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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第四章
230/365

夜明け

 瞼を開けるのもおっくうだ。もう陸に立つ感覚さえ、思い出せない。そもそも、トイレに行くとき以外、この倉庫から出してはくれないのだから、日の光さえ懐かしい。

 空腹がこんなにも苦痛をともなうものだとは知らなかった。喉が渇いて声をだすのもつらい。身体を起こす力さえ湧かない。力なくかび臭い床に横たわるのみ。

 それでも、あの人はわたしを死なせたくはないのだろう。わたしが生き延びられる程度の食事と水は与えてくれる。

 口答えをすれば、殴られ、頭を床に叩きつけられる。そのたびに、あの人の中にくすぶる憎しみを感じる。あきらかに、あの人はわたしを恨んでいる。それがはっきりと分かる。

 でも、なぜ? わたしがマルドゥクの女だから? あの人の一族――ニヌルタの宿敵だから? それだけ? 使命だから? ううん、違う。あの人から感じるのは……私怨。人間くさい怨念を感じる。

 本当はわたしのことも殺したいに違いない。仕方なく生かしているんだ。けど、なんのために? わたしをつれまわして、一体、何を企んでいるの?

 不意に、あたりが明るくなったのを感じた。瞼を閉じていても、光が差し込んできたことが分かる。

 誰かが扉を開けたのだ。そして、聞こえてくる足音。ゆっくりと近づいてくる。


「ついだぞ、ナンシェお嬢さま」


 人を見下したような口調だ。

 ぼうっと瞼を開けば、目の前には見慣れた黒いブーツ。


「ニヌルタ……」


 そうつぶやいたつもりだったけど、それがちゃんと声になっているのかは自信がない。


「トーキョーだ」しぶい声で言って、彼は愉快そうな笑い声をあげる。「愛しい『リストちゃん』に会えるかなぁ?」


 ばかにしている。ぎりっと奥歯を噛み締めるけど、やはり力がでない。


「なにを……するつもりなのです?」


 かろうじて声をしぼりだす。喉から血がにじんできそうだ。

 甲板 (おそらく)から、騒がしい声が聞こえてくる。「積荷をおろせ」と誰かが叫ぶのが分かった。トーキョーについたというのは、本当なのね。


「愚問だな、ナンシェお嬢さま。俺はニヌルタの王だ。目的は決まってるだろう?」くつくつと笑いながら、ニヌルタはさげすむような口調で言った。「『災いの人形』を手に入れ、世界を滅ぼす――そのために、俺は生まれたんだ」


 そして、とニヌルタはしゃがみこんだ。そのおかげで、ほんのすこし顔を上げるだけで、その顔が確認できる。角ばった輪郭。顎の無精ひげは長さはばらばら。長髪はぼさぼさ。相変わらず、だらしない身だしなみ。それでも、神の子孫のはしくれ。そんな不清潔な姿でも、その顔立ちは美しさを感じさせる。彫りが深いせいか、目元には濃い影が落ち――一見、たれ目の優しげな印象だが――その暗闇に嗜虐性を宿した茶色い瞳を潜ませている。

 もう三十代半ばだというのに(レッキによれば)、若々しいエネルギーに溢れ、目じりにも口元にも大して皺も見当たらない。二十代と言われても信じてしまうだろう。


「そして」舐めるようにわたしの身体を見回して、再度、ニヌルタはつぶやく。「お前はそれを止めるために生まれてきた……てのに、だらしねぇざまだな。マルドゥクの女」


 ずきん、と胸が痛んだ。辱められているような気分に陥って、思わず視線をそらす。それと同時に、ふつふつと湧くよからぬ感情――憎しみだ。でも、堪えた。ぎゅっとかさかさに乾いた唇を結び、ただ沈黙を守った。

