運命の夜 -11-
もう真夜中も近いというのに、トーキョーの道路は混み合っていた。クラクションの音、酔っ払いの騒ぎ声、客引きの女の嬌声、それらが混ざりあって都会の喧騒を創りだしている。
目が痛くなるほどの眩い光を放つネオンを防弾ガラスで跳ね返し、夜のトーキョーを泳ぐように走っていく一台の車。夜の闇に溶け込んでしまいそうな漆黒の車体。防音対策がとられたその車内は、そこだけが別世界のように静かなものだ。
「言葉遣い、気をつけろよ。カナ」
そんな静まり返った車内で、優しく子供を諌めるような声が響いた。囁くような音量だというのに、この静謐な狭い空間ではたとえ望まずとも耳に入ってきてしまう。
助手席に姿勢よく座っていた前田勝利は、緊張した面持ちで、肩越しに後部座席を一瞥した。斜め後ろで携帯電話を片手に座っているのは、長髪の整った顔立ちをした男。モデルのような容姿で、清潔感漂うさわやかな青年なのだが、どうしても遊び人に見えてしまう。スーツを着ていても、ホストにしか見えないのだからよっぽどだ。着こなしの問題なのか、髪をきれば、少しは硬派に見えるのか。彼が国務大臣に仕えるボディガードだ、と明かしても、おそらく大半の女性は信じないだろう。
「ああ、おやすみ」
そう言って、ボディガード――椎名望は不敵に微笑み、携帯電話をおろした。
「鼎か? 望」
唐突に、そんな低い声が背後からして、前田は慌てたように顔を真正面に戻した。背筋にぞっと悪寒が走る。この男の声を聞いただけでもこのザマだ。前田は眉を曇らせ、キリキリと痛む胸をおさえた。
彼の背後に座っているのは、本間秀実。国務大臣にして、警察庁を管理する国家公安委員会のトップ。前田は、そんな本間の秘書だ。若干二十七でそんな役職につけたのだから、誇りに思うべきなのだろうが……本間秀実には、とんでもない裏の顔があった。彼がそれを知ったのは、秘書となって一年経ってからのこと。今思えば、あの一年は、自分を見極めるためのものだったのだろう、と前田は振り返る。たとえなにがあろうと、本間を裏切ることができないほどの腰抜けかどうか。そして、自分は合格したのだ。だから、こうして――前田はぐっと膝をにぎりしめた。
そんな彼の背後で、「ええ」と椎名は背広の内ポケットに携帯電話をしまいながら、余裕の笑みを浮かべた。「これで明日の連絡先は分かりました。それと……ちゃんと『自白』は録れたのか、と」
「そのことか」本間は眼鏡の奥でぎらりと鋭い眼光を煌かせる。「さすがの鼎も慎重になっているな」
「そりゃそうですよ。僕たち兄妹は、この日のために……」
急に椎名が言葉を切ったので、前田はちらりとバックミラーで後部座席の彼の様子を伺った。椎名はじっと窓の外を見つめていた。珍しく真剣な、それも憂いすら感じ取れる表情で。
この椎名望という男が、カインに何かしら私怨を抱いていることは本間から聞いていた。だが、具体的にそれが何なのか、彼とカインの間に何があったのか、前田は知らない。いや、知ろうとしなかった、というのが正確かもしれない。知らぬが仏――そんな諺を、前田は嫌というほど思い知ってきた。このトーキョーで生き残るコツは? と誰かに聞かれれば、前田は迷うことなく、その諺を引用するだろう。
「前田くん」
そう声をかけられたのは、車が渋滞につかまったときだった。前田はびくっと怯えたように身体を震わせて振り返る。
「はい!」
静まり返った車内でそこまで声を張り上げる必要もないのは明らかなのだが。恐怖は記憶となって体に根付くもの。もはや意識的にコントロールできるものではなくなっていた。ずっと後部座席で不穏な雰囲気を漂わせて会話を続ける二人の様子に、それでなくても緊張は高まっていたのだからしかたない。
本間は呆れたようにため息を漏らしつつ、「『フィレンツェ』の防犯システムは?」と訊ねてくる。
「あ、はい」と前田はあたふたとしながらも、つい先刻連絡がきた事実を報告する。「全て、復旧したようです」
その前田の言葉に反応したのは、本間ではなく、その隣で窓の外を眺めていた椎名だった。くつくつと笑いだすと、「いくら、払ったんです?」とからかうような口調で本間に問いかける。
