運命の夜-10-
『運命の夜-10-』〜『運命の夜-12-』まで一部、順番を変更いたしました(2012/6/3)
「信じられる? 普通、勝手に他の女に服貸す? 無許可よ、無許可」キンキンと耳鳴りを起こしそうな高い声でそう愚痴りつつ、砺波は部屋の扉に鍵を差し込んだ。「無神経もいいとこよ! その女にばったり出くわしたわたしの身にもなれってのよ」
がちゃんと音を立てて鍵が開き、砺波はくるりと振り返る。
「ねえ、鼎!?」
それは同意を求めているのか、脅しているのか。怒気のこもった声と鋭い眼差しに襲われては、鼎は「はい」と追従するしかない。
延々と愚痴を聞かされ、おしろいでも塗ったかのような真っ白な顔には、戸惑いの色が浮かんでいる。誰かがこの様子を傍から見かければ、鼎が砺波に責め立てられているようにしか見えないだろう。
だが、もちろん、砺波が他人の顔色を気にするはずもなく、
「あいつは、なぁんも分かってないんだから! 今夜のことだって、どうかしてるわ」
どうやら、まだ愚痴はあるようだ。鼎はひっそりとため息を漏らした。
砺波はぶつぶつと悪態交じりに文句を続けながら、ドアを開けて部屋へと入っていく。
ここは、カインノイエの隠れ家である教会から、さほど離れていないところにあるマンション。三階建てでエレベーターもなく、鉄筋コンクリート造の小ぢんまりとしたマンションだ。オートロックもないことから、女性の入居者は少ないのだが、そこを砺波は気に入ったようだった。もっといいマンションに住んだらどうだ、という藤本の催促も跳ねのけ、高校入学とともにここに――二階の真ん中の部屋に――引っ越してきた。
鼎は辺りを一度見回してから、さらりと長い髪をなびかせて砺波のあとへとついていった。
「ああ、もう! なんで、またあいつに腹たてなきゃいけないのよ!?」
鼎が玄関に上がると、そんな雄たけびのような声が聞こえてきた。ぎょっとする鼎の前には、腰に手をあてがい、リビングへの短い廊下を闊歩する砺波の後姿。
「どうして」と鼎は遠慮がちにその背中に尋ねる。「和幸さんのこと、そんなにお嫌いなんですか?」
その瞬間、砺波は足を止めた。鼎もつられたように立ち止まる。
しばらく砺波はそのまま静止していたが、「砺波さん?」という鼎の呼びかけに勢いよく振り返った。
「だいっきらいよ! 悪い!?」
そう怒号を発する砺波の頬はほんのりと赤らんでいた。心なしか、怒鳴りつける勢いも落ちている。どうも説得力に欠けていた。それを不思議に思ってか、鼎は小首を傾げて、「はあ」と生返事をする。
「とにかく!」と、砺波は苛立ったため息とともに乱暴に言葉を吐き出した。「曽良の奴、明日、迎えに来るとか言ってたけど……あれ、なに? どこか行くわけ?」
話題が変わっても、不機嫌そうな表情もとげとげしい口調も変わりはしない。鼎はあたふたとしつつ、
「カインのリーダーのところ、かと思うの……ですが」
徐々に砺波の表情が険悪なものになっていき、それにつれて鼎の声も小さくなって、終いには消えいった。
「……明日の朝、ねぇ」
砺波は頬をひきつらせて、ぼそっと言った。それは、幼い顔立ちをした少女の口から出てきたとは思えない低い声。さらに、「ったく」と舌打ちにも似た声を吐き、砺波はパーカーのポケットから携帯電話を取り出す。カラフルな装飾がなされた真っ赤な携帯電話だ。それをぱかっと開いて、なにやらいじりだす。
放っとかれて唖然としている鼎をよそに、砺波はそれを耳に当て、天井を振り仰ぐ。かすかだが、三、四回コール音が静まり返った廊下に響く。そして、
「何考えてんのよ、あんた!?」今までとは比べものにならないほどの怒鳴り声が、マンション全体を揺らす勢いで飛び出した。「明日、補習じゃなかったの!? 進級する気ないわけ? 学業をおろそかにするな、ていつもパパは言ってるじゃない。リーダー代理だからって、甘えてんじゃないわよ!」
