アベル -2-
「お、望じゃん!」
それはちょうど、必要な買い物を終え、帰路に就こうというときだった。クリスマスのイルミネーションで彩られる街角で、聞き覚えのある声がして望は振り返った。
「なにしてんの?」と駆け寄ってきたのは、同じクラスの円谷裕作。中学校入学直後、髪を茶色に染め、先輩や教師たちからも悪い意味で注目を浴びた。髪の長さは変わったが――ハリネズミのようなツンツンとした短髪になった――相変わらず茶色のままだ。それでも、根はいい奴だ、と約八か月間、共に過ごして望は悟った。確かに、真ん丸のその瞳はキラキラと光り輝いて穢れがなく、見つめていると星空を見上げているような気分にさえなる――ような気がした。
「買い物だよ」
微笑んで、望は両手にぶらさげていた紙袋を掲げる。すると、裕作は二重のラインがくっきりと入った瞼を大きく開き、「なに、彼女にプレゼント!?」とあたりに響くクリスマスソングを打ち消すような大声で叫んだ。
横を通り過ぎていくカップルの好奇な視線を感じつつ、「違う違う」と望は唇の片端を上げた。
「妹にだよ」
「鼎ちゃん!」大仰に、ぽん、と右拳を左手の平に叩き付け、裕作は瞳を爛々と輝かせる。「かぁわいいよなぁ。お人形さんみたいでさぁ。ほんっとうらやましいぜ、妹!」
うらやましい――よく聞く言葉だった。一人っ子政策に縛られる今のご時世、兄妹がいることはそれだけで特別なことで、さらに鼎のような可愛らしい妹がいるとなると、同級生(特に男)に嫉妬されるのは自然な流れだった。
だが、実のところ、妹のことでどうこう言われるのはうんざりしていた。あまりに騒がれると、その存在がどれほど特異なことか思い知ることになる。鼎と血がつながっていない事実をつきつけられているような気がしてならなかった。
望は苦笑して、「お前はなにしてるんだ?」と早々に話を変えた。
「これからクラスの奴とカラオケだよ」特に気にする様子もなく、裕作はけろっと答える。「てか、お前も来いよ!」
晴れやかな表情で、裕作は望の肩に手を置いて提案した。それが名案だと信じて疑わないような、確固たる自信を感じる。
確かに、いつもの望ならあっさりとオーケーしていただろう。しかし、今夜は特別。誘いに乗るつもりはなかった。すぐさま、「やめとく」と言いかけた――のだが、思わぬ言葉がそれを遮った。
「遠山もくるぜ」
にんまりと笑んで囁きかけてきた裕作に、望は「え!?」と動揺もあらわに聞き返す。
遠山……同じクラスの遠山杏子のことに違いない。陸上部の遠距離選手で、体育祭のときからなんとなく望が気になっていた女子だ。
裕作には何度か話したことだが、同じクラスだというのになかなか話す機会が見つからず、どうにかならないものか、と気をもんでいた。才色兼備でお嬢様気質の彼女は、男を近づかせないバリアのようなものを張っていて、話しかけるのも気を遣う。そういえば、そんな彼女がカラオケに出てくること自体、かなり珍しいことではないか。それもイブの夜に。
望はしばらくためらって、それから「んじゃ、ちょっとだけ」と後ろめたさを感じつつも答えた。
「そうこなきゃなぁ! お前が来たら女子どもも喜ぶぜ」
大喜びでガッツポーズをしている裕作。実は彼にうまいこと乗せられたのではないか、という気もしたが、これもギブアンドテイクだ、と自分を納得させる。
とりあえず、ポケットから携帯電話を取り出して自宅に電話を入れた。内容はもちろん、すぐに帰れそうにはないことと、今夜は母の手料理は諦めるしかなさそうなこと、そして鼎をしっかり寝かしつけておいてほしいこと。
だが、肝心なこと――どれほど遅くなるか、は伝えていなかった。
まさか、カラオケが想像以上に盛り上がって(杏子ともいい雰囲気になり)、結局終電に乗って帰ることになるとは、思ってもいなかったのだ。
「やべぇ、やべぇ」
予定していたよりもずいぶん遅い帰りになって、望は慌てていた。さすがに、ここまで遅くなったら両親は怒るだろう、と思った。せめて、途中で電話をするべきだった、と振り返る。
