運命の夜 -6-
「パンドラさま、和幸さま」
不意に、遠慮がちにそうつぶやかれる声がして、俺は我に返った。そういえば……と身体中が熱くなるのを感じた。忘れかけていた、照れとか羞恥心とか、そういうものが戻ってきて、慌ててカヤを引き離した。
突然、俺の身体から引き剥がされて、カヤは潤んだ瞳で俺をぽかんと見上げていた。
多分、俺は今、赤面していることだろう。それを隠すように、すぐさま振り返り、
「どうした、ユリィの天使?」
平静を装ったつもりだが、声は上擦っていた。
そう、ここにもう一人(一羽?)、いたことを忘れていた。ユリィの天使……たしか、ラピスラズリ、だったか。
ったく、黙ってないで何か一言くらい言えばいいだろ。ずっと見られていたと思うと、鳥肌が立つほど恥ずかしい。
「お邪魔して申し訳ありません」ベランダの手すりで、鳩……いや、天使は頭を下げるような仕草をしてみせた。「急用ができましたので、わたしはそろそろ失礼いたします」
「そ……そうか」
世話になっといて失礼だが、ガッツポーズでもしそうになった。やっと正真正銘二人きりになれる。って、元は俺がこいつをここに呼んだんだよな。
とりあえず、もう一回くらい、礼を言っとこう。無茶な頼みをしたんだ。
俺はカヤの肩から手を離し、くるりと身体を天使に向ける。
「いろいろ、ありがとな」
って、まんまだな。もうちょっと気の利いた言い方ができないのか、俺は。
「礼なら、どうか我が主に」
さらりとそう返され、俺は豆鉄砲を食らった鳩のごとく、きょとんとしてしまった。
「ああ」と、苦笑しつつ頭をかく。「そうするよ」
にしても……あのユリィって奴は、結局何者なんだろうな? あとでカヤに聞けばいいか。
「それでは」
相変わらずの穏やかな声でそう言い残し、ラピスラズリは翼をはためかせた。あっという間に飛び立って、屋根の陰へと消えて行く。まるで質量を感じさせない軽やかさだ。
それをぼうっと見上げていると、突然ぎゅっと腹がしめつけられるのを感じた。
「へ?」
いきなりベルトを思いっきり締め付けられたような感覚。なんだ? と見下ろしてみれば、ほっそりとした腕が目に入った。背後から回されたその手は、しがみつくように、しっかりとシャツを握り締めている。そして、背中に感じるぬくもり。柔らかな感触。
今更ながら、ざわっと胸騒ぎのようなものがして、身体の芯から熱くなる。……まずい、と思った。意味もなく、思いっきり叫びたくなった。じゃなきゃ、このまま爆発しそうで……って、何言ってんだ。
「和幸くんの匂いがしない」
「に、におい?」
冷静に、冷静に、と暴走しかねない感情を抑えるので必至だった。だから、カヤが何を言っているのかなんて考える余裕もなくて、とりあえず鸚鵡返しするので精一杯だった。
「うん」どこか、楽しげにカヤはそう答える。「このシャツ……違う人の匂いがする」
カヤは俺のみぞおちのあたりで、シャツを握り締める手に力をこめた。
他人の匂い……と、自分の身体を見下ろし、「ああ、そうか」と理由を理解して鼻で笑う。頭に浮かんだのは、あの夜、俺に『田中はじめにならないか?』と持ちかけてきた椎名の顔。あの腹立つ――だが、今回ばかりは感謝しなきゃならない――余裕と自信に満ちた笑顔が脳裏によぎり、ようやく、俺の高ぶっていた感情が収まった。
「このシャツ、『田中はじめ』のでさ」言って、俺はカヤの腕をそっとつかんだ。「椎名がいろいろ裏工作をしてくれたんだよ」
カヤの腕を解いて、俺は身体を回す。向き合ったカヤの頬には、涙の跡が残っていた。でも瞳にはもう涙の影はない。なんとなく、ホッとした。
