運命の夜 -12-
業火で焼け死ぬこともない。極寒でも凍え死ぬこともない。体内を流れる血は空気に触れると土に戻り、傷をふさぐ。死ぬことのない身体。死という最後の権利さえも、神に取り上げられた身体。それは、果たして自分の身体と言えるのだろうか。
神の人形――きっと、私はそれになってしまったんだ。
痛みも、空腹も、喉の渇きも、そして自分の心臓の鼓動さえ、もう感じなくなっていた。それでも、この身体は人間のふりを続ける。呼吸を続け、瞬きを続け、髪も伸び、爪も伸びてる。それは全て、人間の真似事でしかなかった。人間に怪しまれないように、と神に仕込まれた演技でしかないんだと思う。
それでも、彼と会うと胸は高鳴って、身体中が熱くなる。顔は赤くなるし、苦しくなるの。それは演技じゃない。嘘偽りはない。まやかしじゃない。錯覚なんかじゃない。きっと、この土で出来た身体に魂が残っている証なんだと思う。まだこの胸の奥に心が残っている証なんだと思う。――そう、信じたい。
だから、ちゃんと感じるの。私に覆いかぶさる彼のぬくもり、肌と肌が触れ合う心地よさ、肌が擦れて生まれる熱、首筋にかかる彼の吐息、身体のラインをなぞるように肌の上を滑っていく彼の指、耳元で囁かれる彼の声……その全てを感じることができる。
そして、彼を受け入れる痛みも。
「……んっ」
思わず、全身に力が入った。それは、久々の痛覚。もう感じることはないと思っていた感覚。取り上げられたはずの人間の証。それがなぜ、またこの身体に戻ってきたのか……そんなこと、私に分かるはずもない。奇跡、と呼ぶべき現象なのかもしれない。
張り裂けるような痛みが全身を貫いて、唇を噛み締めた。
目が覚めるような痛み。それが、すごく懐かしい。随分長いこと感じていなかった気がする。ほんの一週間なんだろうけど、それでも遠い昔のようにすら感じる。ただ、覚えているそれとはどこか違っていた。痛みは、不快な感情。痛みは苦しみの象徴。そう思ってた。でも……この痛みは、違う。何が違うのか、と言われたら分からないけど……悦びに近いものだと思えた。心も身体も満たされるような光悦感。
「カヤ」
いつのまにか閉じていた瞼を開くと、心配そうに見下ろしている彼の顔があった。無意識に零れていた涙を、彼の手がそっと拭った。申し訳無さそうな表情を浮かべ、身を引こうとする彼を――その首筋に手を回し、引き寄せる。
大丈夫か、と今にも言いだしそうな唇を、私のそれで塞いだ。何度も何度も角度を変えてはその感触を確かめて、一瞬生じた隙間に私は「大丈夫」と零した。
彼は驚いたように急に顔を離した。私の表情をしっかりと確認できるくらいに。
「大丈夫」もう一度そう言って、微笑んだ。潤んでしまう視界が悔しくてたまらない。「大丈夫だから」
懇願しているような声色だった。
彼は気遣うように微笑んで、私の髪をくしゃりと撫でた。ゆっくりと身をかがめ、そっと私の首筋に唇を押し当てる。その瞬間、ため息にも似た妙な声が口から漏れて、恥ずかしくて手の甲を噛んだ。
それでも、身体の――中も外も――いたるところを刺激されるたびに、たまらず声が零れてしまう。どうしたらいいのか分からなくて、ずっと顔をそむけて必死に何かを堪えていた。
彼の動きに合わせて繰り返される痛み。やがてそれは、ふわりとした浮遊感と痺れるような高揚感を伴うようになっていった。
身体がほてっていく。どこからともなく熱がこみあげてくる。その熱に全身が侵されていく。感覚が狂わされていく。
頭がぼんやりとして、口許を抑えていた手の力が抜けた。
「……ん、や」
だらしなく開いてしまう唇から、自分のものとは思えない甘ったるい声がこぼれていく。ときおり悲鳴にも聞こえる、吐息のような喘ぎ声。もう止められなかった。
不意に、シーツをつかむ彼の右手にぎゅっと力が入ったのが、視界の隅で見えた。それに呼応して、痛みとともに身体の奥が熱くなるのを感じた。今まで感じたことのない熱に襲われ、溶けてしまうんじゃないか、と思った。
いっそのこと、このまま、こうして溶けて消えてしまえたら、ずっといいのに。望まない選択を迫られる前に、苦しむ彼を見る前に、至福の時に溺れて消えてしまえたら――そんなことさえ、考えていた。
耳元に彼の吐息がかかって、それから彼の囁く声が聞こえてきた。何をごまかそうとしたのか、それは相変わらず、場違いなセリフで……私は思わず、笑ってしまった。
彼とのきずな――それだけは、他の全てを奪われようと、守りきりたかった。永遠でなくていい。限りある時間の中で、ただ、身体に、心に、その跡を残しておきたかった。
「忘れないで」汗ばんだ彼の背をひっかくように抱きしめ、乱れた息遣いを隠そうともせず、私は夢中で囁いていた。「幸せな時間も、ちゃんとあったこと」
どうか、彼がこの世界を恨みませんように。たとえ、どういう選択が待っているとしても。
彼にしがみつくように抱きついて、私はそう祈った。誰にというわけではなく、ただ祈っていた。