さらりとした長めの黒髪を風になびかせて、望は全力疾走。
駅から家までの帰路、止まることはなかった。それでも、息はあがらないし、汗もかすかにじとっとする程度だ。
並外れた身体能力を持っていることは自覚していた。父親から、自分の身体が改造されている可能性があることを告白されたときも、たいして驚きはしなかった。そうだろうな、と思った。体育の授業で手を抜いていればいいだけの話だろう、と思った。ラッキーだとさえ感じていた。
事実、こうして、駅から徒歩三十分のところ、十分程度で着いてしまえそうなのだから。
目の前の角を曲がれば、家は目前――そう思って、すっと息を素早く吸ってラストスパートをかけようとしたときだった。
ポケットの中で何かがブルブルと震えだしたのを感じて、「うわっ」と望は転びそうになった。
片足で何度か地団駄のようなものを踏んで、つんのめるかたちで立ち止まる。
「びびった」
誰もいない路地で、望はぼやくように独りごちた。
心臓が派手に暴れている。走ったからではないだろう。最後の加速だ、と集中力を高めたその瞬間だったから、驚いてしまったのだ。ぴたりと張り付くようなタイトパンツをはいていることも相俟ったのだろう(振動がまるで肌に直接伝わってくるようだった)。
しつこく震えるそれを、ポケットからだすのを数秒だけためらった。なんとなくだが、誰からの電話だかは予想はついていた。
困ったような表情を浮かべ、首元をかく。
家に帰って怒鳴られるよりは……と、ポケットに手をつっこんで、小刻みに震える機械を取り出す。
「わりぃ、母さん」と、開口一番、軽い調子で謝った。つとめて明るく弁明を始める。「友達に誘われちゃって、ちょっとだけ付き合うつもりが、こんな時間まで……」
「望……」
予想通り、その声は母のものだった。だが、やけに震えて、か細く、様子がおかしい。
今夜はクリスマスイブ。だというのに、夕飯をパスして、家族団らんの機会をつぶしてしまった。そんなわがままを許してもらったのに、友達と遊びほうけて真夜中に帰宅とは……怒られないほうがおかしいだろう。
わなわなと肩を震わせて怒る母親の姿が思い浮かんだ。
望は、やべぇ、と頬をひきつらせつつも、せめて反省していることを伝えようと必死な声で続ける。
「あと数秒で家、着くしさ。ほんっと、目の前まで帰ってきてるんだよ。超つっぱしってきたんだから」
だからなんだ、と怒鳴られるのを覚悟した。が……
「帰ってこないで、望! 早く、お義父さんのところへ、逃げ――」
「へ……」
母の声は途中で途切れた。そして、耳をつんざくような破裂音が続く。母の悲鳴。父の怒号。
望はわけもわからず、ただ茫然と突っ立っていた。
通話の終了を知らせる無機質な音に耳を傾け、妙な胸騒ぎを感じて眉をひそめた。
心臓の鼓動がはやまる。走っていたときには感じなかった息苦しさが、それを追う。脂汗が頬を伝った。
望はごくりと生唾を飲み込んで、ゆっくりと携帯電話をおろした。
今のはなんだ。悪趣味な冗談だろうか。夜遊びの罰に、びびらせようとしているのだろうか。
心臓が不規則なリズムを刻みだしていた。
望は「はは」とぎこちなく笑った。こんなのに騙されるかよ、と重い足を持ち上げ、家へと歩き出す。しかし――余裕を見せていたその歩みは、やがて早まって、道路にハンマーを打ち付けるような乱暴で力強いものに変わっていった。
家についてすぐ、望は異変に気付いた。玄関が開いている。鍵がかかっていない、とかそういうことではない。こじあけられていた。
扉は不自然な弧を描き、鍵の部分はひしゃげている。
内側から強硬な車か何かが突っ込んで飛び出していったような、そんな変形の仕方だ。
いったい、何が起きているんだ。望は荒い息遣いで、自分の家を見上げた。なぜか、全く見知らぬ家に見えた。どす黒いもやがかかった魔女の館のように見えた。よからぬものにとりつかれているようで、扉に触れることも躊躇われた。
足がすくむ。寒気がする。
――帰ってこないで、望!