「望さんが? 裏工作?」とカヤは目を瞬かせて尋ねてくる。「じゃあ、今夜オークションに忍び込めたのって……」
「そう。あいつのお陰だよ」
自分で言ってて胸糞悪い。だが、事実なんだから仕方ないよな。
「そうなんだ」カヤは不思議そうにそうつぶやいてから、にこりと微笑んだ。「じゃあ、感謝しないとね。望さんに」
ああ、それだよ。まさに、それが問題なんだよ。椎名に感謝しなきゃいけないんだ。
俺はがっくりと頭を垂らした。
だが……と、ちらりとカヤを見つめる。――こうして、こいつの笑顔が見れるようになったんだ。屈辱に耐えてでも礼を言う価値はあるよな。
「それにしても」と、カヤは両手を胸の前に合わせた。「いつの間にそんなに仲良しになってたの?」
「な、仲良くなってない!」
つい、ムキになって怒鳴っていた。「あ」と、恥ずかしくなってそっぽを向くと、くすくすと笑うカヤの声が聞こえた。
「分かった。仲良くないんだね」
子供をあしらうような言い方だ。俺はわざとらしく咳払いをして、「そういえば」と無理やり話題を変える。
「椎名といや……お前、制服どうしたんだ?」
唐突にそう尋ねると、カヤは笑みを消して「制服?」とぎこちなく小首をかしげた。
「ああ。制服、捨てたんだって?」言って、俺はあさっての方向を見つめ、あの夜のことを思い出す。椎名がオークションへの潜入を提案してきた夜だ。焼き鳥屋からでてきた俺を出迎え、あいつはシャツを投げてきた。泥だらけの、カヤのシャツだった。「月曜……お前が学校を早退した日だよ。泥だらけで帰ってきたんだろ? 椎名が心配してたぞ」
何があったんだ? と聞こうとして、俺ははたりと口をつぐんだ。見たこともないほど、深刻な面持ちをしたカヤの顔が目に飛び込んできたからだ。
「どうした?」顔色が悪いようにも思えて、俺は支えるようにカヤの肩に手を置いた。「体調でも悪いのか?」
すると、カヤはその言葉が信じられないかのようにハッとして、疑るような顔で見てきた。思いもしない反応に、俺はたじろいだ。
「な……なんだ? 変なこと言ったか?」
カヤは不自然に微笑んで、「ううん」と慌てたように首を左右に振る。そしてすぐにうつむいてしまった。
明らかに、「ううん」じゃない。
やっぱ……まずいこと聞いたんだろうか。でも、体調を聞いただけだし。っと、待てよ。そういえば、砺波に同じようなこと聞いて、蹴り飛ばされたことがあったな。
――生理に決まってんでしょ、気付きなさいよ!
ああ、そうだ。調子悪そうだから心配してやっただけなのに、そんな理不尽この上ない理由で激怒されたことがあった。アレのときのあいつは、逆鱗だらけの竜みたいで、面倒くさくて仕方なかった。今となっては、それも懐かしいが。
とにかく――と、意識を記憶の海から引き上げ、目の前のカヤへと戻した。この反応も……同じ理由、か?
「とりあえず」それなら、これ以上聞くべきじゃない。カヤは砺波じゃないから、蹴り飛ばしてきたりはしないだろうが。「部屋に戻って、休むか? 身体も冷えただろ?」
そういえば、よく肩や背中をさらけだしたこんな格好で寒くないな。ドレスの生地も薄そうだし。十二月が近づいているこの夜。さすがの俺だって、肌寒さを感じている。まさか、ずっと気を遣って我慢していたんだろうか。いや、でも……
不意に疑問が浮かび、俺は眉をひそめてカヤの肩を見つめた。そこに置いた手に、意識を集中させる。それでも、感じられなかった。――こんな寒空で、こんな薄着で……震えてもいない?