本間の口角がくいっと上がった。失笑を禁じえない――そんな心境だろう。
「なに、はした金だ」
あれがはした金だというのか。思わず、前田はぎょっと目を見開いた。
それが、どれほどの大金を指しているのか、彼は知っているのだ。なぜなら、その『はした金』を手に交渉をおこなったのは、ほかでもない彼だからだ。
それは、二日前のこと――前田はその夜のことを思い出す。『フィレンツェ』の館長である城嶋昇に、「金曜の夜、監視カメラも含めてすべての防犯システムを切るように」、と現金のつまった皮の鞄を手土産に直談判に赴いたのだ。彼もまた、カインをひどく憎む人間の一人。そんなことを誰がするか、とひどく憤慨した。さらに事態を紛糾させたのは、理由を言おうとしない前田の態度だっただろう。
「なぜ、城島館長にも秘密にされたんです?」前田はもごもごと口元を動かしてから、遠慮がちに本間に訊ねた。それは、あの夜からずっと疑問に思っていたことだった。理由さえ言えば、おそらく自分は胸倉を掴まれて怒鳴り散らされることもなかっただろう。「あんな大金を払わずとも、理由さえ言えば協力してもらえたのでは……」
「あの男も信用できる人間ではない」本間は前田の素朴な疑問に、苛立ったような早口で返した。「藤本和幸がカインである、とあいつに知られるのは、こちらにとっても不都合だ。奴もカインをひどく恨んでいるからな。たとえ金を積んだとしても、その怒りまでコントロールできるとは思えんよ。ここまできて、彼を殺されたらたまったものではない」
つまりは、藤本和幸を城嶋から守った――そういうことだろうか。前田はまだ釈然としないまでも、とりあえずは本間の考えは理解した。
「それで……防犯カメラまで切らせたんですか」
「そうだ」低い声でそう言って、本間は隣で涼しげな表情を浮かべる椎名に目をやる。「しかし、お前の読み通りだったな。これでもし、彼に警戒されたら、と心配していたが……」
「言ったでしょう? 藤本くんはそこまで慎重な子じゃない。目の前に助けを求めている女の子がいたら、後先考えずに助けてしまう。そんな、情熱的な子ですよ」すらすらと言いきると、椎名は冷笑する。「嫌いじゃないんですけどね、僕は」
「向こうはお前を毛嫌いしているようだがな」
本間がずばっと指摘すると、椎名はイタズラが成功して喜ぶ子供のように無邪気に笑った。
「片思いも楽しいですよ」
「くだらん冗談を」
付き合いきれん、と言いたげに、本間は冷たく言い捨てた。
その様子を助手席からじっとながめつつ、前田は不服そうな表情を浮かべていた。どうしても、ひっかかっていることがあった。どうしても、納得いかないことが残っている。それを本間に聞けば、また怒鳴られるだろうか。確実に、ため息まじりに「前田くん」と落胆したような声をもらすに違いない。
だが……前田は携帯電話を握り締めていた右手に力をこめる。緊張で手の平がひどく発汗していることが自分でも分かった。
「でも」と苦しげな声で切りだすと、本間の眉がぴくりと動いた。条件反射で体が震えた。喉が絞まる。それでも、それをこじ開けるようにして声をしぼりだす。「なぜ、ガードマンは退かせなかったんです?」
珍しく、本間は驚いたようにつぶらな瞳を大きく見開く。思わぬ問いに言葉を失ったのか、細かな皺に囲まれた唇はぎゅっと締められ開く様子はない。
「ガードマンもいないんじゃ、さすがの彼も怪しみますよ」
本間の代わりにため息混じりにそう返したのは、椎名だ。そんなことも分からないんですか、と続きそうな口調だ。
「でも」前田はそれでも食い下がる。勇気をだしてじっと椎名を見つめ、とうとう核心に触れる。「三人も亡くなった、と報告が――」
「三人で済んだ――そう言ってくれませんか、前田さん?」有無を言わさず、椎名は強い口調で前田の言葉を遮った。ハッとする前田に、鋭く、睨みつけるような視線を送りつける。「一応、人員は減らさせたんですから。努力は認めてほしいですね」
脅すような低い声に、前田は息を呑む。この男に怯えるのは、耐え難い屈辱だ。だが、震えてしまう体はどうしようもなかった。