母の悲鳴のような声が耳に残っている。
望は勇気をしぼりだし、扉に手をかけた。ゆっくりとそれを開いて、息をひそめて中に侵入する。
家の中はやけに冷えていた。外よりもずっと冷え込んでいるように感じた。ぶるっと身震いをして、望は靴のまま玄関にあがった。――胸を突き刺すような嫌な予感が、そうさせた。
玄関をあがれば、目の前には階段がある。明かりがついていないと、二階は真っ暗で何も見えない。じっと見上げていると、闇をのぞいている気分になる。そのままあの世につながっているんじゃないか、とさえ思えてしまう。和製ホラーの映画によくでてきそうな光景だ。お化け屋敷のようで、鼎は夜になると必ず、一緒に二階までついて来て、とせがんだ。
両親はどこだろうか。さっきの電話は二階の寝室からか。時間を考えれば、そうだろう。とっくに両親の就寝時間はすぎている。
望は玄関で拾ってきた野球のバットをぎゅっと握りしめ、一段目に足をかけた。
ギシッと木がきしむ音があたりに響く。――そのときだった。聞き覚えのある破裂音があたりに響き渡った。
思わず、「うわっ」と叫んで腰をぬかす。
「やめろ」だの「何をするんだ」だの、父の荒々しい声が聞こえてくる。まるでそのバックグラウンドミュージックのように、母の泣き叫ぶ声が流れてくる。――すべて、一階のリビングからだと確信した。そして、両親の身が危険にさらされていることも明らかだった。
壁に背をつけ、バットを抱きしめるようにして座りこんだ。
助けに行かなければ。自分は長男なんだ。自分がしっかりしなくては。そうは思っても、背筋に襲いかかる戦慄――それは望から闘争心を奪い取り、立ち上がる力さえも吸い取ってしまっていた。
体中が震えている。こんなことは初めてだった。バットを握りしめる手も汗で濡れ、木が湿ってきている。
自分の息遣いがやけに耳につく。
あまりの恐怖に、目をつぶっていた。瞼を開けば、ベッドの上で、「いつまで寝てるの?」と母がしかりつけてくる。そうに違いない。これは夢なのだから、と祈っていた。――だから、気づかなかった。とぼとぼとおぼつかない足取りで階段を降りてくる小さな影に。望と同じように恐怖に震えながら、勇気を振り絞って下りてくる幼い少女に。
「お兄ちゃん……」
震えた声に、望ははっと目を見開いた。階段を見上げると、パジャマ姿の妹が手すりにしがみつくようなかたちで、階段を下りてくるところだった。
「お兄ちゃん」と、再び鼎はつぶやいて、転びそうになりながら駆けおりてくる。真っ暗だというのに、その瞳が涙で潤んでいることがはっきりと分かった。
そんな妹の姿を目にして、兄としての勇気が湧き出てきたのだろう。恐怖にとりつかれ、さっきまで金縛りにかかったかのように動かなかった身体に自由が戻った。
すばやく立ち上がると、鼎を抱きとめるように迎え入れる。
「鼎、大丈夫か?」
ケガはない。両親の身に何が起きているのかは分からないが、とりあえず、鼎は無事だった。安堵しつつ、カタカタと震える妹を抱きしめる。
幼いといっても、ここで何かとてつもなく恐ろしいことが起きていることは悟っているのだろう。
望は今にも泣きそうな鼎を胸に抱き、おもむろに階段を見上げた。
たった一人、あの暗闇の中、両親の悲鳴に震えていたに違いない。そして、こうして下りてきたのだ。一度だって、夜に一人でこの階段を下りれたことはなかったというのに。
独りで、よく下りてきた。どれほどの勇気を要しただろうか。どれほど恐ろしかっただろうか。
望はぐっと唇をかみしめ、鼎を抱く腕に力をこめた。
「……ここで待ってろ」
兄として、男として、覚悟を決めた瞬間だった。
嫌嫌、と引き止める鼎を説得し、望はバットを片手にリビングへと進む。やはり母の泣き声は続いていて、それが今にも望から闘気を奪い取ってしまいそうだった。