 わたしのそんな反応がつまらなかったのか、チッと舌打ちしてニヌルタは立ち上がった。


「くだらねぇ」


 彼がそう吐き捨てた――そのときだった。


「おい、兄ちゃん」聞き覚えのある声がして、誰かがあわただしく入ってきた。「トーキョーについたぞ。はやくその子を連れて、出て行ってくれ」


 この声、誰だっけ? ぼうっとする頭で思い出しつつ、わたしは顔を上げた。首に痺れをともなう痛みがはしって顔をゆがめた。ニヌルタに殴られたときにひねったんだろう。


「早く出てけ? つれないねぇ。一緒に旅をした仲じゃねぇか」


 面倒そうにニヌルタはため息を漏らす。本心ではないのはあきらか。右を向け、と言われれば左を向く。彼はそんな人間。


「取引相手の部下たちがくるんだ。そんな傷だらけの女の子が船の中にいたらまずい」


 責めるような口調でそう続けて近寄ってきたのは、四十代半ばほどの中肉中背の男だ。やたらと早口なのは、焦っているからだろうか。

 えらのはった輪郭。横に細長い目に、やや大きめの鉤鼻(かぎばな)。ふさふさと揺れる短い黒髪。アジア人……ニホン人だろうか。その手には厚地のブランケット。外は寒いんだろうか、なんて疑問に思って、開け放たれた扉を見やる。外はもう朝を迎えていたようで、赤みを帯びた光が差し込んでいた。それは暗闇に慣れたわたしの目には刺激が強すぎて、眼球の奥がちくりと痛んだ。


「なんでまずいんだよ? こうして密輸している時点で、すでにまずい立場にいるんだろ、あんた」


 どちらにしろ、トーキョーについたらさっさとこの船を下りるつもりだったはず。こうして焦らすのは、単にこの人を困らせたいからに違いない。


彼ら(・・)を知らないから、そんなことが言えるんだ」憤慨した様子でそう返し、ニホン人らしき人物は横たわるわたしを一瞥した。「万が一、人身売買に関わっていると勘違いでもされたら……」


 人身売買?

 真っ青な顔で男が口走った言葉にわたしは眉をひそめる。どうやら、それがひっかかったのはニヌルタも同じだったようで、


「人身売買だ?」とまるでわたしの気持ちを代弁するかのように、訊ねた。「そんなものがはやってんのか、ここは」

「とにかく、このブランケットを彼女に羽織らせて、アザを隠すんだ。衰弱したアザだらけの美少女なんて、彼らに見せるわけにはいかない。取引がパアになるだけじゃない。わたしの命も危なくなる!」


 強い語調で言い切って、男はニヌルタにブランケットをつきつけた。その表情はこわばって、額には汗がにじみでている。どうやら、彼は相当『彼ら』に怯えているようだ。

 ニヌルタは「ふぅん」と気のない返事をしつつ、それを受け取る。「分かったよ」


「彼らに、何か聞かれたら、適当にごまかすんだ。船酔いで気分が悪い、病院に連れて行く、とでもなんでも言って、さっさと立ち去れ。とにかく、彼らと面倒は起こさないでくれ」


 押し殺した声で「頼んだぞ」と念を押し、男はわたしをちらりとだけ見て、船倉を出て行った。


「なんだろうね?」


 突然、幼い子供の声があたりに響いた。はっとしてニヌルタの隣に目をやれば、そこには八歳ほどの少年が立っていた。ついさっきまでいなかったはずの、愛くるしい顔立ちをした少年だ。神々しい光を放つ麟粉のようなものが彼の周りを舞っている。真ん中でわけた前髪も、腰までまっすぐにのびた後ろ髪も、目を見張る漆黒。黒いだぼっとしたワンピース(のようなもの)の上に、真っ白な布をたすきのように巻いている。古代ギリシャを思わせる服装だ。


「俺は呼んでねぇぞ、レッキ」


 ぴしゃりと言われ、「ごめん」とレッキと呼ばれた少年は舌をだして首を竦めた。

 こうして見ると――服装は変だけれど――普通の子供にしか見えない。まさか、彼が天使だとは誰も想像すらしないだろう。

 ルルを嫌う神・エンリルの遣い、レッキ。『冥府の剣』に宿る、ニヌルタの守護天使だ。

 リストちゃんが持つ『聖域の剣』に宿るケットさまとは、髪と目の色は違えど、双子のようにそっくり。ニヌルタと共にいるレッキを見ていると違和感を覚えてしまうほどだ。


「ま」と、急に軽い調子でニヌルタが声を発した。「やばいテロリストと契約を結んじまったんだろうな」

「テロリスト!?」

「それしか考えられねぇだろ」言って、ニヌルタはぐるりとあたりを見回す。わたしたちを取り囲んでいるのは、大小さまざまな木の箱だ。「こんだけの銃器(・・)を売るっつーんだからよ」

