アベル -1-
二十四年前、少女は生を受けた。その命は神からの贈り物ではなく、人間の技術によって創られたものだった。それは、三十年前に天に召した小さな命を呼び戻すための儀式。ある男が望んだ偽りの奇跡。
しかし、少女はその男の顔も名も何も知らずに育った。自分を欲したはずの男は、まだ赤ん坊だった彼女を手放したのだ。
理由は知らない。ただ、物心がついたころには、血のつながりも何も関係のない夫婦のもとで幸せに暮らしていた。
椎名宗助と、その妻、環。子宝に恵まれなかった彼らは、知り合いから紹介された女から赤ん坊を買い取って、実の娘のようにたっぷりと愛を注いだ。椎名鼎、という彼女だけの名前を授けて。
そして彼らは、まだ幼い彼女に、過酷な現実も残酷な事実も包み隠さず教えた。彼女がクローンと呼ばれる存在であり、誰かのコピーであること。そんな彼女を望んだ男がいること。そして、その男が彼女を捨てたこと。しかし、まだ幼かった彼女が把握できたことといえば、どうやら自分が普通でないということくらい。全てを理解することはできなかった。だが、それでもよかった。十分だった。彼女は幸せだった。自分が何者だろうと気にならないほどに。
やがて少女が四才になると、彼らは彼女に兄を与えた。似たような境遇の六才の少年――誰かの生き写しとして創られた幼い命――を、当時流行りだしていた闇オークションで競り落としたのだ。彼らは彼に椎名望という名を与え、少女と同じように実の息子として大切に育てた。
六年間、裏の世界で育った望にとって表の世界で見るもの全てが真新しく、なかなか家族になじむことはできなかった。しかしそれでも、十三になるころにはすっかり打ち解け、妹である鼎とも仲の良い兄妹として周りにもうらやまれるほどになっていた。
そして、望が家族の一員になってから七回目のクリスマス。一風変わった絆で結ばれた家族のもとに、思わぬ来訪者が現れることとなる。それはサンタクロースというよりも、不吉を運ぶ死神に近いもの。それが届けにきたのは悲惨な運命。
しかし、兄妹はまだそれを知らなかった。
* * *
「ねえ、お兄ちゃん。サンタさんはいないって本当?」
小学校からの帰り道、沈みかけた太陽が明々と路地を橙色の光で照らす。そんな夕焼けに似た色をしたランドセルを背負い、隣で歩く学生服姿の兄を涙目で見上げる小学生――彼女こそ、十一年前に椎名夫婦に買い取られた赤ん坊、鼎だ。
小さな歩幅で進む彼女は、早歩きをしなければ二つ年上の兄に追いつけない。ぺたぺたと急ぐその歩調に合わせて、二つに結った茶色まじりの黒髪が、前へ後ろへ、とその華奢な肩を撫でる。
「サンタ?」
きょとんとしながら彼女の兄は鼎に振り返る。さらりと黒い髪がその目元で揺れた。
鼎の自慢の兄、望。血縁関係はないものの、七年前に彼が椎名家に養子に来てから、ずっと一緒に育ってきた。鼎をまるでお姫さまのようにいつも大切に守ってくれる、兄というよりは騎士のような存在。その整った顔立ちは周囲から羨望の眼差しを集め、空手で鍛えたたくましい体つきは学校の不良たちを遠ざけるのに一役買っていた。
「いるよ、いるよ」
思わぬ妹の問いに、一瞬妙な間をおいたものの、望は思い出したかのように薄い唇を左右に伸ばして微笑んだ。だが、そのごまかしたような高い声が、声変わりのせいで不自然にかすれて、彼の言葉はどうも嘘っぽく聞こえた。鼎は顔をしかめ、ふいっと顔をそむけた。
「やっぱり、いないんだ」
いじけたようにぽつりと言った鼎に、あわてた様子で望は「いるって!」と力強く反論する。
「毎年、プレゼントが枕元にあるだろ?」
ほらほら、と明るい調子で納得させようとするものの、鼎はぱっとしない表情で「でも」と口をすぼめてしまった。
「伊藤くんに言われたんだもん。ちゃんとサンタさんを見たことあるのかよ、て。プレゼントはお父さんが用意してるんだぞ、て……」