暗く肌寒い廊下を進み、すりガラスから光が漏れる扉の前で立ち止まる。
父が誰かを説得……いや、責めている声が聞こえてくる。怒りに満ちた声だ。こんな父の声を聞いたことはない。おそらく、父自身、こんな声を今までだしたことはないだろう、と思った。
深呼吸をし、バットを握りしめる。
こんなときに役に立たないでどうする――望は己の身体を叱咤した。人体実験で創りだされた、並外れた身体能力を持つ特別な身体。今まで、本気、というものを出したことはない。全力を出せばどうなるか、望も分かっていなかった。ただ、とんでもない力を備えている自覚はあった。たとえるならば、鬼のような――。もちろん、漠然とした意識ではあったが。
今こそ、それを発揮するとき。両親への恩を返すとき。この化け物じみた身体を有効活用する絶好のチャンスが訪れたのだ――望はそう自分に言い聞かせた。
そして、恐怖を取り払うように雄叫びをあげて、扉を蹴破り、中へと突入する。
その行動は無謀。浅はかで考えなし。愚かな過信が悲劇へのトリガーを引いた瞬間に他ならなかった。
リビングに足を踏み入れ、バットを構えた十三歳の少年。その目に飛び込んできたのは、フローリングの床に這いつくばるように倒れる母の姿。その両足、太ももからは大量の血がどくどくと流れ出て、血の池をつくりだしている。その傍らには、銃口をつきつけられている父。彼もまた、苦痛の表情をうかべていた。左腹のあたりで赤いしみがひろがっている。撃たれたのだろう、とすんなり理解できた。
二人は顔面蒼白でこちらを見つめていた。その顔には絶望の二文字が張り付いている。
「……」
恐ろしい光景を目の当たりにすることは予想していたというのに、現実は十三の少年が想像できる範疇を超えていた。
バットを握りしめる手からは自然と力が抜け、身体が再び震えだす。言葉が何もでてこない。
やがて、凍てついたその場に、嫌味なほどに落ち着いた声が響いた。
「おかえり」
甘く優しい声。
望は目を見開いた。
不思議なことに、その声の主――父に銃を突き付けているその男の姿を、知覚しようとしていなかった。もしかしたら、それはせめてもの防衛本能だったのかもしれない。見えているのに、脳が認識を拒んで、その男の姿をぼやかしていた。そんなことがあり得るのかは分からない。だが、そんな気がしてしかたなかった。
回転式拳銃を父につきつけている男――いや、少年、といったほうがいいだろう。決して趣味がいいとは言えない、全身黒ずくめの格好をした少年だ。ブーツのまま部屋に上がっている。自分とそれほど年は変わらないように見えた。といっても、いくつかは年上だろう。高校生か。
顔を隠すこともせず、堂々とこちらを見ている。誇らしげにさえ見えるその態度が、余計に恐ろしかった。さらに、優しげなまなざしと、穏やかな微笑が拍車をかけている。
決して、つい先刻、銃で人の身体を撃ちぬいた人間には見えない。
「よかった、帰ってきてくれて。電話させて正解だった」
瑞々しい唇から零れでたのは、心の底から安心したような声だった。
望は意識が遠のいていくような感覚を覚えていた。思考が止まる。自分の鼓動の音さえ聞こえない。ただ、その恐ろしくも魅惑的な少年から目が離せない――見つめられて石にでもされてしまったかのような、そんな感覚だった。
父親が何かを叫んでいる。だが、何と言っているのか理解できなかった。
望の心臓は今にも発火してしまいそうなほど熱くなり、寒いはずなのに汗が噴き出し背を伝った。緊張と恐怖で体が硬直して、動けない。
少年には圧倒的な存在感があった。ひしひしと肌に伝わってくるようなプレッシャーだ。
サンタクロースにしては若いと思った。泥棒にしては落ち着きがあると思った。侠客の殺し屋にしては愛嬌があると思った。
「俺はカイン」と少年は微笑んだ。「君を迎えに来たんだ」