「すみません」
気付けば、そんな言葉が口をついてでていた。もうすっかり口癖だ。前田は椎名から目をそらすと、ぐっと堪えるような表情を浮かべる。
さすがに、本間の前では言えないが……本心を明かせば、まだ納得できていなかった。カインである藤本和幸をけしかけ、不要な騒動を引き起こしたのは自分たちだ。それで奪われた三人の命――その責任は、果たしてカインにあるのか。カイン以上に、罪深いのは自分たちではないのか。彼ら三人を見殺しにしたのだから。いや、自分たちが彼らを殺したといってもいいのかもしれない。
『フィレンツェ』からの報告を受けてから、そんな罪悪感にさいなまれ、前田は自責の念に押しつぶされそうだった。そして、唐突に浮かび上がった思わぬ疑問が追い討ちをかけてきた。――いったい、自分はこうして何人、殺してきたのだろうか、と。
「やだな、前田さん。そんな思いつめた顔しちゃって」ふと、さきほどとは違い、柔らかい口調で椎名は話しかけてきた。まるで、慰めるような声色だ。だが、それでも嘲るようなニュアンスは拭いきれていない。「そろそろ、慣れてくださいよ」
前田は「慣れる?」と目をしばたたかせる。一体、椎名は何の話を始める気なのか。
「罪のない命を奪う――彼らの十八番でしょう」だからこそ、と椎名は独り言のようにつぶやいた。「彼らを駆除しなきゃならないんですよ。より良い世界のために」
前田の凛々しい眉がぴくりと動く。駆除……それは今、自分たちが取りかかっている計画のことを意図しているのだろう。――いや、計画と言えるのだろうか。自分たちがしようとしているのは……
前田はごくりと生唾を飲み込み、視線を落とした。糸くず一つ落ちていないフロアカーペットが目に入る。
「『無垢な殺し屋』……なぜ彼らがそう呼ばれるのか。考えたことあります?」
急に、椎名がそう訊ねてきた。「え」と顔を上げて戸惑った声を漏らすと、ずっと黙っていた本間が鼻で笑うのが聞こえて、前田はぎくりとした。何か答えなければ、と思考をめぐらせるものの、焦りで気の利いた返しは思いつかない。
すると、前田の注目を引くように、わざとらしく椎名が咳払い。「彼らはね、成長しないんですよ」とさらりと述べた。「いつまでたっても、世間知らずで幼稚な子供。彼らの『無垢』はそういう意味だと僕は思うんです」
どうやらそれが答えのようだが、前田には理解できない。眉根を寄せて、「はあ」と生返事をするしかできない。
車が急にスムーズに走り出した。どうやら、渋滞をぬけたようだ。
椎名は神妙な面持ちで窓の外へと目を向ける。対向車線を過ぎ去っていく車のライトが、その端整な顔立ちを照らしていく。
「人は制限された世界の中で、もがき苦しんで生きていく。だから人は考え、成長する。限られた選択肢の中で、解決策を導きだすために。
でも、カインは違う。あの子供たちは、堂々と『殺し屋』を名乗り、邪魔だと思えば好き勝手に殺している。人を殺してはならない――それはこの世界で、最低限のルールだというのに」
そこまで言って、椎名は呆れたように鼻で笑った。ニヒルな笑みを浮かべて、前田へ視線を戻す。
「彼らはルールの外に逃げ出した卑怯な子供たちなんです。考える力も、苦境の中で生き抜く力もありませんよ。ずっと、反則で勝ち抜いてきたんですから」
まるで自分が責められているような錯覚に陥って、前田はたじろいだ。それほど、椎名の瞳には怒りや狂気といったものが満ち満ちている。
返す言葉が見つからずに押し黙っていると、
「なかなか興味深い説法だったよ、望」
嬉しそうにそう横槍をいれたのは、本間だった。
「ルールを破れば罰があるのだ、と教えてやるのが、大人の務め、というわけだな」
「そういうことです」
大正解、と言いたげに、椎名は身を乗り出して本間を指差した。
その行動は、前田にとっては冷や汗ものだ。ぎょっとして身を引いたが、本間はくくっと笑うのみ。
分かってはいたが、本間はよほど椎名を気に入っているようだ。椎名の身体能力を考えれば当然か。生身でカインに対抗できる――それもここまで従順な――ボディガードはそう簡単に見つかるものではない。自分とこうまで扱いが違うのも納得できる。
