ノート
屋上まで、和幸くんにひっぱられるままついてきてしまった。
嬉しかった。私の気持ちを汲み取ってくれたこともそうだけど、「大丈夫だ」と言ってくれたことが嬉しかった。てっきり、教室で冷たくされたときは、もう和幸くんは『ストーカー』に襲われたのかと思った。せっかくできた強い協力者だったのに……て絶望感に襲われた。
毎日のように、次々に人が私への態度を変えていった。そんな学校生活を送ってきたから……いつのまにか、人の態度に敏感になってたみたい。
屋上にでると、私の今の気持ちのように、晴れ晴れとした空が広がっている。ここまできて、和幸くんはやっと私の腕を離した。照れくさそうに離した手をぷらぷらと揺らしている。きっと、彼もこういうことをしたのは初めてなんだろうな、て気がした。
「悪かったな」
唐突に、和幸くんがそういった。
「なに?」
「さっき、カヤって呼べなくて…」
「ああ……私が変なとこ気にしすぎなだけ。こちらこそ、ごめんね」
「俺さ……」と、和幸くんはおもむろに語りだした。「なんつーか……日陰の人生なんだよ」
「え?」
何を言い出すのかと思った。前のときも…神さま、とか唐突に言い出したっけ。
「カヤと逆なんだ。誰の注目もあびずに生きてきた」
「……」
和幸くんは、私に背を向けたままフェンスのほうへ歩き出した。
「そうやって生きなきゃいけない運命っつーか……そうやってしか生きちゃいけないから」
彼自身も話したいことがまとまってないんだろう。しどろもどろに語る彼の話は理解が難しくて……何かを隠しながら話しているのは、なんとなくだけど伝わってきた。
「だから、抗体がなくてさ。さっきも、クラスの注目あびて、正直…びびってた。いや、落ち着かなかった。だから……」
彼は、なにやら口でごもごも言って、そっぽをむいている。最後のほうは聞き取れなかったけど、全然気にならなかった。
「そっか」私はそれだけ言った。
私の逆……か。彼の言う『日陰の人生』がどういう意味なのかは分からないけど、彼には彼で何かを抱えてるんだ。
「それで……と」急に声の調子がいつもの和幸くんに戻り、こちらに振り返った。「何の用だったの?」
「え?」
「俺のとこ来たんだろ。話があったんじゃないの?」
「あ……そうだった」
いけない、いけない。大事な用件を忘れるとこだった。
「昨日、言ってないことがあって。母のことなの」
「お母さん?」
「うん。多分、なんだけどね。『ストーカー』のこと、母が何か知ってるみたいなの」
私はそれから、二ヶ月前の電話の話。そして夕べのことを和幸くんに説明した。彼は、うんうん、と熱心に聞いてくれた。
「なるほどね。確かに、お母さん、怪しいな」
「……」
「直接そのこと、お母さんに聞いてみた?」
それを言われてハッとした。夕べの母の様子を思い出した。
私はうつむき、首を横にふる。
「聞けなかった。なんだか、こわくて」
「……こわい、ねえ」
彼はため息混じりにそういった。理解できない、といった様子だ。
「なあ……カヤのお父さんって何してる人なの?」
急に父の話?
「父は、貿易関係の仕事。私もくわしいことは知らないんだけど……どうして?」
聞かれて、和幸くんはなんだかあわてた様子で笑いだした。
「あ、いや……お前の家、すっげえでかかったからさ! それで……気になってな」
「そう?」
「それより、電話だよな。そうだな……たとえば、なんだけど」
和幸くんはいいにくそうに切り出す。
「盗聴器、とかどう?」
「ええ?」
盗聴器? 何を言い出すの?
「もちろん、たとえばだよ! お母さんに聞きづらいっていうからな。
電話の内容を盗聴すればいいじゃねぇかと思って」
「……」
それは……もしかしたら、また『ストーカー』から母に電話は来るかもしれないし。そのとき、電話の内容が聞けたら何か分かるかも。
でも、盗聴って…犯罪じゃない。
「和幸くんの案はありがたいんだけど……ごめんね。それは、母に悪いわ」
「そう、だよな」
なんだか、和幸くんはがっかりしているようだった。盗聴するって案は……渾身のアイディアだったのかな?
