しぶりだと思った。


「何の用だよ?」


 男を睨みつけ、彼はつっけんどんに訊ねる。腕を組み、男の首をしめたくなるのを抑えた。

 警察――彼が何よりも嫌う人間たち。四年前、自分と義妹の話を笑い飛ばした連中。被害者が――父が侠客の出だと分かるなり、捜査を打ち切り、挙句、必死に真実を訴える自分を『イカれている』とあざけ笑った。そういえば、義妹と引き離され、別々の家庭に引き取られたのも、そのせいではなかっただろうか。

 殴りたい、と思った。せめて、この顔に拳をぶつけられれば、成仏(・・)できるかもしれない。そんなことを考えている自分に気付いて、彼ははっとした。もしかしたら……自分はもう終わりにしたいのかもしれない。そのきっかけを求めているだけなのかもしれない、と漠然と思う。


「この人物に見覚えはあるかな?」


 さすがに彼の棘のある態度に気付いているのだろう。若干不機嫌そうな表情を浮かべつつ、男は胸ポケットから今度は一枚の写真を取り出した。

 男に協力はしたくなかった。とりあえず写真は見て、もし見覚えがあっても、嘘でたらめを言ってやろう。そう決めると、「どれどれ」なんて白々しく言って、写真を受け取った。


「なんだ、あなたの母親じゃないですか」


 用意していたその言葉が、口から出ることはなかった。娼館の下っ端として働いている自分をたずねてきたのだ。きっと娼婦の誰かを捜しているんだろう、と思っていた。ここで働く娼婦たちは皆、わけありの女たち。危ない連中が捜しに来るのも日常茶飯事だ。

 だが……


「……!」


 そこに映っていたのは一人の男だった。かっちりとしたスーツに身を包み、こわばった表情を浮かべてこちらを見つめている。

 写真を持つ手が震えた。息が荒くなる。心臓の鼓動が、一つ一つ、ゆっくりと重い音を響かせる。額から、背中から、いたるところから嫌な汗が噴きだした。


――おかえり。


 鼓膜に取り憑いて消えることのない、あの声が蘇る。

 脳裏に焼きついてはなれない、あの夜の光景が蘇る。


――俺はカイン。君を迎えに来たんだ。


 思わず、写真を握りつぶしていた。


「カイン……」


 彼は四年ぶりに口にした。忘れたことなどない、その名前。しまいこんでいた憎悪がマグマのように湧き上がる。その瞳には、狂気混じりの生気が戻っていた。


「こいつ、どこにいる?」


 十七の少年とは思えない、低くおどろおどろしい声だった。

 男は彼のそんな様子にほくそ笑み、「死んだよ」とあっけなく答える。

 思ってもいなかった言葉に、彼は目をむいた。死んだ? 彼は絶句した。あいつが死んだ。喜ぶべきことなのかもしれない。だが、なぜか、悔しい気持ちに胸が締め付けられた。

 男は、彼の手から皺だらけになった写真を引き抜き、「その件でこうして会いに来たわけだよ」といやらしく滑らかな口調で言う。


「横井サエコという少女を知っているかな?」


 芋虫のような太い眉をくいっと上げて、男は訊ねてきた。ヨコイサエコなんて名前は聞いたことがない。「いや」と訝しげな表情で答えると、男はわざとらしく「しまった、しまった」と額に手を当てた。


「そっちの名前じゃ、分からないか」と苦笑して、彼に射るような視線を向ける。「それじゃ……椎名鼎、といったら分かるかな?」


 その瞬間、ざわっと全身が粟立つのを感じた。四年ぶりに聞いた名前だ。とことこと小さな歩幅でついてくる少女の姿が思い浮かんだ。懐かしさと恋しさが一気に襲いかかってきた。


「知っているよね?」男はくつくつと笑う。写真を丁寧に伸ばすと、彼の目の高さにあわせてそれを掲げた。「彼女は、彼……風間颯太(そうた)殺害の容疑で拘束されている」


 目を見開き、息を呑んだ。耳を疑った。頭が真っ白になった。「え」と呆けた声が漏れる。

 男は満足げに笑むと、写真を胸ポケットにしまった。「一緒に来てくれるかな?」と低い声で確認するように誘う。「君を待っている人がいるんだよ」

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