 

 レッキもつられたようにぐるりと顔をめぐらせる。もし身体が自由に動かせたならば、わたしも同じことをしていたことだろう。

 銃器……わたしはごくりと生唾を飲み込んだ。そう。インドで船を乗り換えたときに、この船の船長が漏らしたのだ。この積荷はすべて、銃器と弾薬、そして火薬だ、と。それも、銃器は、比較的安い、古いタイプのものを揃えているらしい。取引相手……つまり、『彼ら』の要望だそうだ。

 その話を聞いたときの光景を思い出し、ふと、ある名前が思い浮かんだ。――レオン・リャン。香港の密輸専門の武器商人。積荷について口をすべらせた船長の名前。そして……さっきの鉤鼻の男の名前だ。

 うっかり、忘れていた。どうりで、顔も声も覚えがあったのね。


「リャン!」


 いきなり、しゃがれた怒鳴り声が聞こえてきた。甲板のほうからだ。びくっと驚きに身体が震えた。そして、バタバタとあわただしく駆け回る足音が続く。


「『彼ら』が現れたかな」


 楽しんでいるような声色で、ニヌルタはそうつぶやいた。


 リャンのアドバイス通り、ニヌルタはわたしをブランケットに包み込み、まるで介抱でもしているかのように身体を支えて甲板まで連れ出した。頭からブランケットをかぶっているせいで、顔のいたるところにあるアザは他の人からは見えないだろう。そのかわり、わたしの視界も奪われて、周りの様子が分からない。見えるのは足元だけだ。


「積荷を運び出すよ! きびきび動きな!」


 かすれた声がすぐ近くからした。さっき聞こえた怒鳴り声と同じだ。口調は乱暴だけど、どうやら女性みたい。


「おい、立ち止まるな」


 ぼそりと、ニヌルタがそう囁きかけてきた。反射的に身体がびくっと揺れる。わたしの肩を掴む彼の手に力がこもったのを感じた。


「痛……」


 そこに、一昨日、彼に蹴られてできたアザがあることをしっかり覚えているのだろうか。そう思ってしまうほど正確に、彼はアザの上から圧迫してきた。

 運動不足と栄養失調でふらつく足を、それでも必死に動かし、わたしは前に進む。

 もしかしたら、ここで大声を出して助けを求めるべきなのかもしれない。でも……


「なに、ぼうっとしてるんだ」

「誰がトラックの鍵もってるの!?」


 どうやら、頭からブランケットをかぶった怪しい人物も、あまりに忙しくて『彼ら』は気にならないようだ。というより、もともと海賊のような怪しい人たちばかりの船。たいして目立っていないのかもしれない。

 かけ声や怒鳴り声、甲板を走り回る大勢の足音。あたりは混乱を極めているのだろう。

 こんな状況の中、注目をひくほどの大声を出せる力はわたしにはない。それに、『彼ら』はテロリストかもしれないんだ。そんな人たちに助けを求めたところで、何か変わるとも思えない。もしかしたら、もっとひどい目にあうかもしれない。いえ、その前に助けてくれるとも思えない。

 しかし……なんだか、妙だ。ニヌルタに誘導されるままに甲板を進みつつ、わたしはその違和感に眉を曇らせた。

 テロリストだろう、とされる『彼ら』。その声は、どうも若い。武器商人と取引するような人間にしては、幼い、といってもいいだろう。


「久しぶりだね、シズル。今朝は君がしきっているんだね」


 背後で、そんなリャンの声がした。さっきあんなにも怯えていたのが嘘のように、すっかり落ち着きはらっている。というか、どこか懐かしむような親しみ深ささえ感じられた。その声色に、わたしの胸が軋んだ。旅行から帰ってきたわたしを「おかえり」と迎え入れたリチャードお祖父さまを思い出してしまった。こんなときに……寂しさが胸いっぱいにひろがっていく。