「ありがとう」
「!」
いきなり澄みきった声が聞こえ、俺はぎくりとした。
「なにが!?」
反射的にそんな質問が口をついて出ていた。明らかに挙動不審だ。
だが、カヤは気にする様子もなく、口元を緩め、寒さなんて忘れてしまいそうなほど、温かみに満ちた笑みを浮かべた。
「身体のこと、心配してくれて」
「……は」笑顔に見とれていたこともあっただろうが、それ以上に、カヤの言葉が不可解で、すぐには反応できなかった。ややあって、俺は頭を捻り、「いや」と戸惑った声を漏らす。「当然だろ」
訝しげにそう言うと、カヤは「うん」と懐かしむような眼差しで足元を見下ろした。
冷たい風が吹き荒れ、カヤの短い髪を揺らした。ふんわりと漂ってくる彼女の香りに、心をくすぐられるようだった。
カヤは何かを諦めたような寂しげな笑みを浮かべ、風の囁きよりも小さく儚い声でつぶやいた。
「そんな当然だったことが、今はすごく嬉しいの」
* * *
正方形の箱が、上下左右に積み重なるようなデザインの屋敷。高級住宅街が立ち並ぶこのあたりでも特に有名な、国務大臣・本間秀実の自宅だ。その平坦な屋根の上で、月明かりのもと、妖しく佇む人影。シルエットだけでも男を魅了してしまいそうな、扇情的な身体。豊満な胸にひきしまったウエスト。闇と同じ色に染まったドレッドヘアが風になびいている。その瞳はマグマのように紅い輝きを放っていた。やがて、そのマグマに一つの影が飛び込んできた。――それは一羽の白い鳥。
まばゆい輝きを放ちながら、聖霊を思わせる白い鳥はみるみるうちに形を変えていく。小さな鳥だったはずのそれは、今や大の大人を押し倒せるほどの巨体に変貌していた。翼は光の粒子となって散り、変わりに現れたたくましい四肢が、浮力を失った身体を受け止めるように地面を踏みしめた。
黄金の身体は月光を眩いばかりに反射して、風にそよぐたてがみは燃え盛る炎のようにゆらいでいる。
女はふっくらとした唇に笑みを浮かべ、ふくよかな胸を強調するかのように腕を組んだ。
「獅子」とつぶやいて、紅い瞳を細める。「わたくしへの威嚇のおつもりかしら? シャカンの遣い」
黄金の獅子は「いいえ」と、見た目にそぐわない優しげな声を漏らした。
「最低限の、誠意を見せているつもりです。アサルルヒの遣い」
「バール、と呼んでくださる?」アサルルヒの遣い――バールは艶のある色黒の腕を上げ、宣誓でもするかのような姿勢でそう告げた。「ところで、誠意とはどういう意味ですの?」
すると、獅子はほんのすこし牙が見えるほどに口を開き、そこから白い息を吐き出した。――どうやら、ため息をついたようだ。
「百獣の王だから、だそうです。わたしにも理解できません。我が主のきまぐれでしょう。お気になさらず」
どこか呆れたような口調だった。バールは眉根を寄せ、「あら、そう」と戸惑いがちに答えた。
「バール」急に、獅子は――気を取り直し――鋭い目つきでバールをにらみつけた。「アトラハシスは一体、何を考えているのですか?」
その問いに、バールは顔色を変えた。厚い唇から笑みは消え、きゅっと固く結ばれた。
「『パンドラの箱』をどうなさるおつもりなのです!?」
責めるように問いかけ、獅子は鋭い爪でコンクリートをひっかくようにして、一歩一歩バールに歩み寄る。
「本来ならば、パンドラさまを『収穫の日』までお傍でお守りすることが、あなたの主・アトラハシスの役目のはず。なぜ、『パンドラの箱』とともに姿をくらましておられるのです? 一体、何を企んで……」
「フォックスは愛する人を全て失いましたの」
ぽつりとつぶやかれたバールの言葉に、獅子は脚を止めた。「はい?」とたてがみを揺らして小首をかしげる。
バールは眉を曇らせ、紅い瞳を睫の陰に隠した。
「『裁き』が始まったあの日……ニヌルタの王が、アトラハシスの一族を皆殺しにしましたわ」
その瞬間、ハッと獅子は息を呑む。たまらず目をそむけ、「知っています」と苦しげにつぶやいた。
「……我が主から聞きました」
不意に、バールは遠くを見つめた。それでも、紅い瞳に映るのは、果てしない闇。肌寒く、寂しいほどに無限に広がる冬の夜空。