もちろん、伊藤というのが誰なのか、望は知る由もない。だが、おそらく鼎のクラスメイトであることは想像がつく。望の頭に浮かんだのは鼻水を垂らした生意気なガキ大将。チッと舌打ちをすると、「くそガキが……」とぼそりと悪態づいた。もちろん、鼎に聞こえないような小声で。
サンタの正体が何者か、望は誰かにはっきりと聞いたわけではない。なんとなく、成長していく上で悟ってしまったにすぎない。だから、望が「今年は俺がサンタになるから、父さんは休んでいい」と父親である宗助に告げたときには、彼は目をむいて驚いた。
「いつから父さんの正体を!?」
三十半ばの父親はまだまだ若々しく、いや、幼いといったほうがいいかもしれない。夢中になってそう問い詰めてくる様子はまるで子供だった。望は呆れつつも、そんな父親を心底愛おしく思った。きっと両親にとっては、自分はいつまでも子供なんだろう、と嬉しくもなった。
「伊藤とかいう奴がさ、サンタなんていない、てカナにふっかけたみたいだ」
本棚が四方を囲む宗助の書斎で、望は頭の後ろで手を組んでため息混じりにそう告げる。すると、宗助は回転イスから飛び上がらん勢いで顔を真っ赤にして憤慨した。
「なんて悪ガキだ! 担任に電話をして……」
「いやいや、そこまですることないっしょ」
苦笑しつつ、望は両手を掲げて父親をなだめる。放っといたら、このまま伊藤家に殴り込みにいくことは、彼の子煩悩さ加減を知る人間なら容易に想像がつく。
「とにかくさ」と自慢げに微笑んで、望は腰に手をあてがった。「今年は俺がサンタの衣装着て、カナの部屋に忍び込むよ。で、ちゃんと起こして、プレゼントを渡す。しっかりサンタから受け取れば、あいつも信じるだろ?」
「なんだ、そんなことなら、父さんでも出来るぞ」
毎年恒例の行事を奪われて寂しいのだろうか、哀しげに反論する父親に望は失笑した。
「今年は俺に任せてよ。いろいろ考えてるんだ」
「そうかぁ?」
諦めきれないようで、宗助の表情はすっきりしなかった。望はそれから二言、三言、付け加えて説得し、ようやく宗助を説き伏せた。
宗助はポケットから皮の長財布を取り出すと、サンタの衣装とプレゼントを買うだけの小遣いを望に渡す。しかし、わざとなのか、金銭感覚がないだけか、その金額は十一歳の少女のプレゼントを買うにしては不適切で、望は呆れて絶句した。
「ところで」と、宗助が切り出したのは、望が書斎を後にしようと踵を返したときだった。「なに?」と長めの黒髪をなびかせて振り返った望に、宗助は背を向けたまま問いかける。
「弟と妹、どっちがいい?」
望はハッと目を見開き、書斎のデスクに向かう父の背中をじっと見つめた。蛍光灯にぼんやりと照らされるその背中は、ずいぶん大きくたくましくも見えた。
ややあってから、望はふっと微笑む。「そうだなぁ」と感慨深げに切り出して、懐かしむような眼差しを浮かべた。
「弟かな」
望が答えると、「そうか」と満足げに宗助はうなずく。
宗助の質問が意図することがなにか、望には聞かずとも分かった。また宗助は誰か養子を取ろうとしているのだ。それも、望や鼎と似た境遇にある子供。クローンと呼ばれる存在。そして、望と同じく、人体実験で体を散々いじられた挙句、闇オークションで出品されることとなった不遇な命。
宗助は、望と鼎に隠し事をすることはなかった。彼らの出生も、宗助が知っていることは全て明かしたし、この世界に表と裏があることも全て話した。だから、今もトーキョーのどこかで、自分と同じ目にあっている――いや、自分よりひどい目にあっている子供たちが存在していることを望は知っていた。そして、そんな子供たちを宗助が助けようとしていることも。
鼎と望を育てていくうち、宗助はどうやら裏世界で売買されている子供たちに単なる興味以上のものを抱くようになったようだった。特に望から、彼が幼いころどんな仕打ちを受けていたかを聞くにつれ、彼らを救いたいという気持ちが膨らんでいったらしい。