だが、そう頭で理解はできても、エリートとしてここまでのぼりつめてきた彼の自尊心はひどく傷つけられていた。自分はただの使い走りでしかないのだ、と思い知らされる。それも、頼まれる仕事といえば、決して胸を張れるようなものではない。いや、人に言えるものでもない。
こんな屈辱を味わうために、ここまで生きてきたわけではない。
前田は耐えられなくなって顔を前に向きなおした。気分が悪いのは、走行中の車内でずっと後ろを向いていたからだろうか。それとも……
「それで」急に、椎名が明るい声を発した。「証拠はとれたわけですから、次は……」
「ああ。名乗りでてもらうよ、和幸くんに」本間はにんまりと笑み、椎名のセリフを奪い取る。「逃げられても困る。自ら命を絶たれても困る。仲間に悟られても困る。だから、彼には大人しく自首してもらう必要がある。穏やかにね」
「しっかし、うまくいきますかね?」
そんなやる気のない声に驚いて、前田は再びバックミラーで彼の様子を確認する。椎名は頭の後ろで手を組んで、あくびをしている。緊張感のかけらもない。
そして、「ま」と本間の答えも待たずに続けた。「失敗しても、こっちは彼の弱みを握っているわけですし」
「!」
どくん、と前田の胸に激痛が走った。「はっ」と浅い息が漏れ、頭が真っ白になった。取り乱しそうになる自分を抑え、呼吸を整える。落ち着け、と自分に言い聞かせ、なんとか我に返り――と、そのときだった。バックミラー越しに、不敵な笑みを浮かべる椎名と目が合って、呼吸が止まった。
しまった……前田は直感的にそう思った。
「カヤを傷つけるのは赦さん」
そんな二人の無言のやりとりに気付いているのか、いないのか。椎名の提案を一蹴したのは、意外にも本間だった。これには椎名も驚いたようで、きょとんとして「はい?」と本間に振り返る。
本間は険しい表情を浮かべて、椎名に視線を返す。
「十七の誕生日。無傷で健康なあれを引き渡すこと。それがあの男の条件だ。カヤになにかあれば、わたしを殺す、とも言ってきている」
「あぁ、そういえば……そうでしたね」面倒くさそうに椎名はため息を漏らした。「それにしても、例の電話の男……信用できるんですか? 会ったことないんでしょう?」
「もしでまかせなら、他の奴に売ればいいだろう。あれはいい品物だ。高値で売れる」
「どう転んでも、彼女を売るおつもりですか……」呆れ果てたように、椎名は苦笑する。「もうお金はじゅうぶんあるでしょうに」
「金の問題じゃない」本間は不機嫌そうに腕を組んで顎をひいた。「カインと関係のあった娘を手元においておきたくないだけだ」
「……なるほど」
否応なく耳にはいってきてしまう会話に、前田の顔色はみるみるうちに青くなっていった。奥歯はガタガタと震え、全身が粟立つのを感じる。無意識に目は見開いて、嫌な汗が背中を伝う。耳をふさぎたくてたまらない。この車から飛び出して、そのままどこかへ消え去ってしまいたい。
自分は逃げ出したいのだ。前田はそれに気付いて、瞼を固く閉じた。悔恨と自己嫌悪を一体何度くリ返せばいいのだろう。前田はぐっと拳を力強く握り締めた。それでも、右手に握られている携帯電話がミシっと軋むわけでもなく、非力な自分をさらに実感するのみだった。
そろそろ、本間の屋敷に近づいて、見慣れた景色が窓の外を流れていく。
「ようやく、か」と感慨深げにそうつぶやいて、本間は実に満足げな笑みを浮かべた。ふと、意味ありげな視線を椎名に向けると、低い声で告げる。「約束通り、お前たち兄妹にカインの首をやる。彼らを表にひっぱりだす以上、生きててもらってはこちらが困る。分かってるな?」
「ご心配なく」椎名はさらりと言って、口元に妖しい笑みが浮かべた。「『アベル』の無念は必ず果たします」
その椎名の言い方は、おどけているようでいて、珍しく、皮肉も嫌味も一切感じさせなかった。ただ純粋に、求めている――復讐を。
前田はなぜ自分がここにいるのか、分からなくなった。迷子のような漠然とした不安を感じ、ごくりと生唾を飲み込みうつむく。
ぽたりと額から落ちた汗が落ちて、ズボンに滲んでいくのが見えた。