「愛する者のいない世界は、ルルにとって地獄と同じ」だから、とバールはそっと瞼を閉じた。「あの方はお人形を守りたいの。あのお人形しか、この世界であの方が愛せるものは残っていないから」
バールの言葉が理解できず、獅子は「はい?」と聞き返す。
バールはゆっくりと瞼を開き、哀しげに微笑んだ。
「愛か世界……選べるものではないのだわ。ルルの愛こそ、命を創り、世界を創造するのだから」
獅子は訝しげにバールを見つめ、何も言葉を発しようとはしなかった。バールは獅子にちらりとも視線を向けることなく、独り言のように続ける。諦めに満ちた表情で。
「わたくしの愛では、あの方を慰めることも出来ない。だから、わたくしには何も出来ませんわ。あの方を止めることも、諌めることも……だから、あの方の望みを叶えるだけ。それが、エリドーを滅ぼすことになっても」
屋根を滑るように風が通り過ぎていった。
獅子はしばらくバールを見つめ、それから呆れたように首を横に振った。そして、「バール」と子供を諌めるような声で鳴いた。
「わたしたちは天使。特にあなたは、ルルの王であられる賢者アトラハシスを導き、このエリドーを守るという尊き使命を帯びた天使」そこまで言って、獅子はぎらりと鋭い眼光をバールに浴びせる。「ルルに心を奪われ、その使命を見失えば、どうなるか。女神ティアマトのこと、お忘れではないでしょう?」
バールの赤い瞳がぎろりと獅子を睨みつけた。だが、獅子はひるむことなく続ける。
「ルルの男を愛し、ルルに味方し、神々に反旗を翻した女神ティアマト。その罰として、その身は引き裂かれ、エリドーの天と地に封じられた」
そして……と、獅子は憐れむような眼差しを浮かべて目を側める。
「ティアマトとその男との間に生まれた娘、エノクは、その魂に永遠の呪縛をかけられ、今もどこかで生き続けている。不滅の魂を抱え、躯を乗り換え、預言者として孤独に彷徨っている。永遠に……」
「無駄話はもういいかしら?」
獅子が話を終える前に、バールはさらりと一蹴した。まるで気にも止めていないような様子に、獅子はぎょっとしてバールを見上げた。
「無駄話では……」
「わたくしがこうして現れたのは、あなたに尋ねたいことがあるからですの」
バールは獅子の言葉を遮って、真剣な表情でそう切り出した。くねらせた腰に手をあてがい、刺すような視線を獅子に向けている。本気でこれ以上『無駄話』をする気はないようだ。雰囲気の変わったバールに戸惑いつつも、獅子は「わたしに?」と尋ねる。
バールはにんまりと笑み、人差し指を夜空に向けて突き出した。
「あなたの主人は何者ですの? かわいらしい坊やみたいですけど」
「……」
獅子は顎をひいて黙り込んだ。――いや、正しくは会話を始めていた。遠く離れた主と思考を繋げて、指示を仰いでいたのだ。無論、同じ天使であるバールもそれに気付いている。せかすことはせず、しなやかな両脚を肩幅に開き、大人しく答えを待っていた。
ややあって、獅子は首を横に振った。
「我が主は、自己紹介は面と向かってしたい、と言っています」
「あら、紳士だこと」
元から、答えを期待はしていなかったのだろうか。それ以上追求することはせず、バールは「それなら」とあっさりと次の質問へと移った。
「『お人形』に何があったのか、教えてくださる? あなた、知っているのでしょう?」
獅子は「何の話です?」と訝しげに問い返す。すると、バールは人差し指を厚い唇に押しつけ、妖しげに笑んだ。
「わたくしの『贈り物』が何か、ご存知ありません? あの『お人形』をどんなに遠く離れたところからでも観察できる『守護者の鏡』。もちろん、あの日の出来事も、ちゃんと見ていましたのよ」
「あの日の出来事……」
たてがみから突き出た獅子の耳がぴくりと動いた。それに何か確信を得たように、バールは目を眇める。
「月曜日……と言えば、分かるかしら? シャカンの遣い」
獅子は頭を下げ、威嚇するようにバールを睨みつけた。第三者から見れば、今にも女性が猛獣に襲われそうな恐ろしい場面だろう。が、女は微塵もひるむ様子を見せない。胸を張り、はっきりと言い放つ。
「あの『お人形』、なぜ死なないの?」