鼎はあっけにとられて目をぱちくりと瞬かせる。そんな彼女に目もくれず、砺波はくるりと顔を前に向きなおしてリビングへと歩いていく。
「いいわよ、わたしが連れて行くから」呆れたような声色でそう言って、砺波は髪をポニーテールにまとめたゴムをはずす。ふわりとウェーブがかった髪が華奢な背中を撫でた。「興味ないことは、すぐ忘れるんだから。あんたの悪い癖よ。ダブって、弟たちと同級生になったらどうするのよ。示しがつかないでしょう」
まるで子供を叱る母親だ。それから三言ほど小言を付け加え、砺波はようやく携帯電話をおろした。「まったく」と吐き捨てるように言って、それをベッドに放り投げる。
「さっきの、曽良ですか?」
薄桃色のベッドカバーの上を跳ねる携帯電話を目で追いつつ、鼎はリビングに足を踏み入れた。
「そうよ」と砺波はため息混じりに肩を竦める。「ほんっと、勉強に関心がないんだから。あいつ、殺し屋で一生を終えるつもりかしら」
「リーダー代理って?」
「そのままの意味よ」やれやれ、と言いたげな表情を浮かべ、砺波はパーカーのチャックに手をかけた。マッチでもこするような勢いで引きおろすと、投げやりにそれを脱ぎ捨てる。「パパが入院してるから、あいつが今、リーダーやってんのよ。アレでも、一応わたしたちのボスなわけ」
「曽良が……ボス」
寝言のようにぼんやりとつぶやく鼎に、砺波は怪訝そうな眼差しを向ける。
「そんなに不思議?」
「え!?」唐突にずばりと聞かれ、鼎は慌てたように首を横に振る。「あ、いえ、そういうつもりじゃ……」
「いいのよ、隠さなくても。自分のスケジュールも把握してない奴が、組織をまとめられるのか、ての」
独り言のようにぶつくさ言って、砺波は「ねえ?」と今度は柔らかく同意を求めた。が、やはり鼎は「はあ」と苦笑を浮かべてぱっとしない答えを返すのみ。その反応につまらなそうに唇をとがらせつつも、「まあ、いいわ」と砺波は腰に手をあてがった。
「わたし、今からお風呂はいるけど。あんたも一緒にはいる?」
「え!?」突然の申し出に、鼎は目を見開いた。動揺もあらわに、首をぶんぶんと横に振る。「いえ、そんな……」
挙動不審の鼎の様子に失笑しつつも、砺波は「あんた、カヤみたいね」と呆れたようにつぶやいた。「なるほど。和幸が『迎え』に行っちゃうわけだ」
「はい?」
「なんでもないわよ」とにかく、と砺波は語調を強めて口火を切る。「アザだらけのその体じゃ、サポートが必要でしょ? わたしが体洗ってあげる、て言ってんのよ」
「あ……」
言われてやっと気付いたかのように、鼎は自分の身体を見下ろした。砺波は頭痛でもするかのように頭を抱えた。
「あ……じゃないわよ。てか、よくそんなに落ち着いてるわよね。ひどい目にあったんでしょうに」
鼎は相変わらず、「はあ」と生返事を繰り返す。さすがに慣れてきたのか、もはや相手にしていないのか、砺波は「それにしても、珍しいわよねぇ」とさっさと次の話題を持ち出した。
鼎に歩み寄り、まじまじと身体を見回す。その大きな瞳は、腕や脚にひろがるアザを吟味でもするかのように注意深く観察していた。
「殴るなり、蹴るなり……普通、見えないところにやるもんなんだけど。こんなの初めてよ。これじゃ、売り物にならないじゃない。なんか、わざと見えるところに傷をつけたみたい――」
「それは」とすかさず、鼎は口をはさんだ。「逃げだしたとき、ガードマンともみあったんです。そのときの傷なので、そんなことを考える余裕もなかったんじゃないでしょうか」
珍しく、鼎ははっきりと答えた。それも、ずいぶんしっかりとした口調だ。
「ふぅん、そういうものかしら」合点がいかないのか、砺波は不服そうな返事をこぼす。真剣な表情でしばらく間をおき、ややあってから「別にいいけど」と背筋を伸ばした。
「で、どうするの? お風呂」
さっきまでの曇った表情は嘘のように、にこりと微笑む。その笑顔は、あどけない少女そのもの。マシンガンのように毒舌を放っていた人物とは思えない。