「まあね」と答えたのは、ずっと辺りに怒鳴り散らしていたしゃがれた声だった。「親父は入院しているし、本当は受け渡しは延期したかったところだけど……弾薬も足りなくなってきたし、しかたねぇな」

「フジモトさんはまだ良くならないのか」


 なにやら、リャンは『彼ら』の一人と――それも、おそらくはリーダー格の女性と――世間話を始めたようだった。それが徐々に遠ざかっていく。

 やがて……


「久々の陸地だな、ナンシェお嬢さま」


 わたしは、トーキョーに足を踏み入れた。


***


 とあるトーキョーの高級ホテル。最上階に位置するその一室で、男はソファに座り、なにやらノートパソコンをいじっていた。


「先生」


 時刻は十時を指していた。部屋の隅で佇んでいる女は壁にかけてあるその時計を落ち着かない様子で何度も見ながら、ソファに座る男の後頭部に声をかける。


「よく落ち着いていられますね」


 くいっとふちなしメガネをあげ、女は朱色に塗られた唇を滑らかに動かす。三十代にさしかかった彼女は、最近、成熟した女の色気がでてきた、と男にほめられるようになった。凛とした佇まいも、彼の目には艶かしく映るらしい。肉付きがよい扇情的な身体を、シックなスーツで隠そうとしているから、余計にそそられるのだ、と彼に力説されたこともある。どうやら彼は気の利いたことを言ったつもりだったようだが、それはセクハラですよ、と忠告すると、それ以後何も言わなくなった。


「君は落ち着かないのかな、(なぎさ)くん?」


 ゆったりとした声でそう訊ねられ、渚とよばれた女は筆で書かれたような眉を上げる。「当然ですわ」と胸まである長い黒髪をさらりと後ろへはらった。メガネの奥で輝く鋭い眼光は、聡明さと芯の強さを感じさせる。


「ふぅむ」と男はあやふやな返事をし、黙り込む。


 心、ここにあらず。そんな雰囲気が漂っている。話を聞いているのかも怪しい。渚は訝しげな表情を浮かべ、男の背後へと歩み寄る。


「さきほどから、何を調べていらっしゃるのですか、先生?」


 厳しい口調で言いながら、渚はソファの後ろから男のパソコンを覗き込み、


「って、オンラインゲーム!?」


 驚きと落胆からか、その声は裏返っていた。

 男のパソコン画面では、中世ヨーロッパを思わせる甲冑を着た勇者たちが広大な草原で殺し合いをしていた。画面のいたるところで血しぶきが舞い、彼女には意味の分からない単語や数字が飛び交っている。

 渚の気品漂う美しい顔立ちは、怒りにゆがむ。


「てっきり、お仕事をされているのかと思えば……またですか!? そんな場合ではないでしょう! 今日、多くの子供たちが命を落とすというのに――」


 気付けば、渚は本音を口走っていた。はっとして口を噤んで身を引くと「申し訳ありません」と頭を下げる。

 男は何も言わずにパソコンの画面を見ていた。ぐさり、と甲冑を着た勇者が別の勇者を殺し、喜んでいる。その様子に、男の凛々しい眉が曇る。やれやれ、とつぶやくと背もたれによりかかった。


「彼らは『殺し屋』を名乗ってしまった」ぽつりと男はそう漏らす。「もう、被害者だと甘やかすわけにはいかないんだよ」


 その言葉に、渚は「はい?」と顔を上げて小首を傾げる。「どういうこと、でしょうか?」


 男はすぐには答えなかった。眉間に深い皺を刻んで、深くため息をつく。


「彼らもまた、罪を償う必要がある、ということさ」

これで四章は終わりになります。ここまでお付き合いくださってありがとうございます! 次章もよろしくお願いいたします♪

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