何かできないものか――宗助がたまにつくる眉間の皺は、その苦悩をよくあらわしていた。そんな父の様子を目にするたびに、申し訳ないと思いつつも、ありがたい気持ちで胸が熱くなり、望も自分にできることはないのか常々頭を悩ませていた。だからこそ、せめて長男として家族を支えてやりたいと思っていたし、鼎が誰かにいじめられようものなら、小学校の教室に学ランで乗りこんだ。結局は、両親に迷惑をかけることにしかならなかったのだが。
書斎に沈黙が落ちて何度か古い鳩時計の秒針が時を刻んだあと、「情けないな」と、不意に宗助はつぶやいた。
「父さんには金しかないから、これくらいしかできないんだ」
どこか恥ずかしそうな、それでいて申し訳なさそうな声色だった。望は「なにを……」と顔をしかめて言いかけた。が、宗助は望に言葉を続けるすきを与えず、
「はやく買いに行かないと、店が閉まるよ」
いつもの父親らしい温かみのある口調が戻っていた。
だが、望の心にはさっきの彼の言葉がひっかかったまま。伝えたい言葉が心の底から喉まで行列となって並んでいるのに、肝心の父親が、早く行きなさい、と追い出すように急かすものだから、出すタイミングを失ってしまった。
結局、それ以上会話を交わすことなく、望は書斎をあとにした。
廊下に出ると冷たい風がどこからか吹き込んできて、望は身震いをした。フローリングの床がやたらと冷たく感じる。
古いものの、豪邸と呼んでいいほどの立派な屋敷。だが、ぜいたく品は一切見当たらず、家政婦やガードマンの姿も見られない。それは、椎名夫婦の人柄のあらわれに違いなかったが、ほかにも理由があった。
宗助の家は先祖代々侠客の一族。将来は、長として組を率いることになっている。だからこそ、彼は裏ルートで赤ん坊(鼎)を手に入れることができたのだし、闇オークションへも参加することができた。だが、彼自身の性格は温和で平和主義。特に子供好きで慈愛に満ちた人物だ。争いごとを好まず、できるならば、侠客としての道を抜けたいとさえ考えていた。だが、宗助の父親はそれを許さず、鼎が二十歳になるまでという期限付きで自由な暮らしを許されているにすぎない。
ただ、それを知っているのは、父親や彼の腹心の部下たちのみ。もし、こうして椎名家の跡取り息子が無防備に暮らしていることが知れれば、敵対している組の人間から狙われることもありうるからだ。そのため、金はあっても、椎名一家は目立たぬよう質素に暮らしていた。
だが、そんな静かな暮らしが望にとって何より幸せに思えた。たとえ金がなくても、この幸せは変わることはないだろう、と肌寒い廊下でたたずみながらしみじみ思った。
「望?」
一階のほうから、高らかな声が聞こえてきた。望ははっと我に返って「二階!」と答えて、階下へと足早に向かう。
階段を降りてきた望を迎えたのは、長い黒髪を一つにまとめた、おっとりとした顔だちの三十代前半の女性。望と鼎の育ての母、椎名環だ。決して美人とはいえないまでも、優しさが表情からあふれ出ている。誰も彼女が任侠の世界に嫁入りした女だとは思わないだろう。
「お夕飯できたわよ」
嬉しそうにそう告げられ、望は「あ、ごめん」と口をゆがめた。
「ちょっと、買い物行ってくる」
階段を降り終えても、立ち止まることなく、母の前を通り過ぎて玄関へと向かう。「ええ、今から?」と驚く母の声を背に、望は颯爽とコートを着て靴を履く。
「さき食べてていいからさ」
「もう……クリスマスイブなのよ? デート?」
不満げな母の声に、望は「まさか」とくつくつと笑った。靴ひもを縛ってから体を起こし、母に振り返ると安心させるように満面の笑みを浮かべた。
「すぐに帰ってくるから。母さんのクリスマスディナー、楽しみにしてるよ」
呆れたような笑顔を浮かべる母にそう言い残し、望は玄関から寒空の下へと飛び出した。
これからこの家で起きる悪夢のような出来事など、知る由もなく――