「せっかくなんですが……あの、一人で大丈夫です」
もじもじとしながら鼎はしおらしくそう断った。砺波は「あ、そう」とごり押しすることもなく、あっさりと納得した。
「じゃ、わたしはちゃっちゃと入ってくるから。てきとーにくつろいでてよ」
鼎は「はい」と安堵したように頬をゆるめる。
「別に、寝ててもいいし」
本音は、自分が寝たいのだろう。砺波はだるそうにあくびをしながら彼女の横を通り過ぎ、まっすぐにリビングを出て行った。
パタンと扉が閉められて、鼎の背後から廊下を歩く足音が聞こえてくる。それが、一歩、二歩、三歩、四歩。そして、扉を開ける音。閉める音。
リビングに一人残された鼎は、瞑想でもしているかのように瞼を閉じてじっとしていた。
「……」
微動だにせずに立ち尽くす鼎の姿は、まるで精巧に創られた彫刻のよう。もろく崩れさってしまいそうなか細い身体のラインと美しいその容姿が、さらに彼女を作り物に見せてしまう。
じっと息をひそめる彼女は、もはや呼吸を止めているのかもしれない。息遣いさえ聞こえない――リビングはそれほどの静寂に満ちていた。
やがて、廊下のほうからシャワーの音が響いてきた。鼎の瞼がゆっくりと開き、流れる雲の合間から現れた満月のように、その翠の瞳が姿を表す。
ばっと素早くベッドに振り返ると、その細い髪一本一本が流れるようになびく。透き通るような灰色交じりの翠石に映りこんだのは、真っ赤な携帯電話。
足元に落ちているハートのクッションを蹴り飛ばし、鼎はベッドに駆け寄って、ソレを手に取った。二つ折になっている携帯電話を開け、目にも止まらぬ早さでしなやかな指先が十一桁の番号を打ち込む。
「ふっ」と興奮とも、緊張ともとれる短い息を吐き出して、リビングの扉に振り返った。その眼差しは蛇のように鋭く、その表情は感情のない人形のよう。その様は雪の妖精とは程遠く、全てを凍りつくす雪女に近い。
コール音が鳴り出して、鼎はそれをおもむろに耳にあてた。その視線は扉に固定させたまま、ぴくりとも動かさず。
待つ必要はなかった。すぐにコール音は止み、かすかに聞こえてくるシャワーの音と、鼎の息遣いだけがリビングに残る。
そして、鼎の艶やかな唇がそっと開き――
「どうなの? 彼の『自白』は……」
携帯から聞こえてくる声に遮られたのか、鼎は途中で言葉を切った。しばらくじっと耳を傾け、妖しく目を細める。「そう」と満足げにつぶやくと、痛々しいアザが残る腕をくいっと上げ、胸元に輝く蒼いペンダントに触れた。
「ちゃんと録れたのね」
長い上下の睫を重ね、「あぁ」と嬌声にも似た声を漏らす。
「やっとここまで辿りついた」
感極まったような震えた声を漏らし、鼎は瞼を開く。笑みがこぼれてしまうのか、口元は緩んだままだ。
「大丈夫、問題ないわ。アドバイス通り、健気に振舞ってるわよ」
ペンダントから離れた手は、輪郭を隠すように垂れた長い前髪を指先でいじりはじめる。
「ええ。ちゃんと通話履歴は消す。平気よ。そっちが行動を始める前に、リーダーのとこまで案内させるわ。で、そのあとなんだけど……」
鼎はほのかに甘い香りがする部屋を見回した。十二畳ほどの長方形の部屋。なんの変哲もない『女の子の部屋』だ。かわいらしい小物が並ぶ棚に、脱ぎ捨てられた衣服。机の上にはアクセサリーが無造作に置かれ、友人と思われるセーラー服の少女との写真が飾られてある。まさかこれが『無垢な殺し屋』の部屋だとは誰も思わないだろう。鼎は皮肉そうに鼻で笑った。
「そのあとは……彼以外のカインなら、好きに始末していいのよね?」
心地よい音楽でも聴いているかのようにうっとりとした眼差しを浮かべ、鼎は携帯電話に耳をそばだてる。やがて、「分かったわ」とほくそ笑んだ。
そこに愛くるしい『少女』の姿はなく、翠に輝く瞳には憎しみの色が浮かび、その微笑には狂気が滲みでていた。そして、澄み切った声で鼎は囁く。
「本間のじじいによろしく。望兄さん」