「あ……そろそろ、戻らないとな」
和幸くんは自分の腕時計をみて言った。確かに、そろそろチャイムがなりそうだ。
「ああ!」
屋上を去ろうとしたとき、和幸くんはそんな悲鳴をあげた。
「どうしたの?」
「宿題!」
「え?」
「数学の宿題、おわってねえ」
「百三十三ページの練習問題?」
和幸くんはきょとんとしている。私が言い当てたのに驚いている様子だ。
「クラスは違っても数学の先生は一緒だもの。もしかしたら、て思って。
私のクラス、そこ昨日終わったの。よかったらノート貸すよ」
「……そりゃ、助かる」
喜ぶかと思ったのに…相変わらず和幸くんはきょとんとしている。ノートの貸し借りってあまりしないタイプなのかな。
「じゃ、急いでとってくる。クラスにもってくね」
私はそう告げて、和幸くんより先に階段を駆け下りた。
そういえば私も……ノートを貸すのって久しぶりかも。なんだか、嬉しくなった。
* * *
カヤは、階段を駆け下りていった。残された俺は、ただ呆然と突っ立っていた。彼女は、なんだか嬉しそうだった。ノートを貸すことがそんなに喜ばしいこととは思えない。
きっと彼女は、そういうなんでもないことができるのが嬉しいんだ。周りの友達がしている当たり前のことをできることが嬉しいんだ。
俺は、彼女の『友達』に着実になっているんだな。
「……」
でも、その『友達』の正体は、ただの『嘘つき』なんだ。俺は、彼女の『友達』のフリして家に盗聴器をしかけようとした。彼女のためと偽って、彼女の父親をはめるために。さすがに、怪しまれて失敗したけど…。
「最悪な気分だ」
早く教室に戻って彼女からノートを受け取らなきゃいけない。でも、なぜだろう。足が重いな。俺はその場に座り込んだ。
そろそろチャイムがなるだろう。しばらく、なにも考えずにボーっとしていた。そのときだった。
「君も、創られた子なんだね」
いきなり、後ろからそんな子供の声がした。一瞬、背筋が凍った。
俺はあわてて振り返る。すると、そこには、目がうばわれるような美しいブロンドの髪をもつ幼い子供が立っていた。
「な……」
言葉がでなかった。まるで腰がぬけたように立ち上がれない。なんだろう、この異様な存在感は? ってか、いつのまに俺の後ろに? 屋上には俺とカヤしかいなかったんだ。俺はその屋上から3階へ降りる階段を見下ろして座っていた。つまり…俺の後ろには誰もいないはずだ。
「お前……誰だ?」
子供は優しく微笑んだ。時がとまったような気がした。少年の笑顔は全てをつつみこむような、おだやかで不思議なオーラをもっている。なぜか、カヤの笑顔がだぶった。
「和幸くん?」
カヤの声が聞こえ、ハッと我に返った。振り返ると、3階からカヤが俺を見上げていた。
「カヤ……」
「まだいたんだ。はやく、教室に戻らないと……」
「分かってる。後ですぐに……」
言って、俺はまた少年のほうに振り返る。
「あれ……」
だが、そこには、誰もいなかった。あわてて屋上に走っていく。
「なんで……」
屋上にも、誰もいない。念入りに周りを見渡すが、やはり少年らしき影はない。
「幻覚か?」
あたりにチャイムの音が響き渡った。俺は遅刻だ。
「創られた子供……」
あいつは確かにそういった。間違いなく、俺が何なのかを知っている。俺の秘密を……俺の正体を知っている。
俺はぐっと拳を握り締めた。ただの子供じゃないことは確かだ。
空を見上げると、さっきまで晴れ晴れとしていた青空に分厚い雲があつまってきていた。
俺は変な胸騒ぎを覚えた。